友玄の継嗣問題とは? わかりやすく解説

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友玄の継嗣問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:29 UTC 版)

伊藤友玄」の記事における「友玄の継嗣問題」の解説

明暦元年(1655年)、友玄が死去すると、3男(友次、当時三木之昌、22歳)と5男(友親、18歳)といずれを継嗣とするか、藩内で問題となった。『水府系纂』の友親の項には、藩主・頼房と世子光圀の間で考え違いがあったことが書かれている。その要旨は、「友親に継がせたい」という友玄の遺命光圀支持し、頼房にその実現を願ったものの、頼房は、「兄である之昌(友次)とすべきだ」という考え変えなかった、ということである。結果は、年若い友親が自ら身を引き、之昌が相続した。 『桃蹊雑話』にもこの話が載っている。これによると、光圀は、友玄の継嗣定まらないのを憂いて、家臣を介して友玄の意向聞いた。友玄は、「(家に残っている)友親としたい。」と答え光圀もそれを支持したしばらくして、友玄が死去したが、頼房は、「之昌は兄であり、之昌を嗣とすべきだと言い光圀が友玄の遺命があると言っても聞かない結論出ないまま数か月過ぎた。この状況伝え聞いた友親は、「公(頼房)と世子光圀)の意見が違うということであるが、我が家継嗣問題などは小事である。しかし、これによって世子が公から不興を被ることになったら、お家一大事である。之昌は外祖父養子となっていても我が兄である。私如きは、他日奉公ができ、その勤労以って小禄受けられれば結構である。」と誠心頼み込んだ程なくして、之昌を嗣とすることが決まったということである。 以下は、『水府系纂』等に基づく友次、友親およびその子・孫略歴小姓小姓頭書院番頭大番頭経て老中となっており、友玄が獲得した家格継承している。また、石高は、代によって多少増減はあるが、友次の子孫玄蕃襲名)が1,100石、友親の子孫が1,000石であり、結果としては、友玄の石高2,100石を友次の家と友親の家とが分割相続した形となった

※この「友玄の継嗣問題」の解説は、「伊藤友玄」の解説の一部です。
「友玄の継嗣問題」を含む「伊藤友玄」の記事については、「伊藤友玄」の概要を参照ください。

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