江口の戦いとは? わかりやすく解説

江口の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 22:11 UTC 版)

江口の戦い(えぐちのたたかい)は、天文18年(1549年6月12日から6月24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶軍と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦いである。江口合戦とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 下総・円福寺の記録によると、直昌を討った人物は100歳くらいまで生き、円福寺に寄寓して早器居士と呼ばれていた[7]

出典

  1. ^ 長江 1989, pp. 96–101.
  2. ^ 今谷 2007, pp. 140–144.
  3. ^ 福島 2009, pp. 102–103.
  4. ^ 長江 1989, pp. 101–104.
  5. ^ 今谷 2007, pp. 144–148.
  6. ^ 福島 2009, pp. 103–104.
  7. ^ 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、183頁。 
  8. ^ 長江 1989, pp. 104–106.
  9. ^ 今谷 2007, pp. 148–150.
  10. ^ 福島 2009, pp. 104–105.
  11. ^ 今谷 2007, pp. 149–150.


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江口の戦い

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三好政長」の記事における「江口の戦い」の解説

長慶・政長陣営互いに打つ手無く膠着状態のまま天文18年迎えたが、2月になり長慶出陣し榎並城包囲、政長も丹波迂回して摂津向かい榎並城接近3月1日榎並城付近柴島城落とされ伊丹城引き上げたが、4月晴元摂津出向くと軍を立て直し5月三宅城占拠して晴元迎え入れ6月11日三宅城から南下柴島城榎並城付近江口城入城した。しかし、晴元戦略独力で長慶立ち向かえないため六角定頼義賢父子援軍を待つというものだったが、政長は政勝の窮地待ちきれず前線江口城進み自ら孤立してしまった。 長慶はこの機を逃さず江口城周辺占拠して三宅城との通路遮断、政長は三好軍に包囲され24日援軍六角軍が到着する前に長慶江口城攻め込まれ討死した(江口の戦い)。政勝は榎並城放棄して行方が分からなくなり晴元長慶追撃恐れ京都逃亡した。これによって幕政担ってきた細川政権崩壊し消滅することになる。 茶人として著名で、天下肩衝1つ新田肩衝所有した。後に今川義元織田信長所持した名刀左文字は、元々は政長(宗三)の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれる

※この「江口の戦い」の解説は、「三好政長」の解説の一部です。
「江口の戦い」を含む「三好政長」の記事については、「三好政長」の概要を参照ください。

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