継嗣問題とは? わかりやすく解説

継嗣問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 03:41 UTC 版)

峰姫」の記事における「継嗣問題」の解説

斉脩と峰姫には子女生まれず、結婚10年目の頃から継嗣問題が表面化する文政6年1823年)の頃、峰姫の父である家斉は、多くの子のうち誰か水戸家養子遣わしたいと峰姫もらしたという。会沢正志斎伝え風説によると、文政11年1828年暮れ峰姫義弟・敬三郎(斉昭)の長女賢姫を養女にとり、それに清水恒之丞(徳川斉彊)を迎えて婿とし、水戸家を継がせようとしたという。幕府との緊密さを求め上士層に対し、おもに下士からなる改革派はこれに激しく反発した文政12年1829年)、5月より斉脩は病に伏し10月4日死去した結局、斉脩の遺書により斉昭が9代藩主になるまで水戸藩継嗣騒動大きく揺れた峰姫はこの時、公開され家老宛の遺書だけでなく、自分宛の遺書にも斉昭を養子にする旨が記されてあったとして、斉昭擁立支持するほどなく剃髪して峯寿院号した後は斉昭の養母として、水戸藩幕府との関係融和努め、斉昭が天保15年1844年)に隠居・謹慎申し付けられると、復権運動加わり、主に大奥向けた活動一翼担った弘化4年1847年)、斉昭の七男慶喜一橋徳川家養子となる。 嘉永2年1849年3月、斉昭の藩政参与認められ9月には妹・峯寿院をたずねるという名目将軍在職中家慶小石川水戸藩邸を訪問したさかのぼって嘉永元年1848年)には、斉昭の長男水戸藩主継いだ篤と家慶養女線姫との縁組内意伝えられ嘉永5年1852年婚儀が行われた。 嘉永6年1853年)没。異母兄家慶死去から4日後のことである。斉昭と幕府との関係が再び悪化していく一因ともなった

※この「継嗣問題」の解説は、「峰姫」の解説の一部です。
「継嗣問題」を含む「峰姫」の記事については、「峰姫」の概要を参照ください。

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