胥吏
胥吏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。 胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを民間から募集した徭役の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり、胥吏無くして行政は機能しない状態であった。 この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して3年程度で別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(3年知府をやれば、10万銀貯まる)と言われるような状態であった。 この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。
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