第二次世界大戦時
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「艦隊シリーズの用語集」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
第5艦隊と共に旭日艦隊殲滅作戦の捨て駒として使われた。なお、原作では船団護衛用の小艦隊に過ぎなかったが、コミック、OVAではちゃんとした機動部隊である。確認するだけでもOVAにおける第四艦隊は駆逐艦2隻、戦艦1隻、空母2隻を持つ。第5艦隊は戦艦6隻、空母3隻、軽巡1隻を保有する。
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第二次世界大戦時
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「アントン・フレットナー」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
第二次世界大戦時、彼はヘリコプターに特化したAnton Flettner Flugzeugbau GmbHの社長になった。アントンフレットナーはまた有名なフレットナー式回転通風器の発明によっても記憶されている。これの改良品が英国のフレットナー通風器会社で今でも生産されている。 ヘリコプターにおける革新は、彼の通風器の商売で築いた富を元にした。彼の成功は妻のリディア・フロイデンベルク・フレットナーによるところが大きい。彼はヘリコプターをドイツ軍向けに製造した。最初は海軍の哨戒向けで彼の妻はユダヤ人だった。彼は個人的に関係があったヒムラーの手引きで、第二次世界大戦中、家族は安全にスウェーデンに逃れた。彼の相棒で友人のKurt Hohenemser博士は優れた技術者でヘリコプターの詳細な設計を担い、成功に導いた。Hohenemser博士の父親もユダヤ人だった。彼らは軍用のヘリコプターを開発して共に無事戦争を生き延びた。
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第二次世界大戦時
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陸軍にとっての最大の仮想敵国は伝統的にソ連(ロシア)であり、アメリカとの戦争は同国を仮想敵国とする海軍の戦争でとして、1942年春の対ソ攻勢を既に視野に入れていた。田中新一参謀本部第一部長が1940年末から翌年初頭にかけて作成した『大東亜長期戦争指導要綱』では、南方作戦は5、6カ月で終結させ、その兵力を北方へ転用することを進言した。1941年6月に独ソ戦が勃発すると陸軍内部には「北進論」が渦巻き、陸軍省は慎重であったが参謀本部は即時開戦に傾いた。そして、原嘉道枢密院議長・東條英機陸相の下、関東軍特種演習(関特演)と称して85万人を動員し「南北併進論」にこぎつけることに成功した。 しかし1941年7月、日本が仏領インドシナ南部に進駐したことで、アメリカ合衆国は対日全面禁輸に踏み切る。日本は戦争物資の枯渇に直面し、石油の備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかった。「北進」はあくまでもソ連の打倒が目的であり、得られる資源は北樺太の原油程度にすぎず、日本国の需要を賄えるものではなかった。また、極東ソ連軍との兵力差もあり陸軍・関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念、以降関東軍は対ソ国境警備のみを行うに留まった。日本はオランダ領東インドのパレンバンなどを中心とする南方資源地帯からの資源調達を選択し、南進を開始した(太平洋戦争)。 その後、関特演で充実させた兵力は南進の結果である太平洋戦争の開戦や戦況悪化にともない南方軍に引き抜かれていき、最末期にはソ連が対日参戦し満州国は崩壊、南樺太や千島列島が制圧された。
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第二次世界大戦時
