友玄の継嗣問題
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明暦元年(1655年)、友玄が死去すると、3男(友次、当時は三木之昌、22歳)と5男(友親、18歳)といずれを継嗣とするか、藩内で問題となった。『水府系纂』の友親の項には、藩主・頼房と世子・光圀の間で考えに違いがあったことが書かれている。その要旨は、「友親に継がせたい」という友玄の遺命を光圀が支持し、頼房にその実現を願ったものの、頼房は、「兄である之昌(友次)とすべきだ」という考えを変えなかった、ということである。結果は、年若い友親が自ら身を引き、之昌が相続した。 『桃蹊雑話』にもこの話が載っている。これによると、光圀は、友玄の継嗣が定まらないのを憂いて、家臣を介して友玄の意向を聞いた。友玄は、「(家に残っている)友親としたい。」と答え、光圀もそれを支持した。しばらくして、友玄が死去したが、頼房は、「之昌は兄であり、之昌を嗣とすべきだ」と言い、光圀が友玄の遺命があると言っても聞かない。結論が出ないまま数か月が過ぎた。この状況を伝え聞いた友親は、「公(頼房)と世子(光圀)の意見が違うということであるが、我が家の継嗣問題などは小事である。しかし、これによって世子が公から不興を被ることになったら、お家の一大事である。之昌は外祖父の養子となっていても我が兄である。私如きは、他日奉公ができ、その勤労を以って小禄を受けられれば結構である。」と誠心頼み込んだ。程なくして、之昌を嗣とすることが決まった、ということである。 以下は、『水府系纂』等に基づく友次、友親およびその子・孫の略歴。小姓→小姓頭→書院番頭→大番頭を経て、老中等となっており、友玄が獲得した家格を継承している。また、石高は、代によって多少の増減はあるが、友次の子孫(玄蕃を襲名)が1,100石、友親の子孫が1,000石であり、結果としては、友玄の石高2,100石を友次の家と友親の家とが分割相続した形となった。
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