森山崩れ
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森山崩れ(もりやまくずれ)とは、天文4年12月5日(1535年12月29日)早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件をいう。 本来の地名から「守山崩れ」と書かれることも多い。その為、太田牛一が記した『信長公記』では守山と記載されているのに対し、江戸時代に大久保彦左衛門が作成した『三河物語』では森山と記載されている。
注釈
- ^ 新行紀一は「松平由緒書にある親類、一門の遺跡を立てなかったに着目し、永正三河の乱で討ち死した岩津松平家家などの旧領を安城松平家が直領にしたと想定。それが中世武士の慣習に反する行為であり、一門・家臣の離反につながった」としている[1]。一方、村岡幹生は大永3年から6年の間に作成された奉加帳の写しとされる肥前嶋原松平文書「松平一門・家臣奉加帳写」の1番目が長親、2番目が信忠になっていることから早い時期での隠居を疑問視し、むしろ嫡孫である清孝(清康の初名)が59番目に署名して既に医王山城(山中城)にいることを指摘して、清康が何らかの事情で安城松平家を離れて自立していた時期があったと指摘している[2]。
- ^ 平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする[6]。また、松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする[7]。一方、村岡幹生は遅くても天文4年4月の大樹寺多宝塔及び七堂建立の頃には安城松平家の家督は岡崎城の城主である清康、安祥城の城主は信定とすることで和睦が成立していたとする[8]。その上で、そもそも岡崎から尾張への進軍するには必ず信定の勢力圏を通過する必要があるとした上で、この当時の安祥城主が松平信定であることは他の史料から明らかであるのに信定と戦う目的ならばまずは安祥城を攻撃しなければ不自然であることを挙げ、平野をはじめとする清康と信定の対立を前提とした説は成立しないと主張する[9]。
- ^ この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している[10]。一方で、阿部定吉の謀反が実際にあったと主張する村岡幹生は、反対に清康が一門を重視するようになったことで被官、特に旧岡崎松平系の家臣の反感を買ったことが清康暗殺の一因としている[11]。
- ^ 明智憲三郎は二代続けての暗殺の背後に、織田信秀による謀略の可能性を提示している。
- ^ 広忠の嫡男である竹千代(徳川家康)は父の死後、8歳で家督を継いでいる。
- ^ 『三河物語』の著者大久保忠教の伯父忠俊は、阿部定吉と共に松平広忠の岡崎入城を助けたとされる。
出典
- ^ 平野 2002, p. 233.
- ^ 村岡幹生「安城松平一門・家臣奉加帳写の考察」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)P39-48.
- ^ 松平記では雑兵1000余騎、三河物語では1万余。
- ^ 朝野旧聞裒藁によると織田信光、大給松平親乗、長沢松平上野介、小河の水野信元は松平信定の婿であり、長陣は危険とするのが理由としている。
- ^ 柴裕之 著「桶狭間合戦の性格」、黒田基樹 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月、296頁。ISBN 978-4-86403-322-0。
- ^ 平野 2002, pp. 281–283.
- ^ 平野 2002, p. 300.
- ^ 村岡 2023, pp. 237–239.
- ^ 村岡 2023, pp. 239–240.
- ^ 平野 2002, pp. 294–295.
- ^ 村岡 2023, pp. 245.
- ^ 平野 2002, p. 326.
- ^ 村岡 2023, pp. 244.
- ^ 村岡 2023, pp. 218–219.
- ^ 村岡 2023, pp. 245–246.
- ^ 村岡 2023, pp. 242–246.
- ^ 村岡 2023, pp. 225–231.
- ^ 村岡 2023, pp. 246–249.
森山崩れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 20:37 UTC 版)
享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った。 天文3年6月22日には、猿投神社を焼き討ちし、9つの堂塔を焼失させる。これらはその後、梅坪城主の三宅氏や那須氏などが再建した。 そして勢いに乗った清康は、斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する大軍で尾張に侵攻。天文4年(1535年)12月、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25。 清康の遺骸を岡崎に運ぶ途中、腐敗が酷くなったために仮に祭った墓が、西尾市 長縄町の観音寺(浄土宗西山深草派) 近くの畑地にある。後に大樹寺に移された。その跡地には、現在も清康の祠として残っている。 近年ではこの戦いは織田信秀と対立する織田藤左衛門尉を清康が支援し、これに対して織田信秀と松平信定が連携する構図の中で発生したとされ、信定による陰謀とされる背景となっている(信定の妻は信秀の姉妹であった)。 なお、正豊が清康殺害に用いた刀が「千子村正」と伝えられている。「村正」が徳川家に仇なす妖刀であり、家康が村正を嫌ったという伝説の一部として語られることがあるが、実際には家康の生前にはそのような認識はされていなかったと見られている。
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