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第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍の歩兵連隊は総員3,068名で、編制は以下の通り。 連隊本部および本部中隊(HHC: Headquarters and Headquarters Company) 3個歩兵大隊本部中隊対戦車砲小隊(M1 57mm対戦車砲×3門) 3個小銃中隊中隊本部 3個小銃小隊 火器小隊小隊本部(ブローニングM2重機関銃×1丁、バズーカ×5門) 迫撃砲分隊(M2 60mm 迫撃砲×3門) 機関銃分隊(ブローニングM1919中機関銃×2丁) 重火器中隊1個迫撃砲小隊(M1 81mm 迫撃砲×6門) 1個機関銃小隊(ブローニングM2重機関銃×4丁) 対戦車砲中隊(M1 57mm対戦車砲×9門) 火砲中隊(M3 105mm榴弾砲×6門) 後方支援中隊 衛生分隊 歩兵装備 ブローニング自動小銃M1918×135丁 ブローニングM1919重機関銃×60丁 ブローニングM2重機関銃×35丁 歩兵中隊は小銃3個小隊と火器小隊1個から編成され、火器小隊はM2 60mm 迫撃砲班3個と機関銃分隊2個からなっており、歩兵3個小隊を3門のM2 60mm 迫撃砲が支援するようになっていた。M1 81mm 迫撃砲は重火器中隊の迫撃砲小隊に6門が配備され、3個歩兵大隊で1個連隊を構成していたので、合計で18門となった。
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第二次世界大戦時
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第二次世界大戦においてはパラシュート降下のほか、グライダーによる強行着陸によるエアボーンが行われた。ヘリコプターは大戦末期にようやく実用化されたが、輸送能力が低すぎたためヘリボーンは行われなかった。 大戦中の1940年4月、ドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下したのが最初の空挺作戦である。同年5月、ベルギーのエバン・エマール要塞攻略の際にもおよそ70人の空挺部隊が用いられ、ドイツ軍はグライダーで要塞上に降下した。この戦いでベルギーの守備隊1,200人が不意打ちに合い、ドイツに降伏した。ドイツ軍空挺部隊は1941年に行われたクレタ島の戦いにおいて島を占領する戦果を挙げたが、兵士と輸送機の損害が非常に大きかったため、これ以降は大規模な空挺作戦は行われなかった。しかし、初期のドイツ軍エアボーン作戦の成功は、各国に衝撃を与えた。 日本軍によるものでは、1942年(昭和17年)1月に海軍落下傘部隊によるセレベス島メナドへの、同年2月の陸軍落下傘部隊(挺進部隊)によるパレンバンへの降下作戦(パレンバン空挺作戦)などがある。特に太平洋戦争の最重要攻略目標であるパレンバン油田および飛行場を瞬く間に制圧した陸軍落下傘部隊の活躍は目覚しく、作戦に参加した兵員は後に「空の神兵」と呼ばれた。 大戦後半には、連合国側がクレタ島の戦いのドイツ軍を評価してわずか50人の実験的な空挺師団を整備運用し、ジョージア州フォートベニングで最初の活動を開始。その潜在能力にいち早く気付いたのが、隊長のウィリアム・リー少将であった。まさに、アメリカの空挺部隊の基盤を造った人物であり、『空挺の父』と呼ばれた。また、大戦中には2つの空挺師団が訓練を行っていた。「オール・アメリカン」こと第82空挺師団と、「スクリーミング・イーグルス」こと第101空挺師団である。1943年のシチリア島上陸作戦のほか、ノルマンディー上陸作戦、マーケット・ガーデン作戦で用いられている。特に、マーケット・ガーデン作戦は3か国の合計3個師団半が空挺降下するという大規模な作戦であった。このほか、空挺部隊生みの親であるソ連軍もキエフ奪回作戦時に空挺降下を行っている。 イギリス軍はビルマの戦いで、ウィンゲートがグライダーを使って後方への侵入を度々行った。ここでは、グライダーによる降下だけでなく、回収までもが行われた。 なお、きわめて特異なエアボーンの例として、1942年2月末にソ連軍が行ったパラシュート無しでの降下作戦がある。現在のカルーガ州ユーフノフ西方のドイツ軍補給路付近に、超低空飛行中の輸送機から約1,000名のソ連兵が飛び降りた。積雪による安全な着地を期待したものであるが、約半数が負傷し、ドイツ軍の反撃も受けて失敗に終わった。
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第二次世界大戦時
