うめだ‐うんぴん【梅田雲浜】
梅田雲浜 (うめだうんぴん)
うめだうんぴん 【梅田雲浜】
梅田雲浜 うめだ うんぴん
福井小浜生まれ。父は小浜藩士。藩校の順造館に入り崎門学(きもんがく)を学び、京都や江戸に遊学。26、7歳の頃、祖父の本姓の梅田を名乗る。以後、大津で湖南塾を開き、京都の望楠軒講主となる。海防に関する建書を藩に送ったが、これが藩主酒井忠義の忌諱にふれ、嘉永5年(1852)に士籍を削られた。ペリー来航後、尊王攘夷派の中心となり、日米通商条約調印反対や、一橋慶喜擁立、大老井伊直弼の排斥などを図った。安政の大獄が始まると捕らえられ、江戸で取り調べ中に病死した。
キーワード | 学者 |
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号・別称等 | 定明 |
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梅田雲浜
梅田雲浜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/13 14:23 UTC 版)
梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日〈1815年7月13日〉- 安政6年9月14日〈1859年10月9日〉)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者[1]。通称は源次郎[2]。名は義質(よしただ)、のちに定明(さだあきら)[2]。号は雲浜のほか、湖南、東塢がある[3]。
- ^ a b 歴史散歩 その(2)神出 - 園城寺(三井寺、「車路。歴史の重みと貴人を乗せた牛車が行く」の箇所を参照)
- ^ a b c d e 井上勝生. "梅田雲浜". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年12月2日閲覧。
- ^ "梅田雲浜". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年12月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 三井美恵子. "梅田雲浜". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2023年12月2日閲覧。
- ^ "梅田雲浜". 百科事典マイペディア. コトバンクより2023年12月2日閲覧。
- ^ ★上原立斎★ - 高島市立図書館(高島ものしり百科・先人たち)
- ^ "梅田千代". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年1月13日閲覧。
- ^ "梅田雲浜". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年12月2日閲覧。
- ^ 服部之総「志士と経済」(1934年)『黒船前後・志士と経済』岩波書店〈岩波文庫〉1981年、[要ページ番号]
梅田雲浜
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