胤祀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/30 07:48 UTC 版)
胤禩インシは、清朝聖祖康熙帝の第八皇子。後に世宗雍正帝の忌み名「胤禛」を避諱して允禩インシに改めた。尚、「禩」は「祀」の異体字の一つ。[4]
- ^ 参考:漢文 [胤禩], 拼音 [yìnsì], 満文 [ᡳᠨ ᠰᡟ], 転写 [in sy]。
- ^ a b 参考:漢文 [允禩], 拼音 [yǔnsì], 満文 [ᠶᡡᠨ ᠰᡟ], 転写 [yün sy]。
- ^ 参考:満文 [ᠠᡴᡳᠨᠠ], 転写 [akina], 漢文 [阿其那], 拼音 [aqínà]。
- ^ 参考:「禩」は「祀」の異体字。Wikipediaの記事名には表示されない可能性がある為、記事名には「祀」を用いた。
- ^ “康熙20年2月10日段13388”. 聖祖仁皇帝實錄. 94. 不詳
- ^ a b c d e f g h 维基百科「允禩」より引用、典拠不詳。
- ^ “康熙37年3月2日段18381”. 聖祖仁皇帝實錄. 187. 不詳
- ^ “康熙47年9月7日段21356”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月25日段21370”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月29日段21374”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年11月28日段21418”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ a b “康熙48年2月26日段21473”. 聖祖仁皇帝實錄. 236. 不詳
- ^ “康熙48年3月10日段21485”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳
- ^ 参考:「凡應行走處俱懶惰不赴」(『聖祖仁皇帝實錄』巻262, 康熙54年正月29日/段22984)、「溺職」(『清史稿』巻8, 康熙54)。
- ^ “康熙54年正月29日段22984”. 聖祖仁皇帝實錄. 262. 不詳
- ^ 参考:「○調山西布政使・朝琦、爲甘肅布政使司布政使。陞御史・雍泰、爲山西布政使司布政使。」(『聖祖仁皇帝實錄』卷215/康熙43年3月1日/段20116) とある通り、康熙43年時点で雍泰は「御史」から「布政使」に昇格しているが、康熙47年以降に現れる雍泰私刑騒動の記事五本全てが「布政使」ではなく「御史」としている。私刑が康熙43年以前の事件だからなのか、それとも単に「布政使」と「御史」を混同しているだけなのかは不明ながら、三、四年前の事件がここに来て突然掘り起こされるとは考えにくい為、また皇太子が自由に発言していることから、本記事では、皇太子の廃位 (康熙47年9月) 前のこととした。尚、『世宗憲皇帝實錄』では元号「雍正」を避諱して「雍yōng泰」から「永yǒng泰」に書き換えている。
- ^ a b “雍正4年6月3日段26167”. 世宗憲皇帝實錄. 45. 不詳
- ^ a b c d e “康熙47年10月1日段21376”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ a b c “康熙47年10月4日段21379”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ 参考:『聖祖仁皇帝實錄』では「厩長吳達理與御史雍泰、同出關差。因雍泰少與銀兩、雅齊布訴之允禩。」(卷235, 康熙47年10月4日/段21379)、また『世宗憲皇帝實錄』では「厩長吳達禮與御史永泰、同出關差。永泰所給銀兩不多。」(卷45, 雍正4年6月3日/段26167) となっているが、『清史稿』では「厩長吳達理與御史雍泰同榷關稅,不相能,訴之允禩」(巻220) となっている。「厩長」は官僚の出張に馬を曳いて同伴する官吏であり、監察を主任務とする「御史」とはその業務の性格が全く異なる。『清史稿』の「同榷關稅」は、二人が共同で関税業務にあたったという意味にとれるが、「出關差」を「關差を出でる」ではなく「關の差に出る」と理解したことによる誤りか。「出差」は中国語で出張の意。「差」は役務の意で、「〜差」で特定の役務を指す為、「關差」を関税に絡んだ役務の意にとり違えたか。「不相能」は不仲の意だが、『清史稿』に仲の良し悪しについての記載はみられない。
- ^ a b c d e “康熙53年11月27日段22940”. 聖祖仁皇帝實錄. 263. 不詳
- ^ a b “雍正3年4月16日段25801”. 世宗憲皇帝實錄. 31. 不詳
- ^ “康熙55年9月12日段23412”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月16日段23414”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月18日段23416”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月23日段23421”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月25日段23423”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ 参考:清太祖ヌルハチ第一子チュイェンの子孫。
