森山崩れとは? わかりやすく解説

森山崩れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 07:49 UTC 版)

森山崩れ(もりやまくずれ)とは、天文4年12月5日1535年12月29日)早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊暗殺された事件をいう。 本来の地名から「守山崩れ」と書かれることも多い。その為、太田牛一が記した『信長公記』では守山と記載されているのに対し、江戸時代に大久保彦左衛門が作成した『三河物語』では森山と記載されている。


注釈

  1. ^ 新行紀一は「松平由緒書にある親類、一門の遺跡を立てなかったに着目し、永正三河の乱で討ち死した岩津松平家家などの旧領を安城松平家が直領にしたと想定。それが中世武士の慣習に反する行為であり、一門・家臣の離反につながった」としている[1]。一方、村岡幹生は大永3年から6年の間に作成された奉加帳の写しとされる肥前嶋原松平文書「松平一門・家臣奉加帳写」の1番目が長親、2番目が信忠になっていることから早い時期での隠居を疑問視し、むしろ嫡孫である清孝(清康の初名)が59番目に署名して既に医王山城(山中城)にいることを指摘して、清康が何らかの事情で安城松平家を離れて自立していた時期があったと指摘している[2]
  2. ^ 平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする[6]。また、松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする[7]。一方、村岡幹生は遅くても天文4年4月の大樹寺多宝塔及び七堂建立の頃には安城松平家の家督は岡崎城の城主である清康、安祥城の城主は信定とすることで和睦が成立していたとする[8]。その上で、そもそも岡崎から尾張への進軍するには必ず信定の勢力圏を通過する必要があるとした上で、この当時の安祥城主が松平信定であることは他の史料から明らかであるのに信定と戦う目的ならばまずは安祥城を攻撃しなければ不自然であることを挙げ、平野をはじめとする清康と信定の対立を前提とした説は成立しないと主張する[9]
  3. ^ この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している[10]。一方で、阿部定吉の謀反が実際にあったと主張する村岡幹生は、反対に清康が一門を重視するようになったことで被官、特に旧岡崎松平系の家臣の反感を買ったことが清康暗殺の一因としている[11]
  4. ^ 明智憲三郎は二代続けての暗殺の背後に、織田信秀による謀略の可能性を提示している。
  5. ^ 広忠の嫡男である竹千代(徳川家康)は父の死後、8歳で家督を継いでいる。
  6. ^ 『三河物語』の著者大久保忠教の伯父忠俊は、阿部定吉と共に松平広忠の岡崎入城を助けたとされる。

出典

  1. ^ 平野 2002, p. 233.
  2. ^ 村岡幹生「安城松平一門・家臣奉加帳写の考察」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)P39-48.
  3. ^ 松平記では雑兵1000余騎、三河物語では1万余。
  4. ^ 朝野旧聞裒藁によると織田信光、大給松平親乗、長沢松平上野介、小河の水野信元は松平信定の婿であり、長陣は危険とするのが理由としている。
  5. ^ 柴裕之 著「桶狭間合戦の性格」、黒田基樹 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月、296頁。ISBN 978-4-86403-322-0 
  6. ^ 平野 2002, pp. 281–283.
  7. ^ 平野 2002, p. 300.
  8. ^ 村岡 2023, pp. 237–239.
  9. ^ 村岡 2023, pp. 239–240.
  10. ^ 平野 2002, pp. 294–295.
  11. ^ 村岡 2023, pp. 245.
  12. ^ 平野 2002, p. 326.
  13. ^ 村岡 2023, pp. 244.
  14. ^ 村岡 2023, pp. 218–219.
  15. ^ 村岡 2023, pp. 245–246.
  16. ^ 村岡 2023, pp. 242–246.
  17. ^ 村岡 2023, pp. 225–231.
  18. ^ 村岡 2023, pp. 246–249.


「森山崩れ」の続きの解説一覧

森山崩れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 20:37 UTC 版)

松平清康」の記事における「森山崩れ」の解説

享禄3年1530年)には尾張国再出兵、岩崎城落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った天文3年6月22日には、猿投神社焼き討ちし、9つ堂塔焼失させる。これらはその後梅坪城主三宅氏那須氏などが再建した。 そして勢い乗った清康は、斎藤道三との対立苦戦する織田家間隙をついて、8千名余り称する大軍尾張侵攻天文4年1535年12月清康尾張侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城攻めた。この守山の陣の最中12月5日12月29日)、清康大手門付近突如家臣阿部正豊弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25清康遺骸岡崎に運ぶ途中腐敗酷くなったために仮に祭った墓が、西尾市 長縄町観音寺(浄土宗西山深草派) 近く畑地にある。後に大樹寺移された。その跡地には、現在も清康の祠として残っている。 近年ではこの戦い織田信秀対立する織田藤左衛門尉を清康支援し、これに対して織田信秀松平信定連携する構図の中で発生したとされ、信定による陰謀とされる背景となっている(信定の妻は信秀姉妹であった)。 なお、正豊が清康殺害用いた刀が「千子村正」と伝えられている。「村正」が徳川家仇なす妖刀であり、家康村正嫌ったという伝説一部として語られることがあるが、実際に家康生前にはそのような認識はされていなかったと見られている。

※この「森山崩れ」の解説は、「松平清康」の解説の一部です。
「森山崩れ」を含む「松平清康」の記事については、「松平清康」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「森山崩れ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「森山崩れ」の関連用語

森山崩れのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



森山崩れのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの森山崩れ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松平清康 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS