宣仁親王妃喜久子とは? わかりやすく解説

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宣仁親王妃喜久子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 14:40 UTC 版)

宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年明治44年〉12月26日 - 2004年平成16年〉12月18日)は、日本皇族。元華族高松宮宣仁親王の妃[1]。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久[注釈 1]公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王身位親王妃お印は初めが(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。


注釈

  1. ^ 慶久も有栖川宮織仁親王の曾孫に当たる。
  2. ^ 高松宮日記第1巻 - 第8巻(付 略年譜・索引)全集「高松宮日記 一覧」”. 中央公論新社. 2015年12月13日閲覧。
  3. ^ 2001年(平成13年)当時は第125代天皇の孫世代に男子がいなかった。喜久子は女性天皇を念頭に置いており、いわゆる「女系天皇」の概念の登場は喜久子の薨去後である(当該項目を参照)。
  4. ^ 当時は皇族の死因をあまり克明に発表しなかった。
  5. ^ 昭和天皇は承諾したが、実際に剖検が行われたかどうかは不明である。

出典

  1. ^ a b Company, The Asahi Shimbun. “皇室の系図-皇室とっておき:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2019年5月1日閲覧。
  2. ^ 威仁親王行実(下) 1926 p.352
  3. ^ 威仁親王行実(下) 1926 p.261
  4. ^ 威仁親王行実(下) 1926 p.352-353
  5. ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.19
  6. ^ 昭和5年宮内省告示第5号(『官報』第929号、昭和5年2月5日)(NDLJP:2957396
  7. ^ a b 『官報』第929号「叙任及び辞令」、昭和5年2月5日(NDLJP:2957396/4
  8. ^ 『婦人公論』平成14年2月号。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  10. ^ 『官報』第1157号「宮廷録事」、昭和5年11月6日(NDLJP:2957624/1/3
  11. ^ 『官報』第1164号「宮廷録事」、昭和5年11月14日(NDLJP:2957631/1/3
  12. ^ 『官報』第1204号「宮廷録事」、昭和6年1月7日(NDLJP:2957672/1/5
  13. ^ a b 徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去 - 読売新聞2013年11月28日[リンク切れ]
  14. ^ 最初の夫は松平康愛(父は松平康昌)、夫は海軍士官で出征戦没し、戦後高校での同窓生の井手次郎(医師)と再婚した。
  15. ^ 入江相政日記』より
  16. ^ 高松宮妃喜久子『菊と葵の物語』より


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