- ^ “康熙55年9月27日段23424”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月28日段23425”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年9月30日段23427”. 聖祖仁皇帝實錄. 269. 不詳
- ^ “康熙55年10月5日段23432”. 聖祖仁皇帝實錄. 270. 不詳
- ^ “康熙56年正月29日段23521”. 聖祖仁皇帝實錄. 271. 不詳
- ^ a b c d “康熙47年10月4日段21379”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “列傳四 (安和親王岳樂)”. 清史稿. 217. 清史館
- ^ “順治14年11月8日段6974”. 世祖章皇帝實錄. 113. 不詳
- ^ “康熙13年9月24日段11421”. 聖祖仁皇帝實錄. 49. 不詳
- ^ “康熙29年2月2日段16155”. 聖祖仁皇帝實錄. 144. 不詳
- ^ a b “康熙39年12月24日段19203”. 聖祖仁皇帝實錄. 202. 不詳
- ^ a b c d “雍正四年正月28日段26051”. 世宗憲皇帝實錄. 40. 不詳
- ^ “雍正元年12月1日段25334”. 世宗憲皇帝實錄. 14. 不詳
- ^ 参考:『世宗憲皇帝實錄』では「朕將允禩晉封親王時、伊妻外家向伊稱賀、伊云『何喜之有。不知隕首何日。』等語。」で、「伊かれ」は明らかに允禩を指しているが、『清史稿』巻220には「封親王命下,其福晉烏雅氏對賀者曰:『何賀為?慮不免首領耳!』」とあり、この発言主を正室ウラ氏としている。
- ^ “列傳一 (后妃)”. 清史稿. 214. 清史館
- ^ 安, 双成 (1993). “ᠰᡳᠨ ᠵᡝᡴᡠ ᠵᡝᡨᡝᡵᡝ ᠠᡥᠠ sin jeku jetere aha” (中文). 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 497 . "食金斗粮之奴仆,内务府管领下食口粮人,通称辛者库。"
- ^ “康熙53年11月26日段22939”. 聖祖仁皇帝實錄. 261. 不詳
- ^ “世宗本紀”. 清史稿. 9. 清史館
- ^ 参考:维基百科「允禩」(記事翻訳元) には「嫡福晉郭絡羅氏,皇朝文典的冊文亦作郭爾羅斯氏。和碩額駙明尚之女,生母為岳乐第七女和硕格格。康熙三十六年定婚,康熙三十七年成婚。雍正四年正月,世宗以殘刻之罪名革去郭絡羅氏的福晉頭銜,休回外家,不准對外傳遞消息。」とあり、正室はゴロロ氏とする根拠に『清史稿』巻9を挙げているが、実際の巻9には「烏雅氏」とある。『皇朝文典』は編輯時点で確認できていないが、ここではひとまづ『清史稿』巻9に従いウヤ氏とする。
- ^ 参考:『清史稿』巻255には「孫思克,……父得功,……思克其次子也。……曾孫慶成……。」、巻166には「孫承運,……思克子。」、巻346には「慶成,孫氏,……思克曾孫,……五福孫也。」とそれぞれある。以上を整理すれば、孫得功 - 孫思克 - 孫承運 - 孫五福 - 孫慶成となり、慶成が五福の孫というのは恐らく誤り。慶成が五福の孫である為には、承運と五福とが叔甥関係でないといけない。また、『聖祖仁皇帝實錄』に現れる五福が孫承運の子で間違いないなら、胤禩と和碩愨靖公主とは兄妹関係である為、胤禩の娘と公主の息子の関係はイトコ婚にあたる。
- ^ 参考:毛氏との間にできた娘について、维基百科「允禩」には「康熙四十七年戊子五月初八日巳时生」、また「雍正二年甲辰六月,她嫁给姑妈和硕悫靖公主之子、表兄弟孙五福」とあるが、夫・孫五福の母、つまり姑・和碩愨靖公主は胤禩の妹で、康熙45年に生まれている。従って胤禩の娘と妹・公主とは二歳しか離れていない。妹・公主が仮に十代で孫五福を産んだとしても、胤禩の娘が孫五福より十歳以上年長ということになる。また、『聖祖仁皇帝實錄』卷235 (康熙47年10月4日/段21379) には、康熙47年10月時点で胤禩にはまだ子がないという康熙帝の発言が記載されていて、维基百科「允禩」と食い違う。以上を以て、本記事では康熙47年出生説を採らない。同じく、典拠不詳のため雍正2年に婚嫁したという説と「郡主于乾隆四十年乙未十一月二十一日巳时卒,年六十八岁。」という説も採らない。
- ^ “雍正2年6月7日段25523”. 世宗憲皇帝實錄. 21. 不詳
- ^ “諸王六 (世宗諸子)”. 清史稿. 220. 清史館
- ^ 参考:弘時が允禩の養子に出されたという記載は『世宗憲皇帝實錄』にも『清史稿』にもみられないが、本記事の翻訳元の维基百科「允禩」では『宮中檔雍正朝奏摺』第26輯, p.291からの引用として「上諭弘時爲人斷不可留于宮廷是以令爲允禩之子」の一文を挙げている。
- ^ “康熙54年11月11日段23194”. 聖祖仁皇帝實錄. 266. 不詳
- ^ “文苑一 (何焯)”. 清史稿. 484. 清史館
- ^ “雍正4年6月3日段26167”. 世宗憲皇帝實錄. 45. 不詳
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