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
1939年9月、ナチスのポーランド侵攻により第二次世界大戦がはじまる。1939年のゼミナールでは「言語の本質について:言語の形而上学:ヘルダー言語起源論に寄せて」。1939年から1940年の冬にかけて再びユンガーの「労働者」を取り上げ、「ユンガーが労働者の支配と形態という思想のなかで考え、この思想に照らして見ているものは、惑星的規模で見られた歴史の内部での、力への意思の普遍的な支配である。今日すべてのものはこすいた歴史的現実のもとにある。それが共産主義と呼ばれようが、ファシズムと呼ばれようが、あるいは世界民主主義と呼ばれようがそうなのである」と述べた。 1940年、「真性についてのプラトンの教説」を『精神的伝統』第二年次年報に発表。1940年第二学期講義「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」 1941年フライブルク大学で「ドイツ観念論の形而上学:シェリング」を講義。1941年夏学期、「根本諸概念」講義。1941年から1942年にかけての冬学期にフライブルク大学で五番目のニーチェ講義「ニーチェの形而上学」が予告されたが、実際には行われなかった。1941年から1942年にかけての冬学期には「ヘルダーリンの讃歌『回想』」講義。 1942年の草稿「形而上学の克服」では「世界大戦とそれらの総体性はすでに存在棄却性 (Seinsverlassenheit)の諸帰結である」「指導者たちは自分から、利己的な我欲の盲目的な半狂乱状態のなかで、思い上がってすべてを行使し、彼らの強情さからすべてを整える、と思われている。本当は彼らは存在者が錯誤という仕方に移行してしまったことの必然的な結果である」と書かれた。 1942年夏学期、「ヘルダーリンの讃歌『イスター』」講義。この講義では「アメリカ主義のアングロサクソン世界は、ヨーロッパ、故郷、西欧的なものの元初を殲滅しようと決意している」と述べた。1942年から1943年にかけての冬学期にパルメニデス講義。1942年から1943年にかけて「ヘーゲルの経験概念」講演。 1943年、「真性の本質について」出版。原稿は1930年の講演。1943年、ヘラクレイトス講義。1943年の講演「ニーチェの言葉:神は死んだ」は1936年から1940年にかけて5学期にわたって続けられたフライブルク大学でのニーチェ講義に基づく。この講演では「ニーチェが念頭に置いている公平性の了解を準備するためには、われわれはキリスト教的、ヒューマニズム的、啓蒙主義的、ブルジョワ的、社会主義的モラルに由来する、公正性にかんする考えはすべて排除しなければならない」と語った。 1944年夏学期、ヘラクレイトス講義。この講義のなかでハイデッガーは「ドイツ民族が西洋の歴史的な民族でありつづけるのか、それともそうでないのかどうかという、このことだけが決定を迫られているのではなくて、今は大地の人間が大地もろともに危険にさらされているのであり、しかも人間自身によってそうなのである」「この惑星は炎に包まれている。人間の本質は支離滅裂になっている。ドイツ人がドイツ的なものを見出し、保持するということが想定されるとすれば、世界史的な熟慮が生まれるのはドイツ人からのみである」と語った。1944年の戦争末期、軍務を免除された500人の学者と芸術家のなかにハイデッガーは入っておらず、大学総長は大学教官を不用、半ば不用、不可欠の3グループに分け、ハイデッガーは「不用」グループの筆頭にされ、夏にはライン川保塁工事を命じられた。ハイデッガーは国民突撃隊に招集された大学教官のなかで最年長であった。1944年-45年の冬学期にフライブルク大学で「哲学入門―思索と詩作」を講義したが、11月8日で招集のため中断した。「哲学入門―思索と詩作」は第二次世界大戦以前では最後の講義となった。このなかでは「実益と成果をあてにしてたんに計算するという思慮分別は平凡人の思慮分別なのであって、それは経済的政治的にみて世界的な広がりで振る舞う場合でも、平凡でありつづける。そこにもすでに歴史的で西洋的な使命の忘却が働いている。それは、富と道徳性と民主主義的なヒューマニティによって飾り立てられることによっては埋め合わせができない忘却である」と語られた。1944年9月12日、フリッツとハインリヒはマルティンの原稿を入れた鋼鉄製の箱二個をビーティンゲン教会塔へ移した。 1944年11月27日、連合軍の爆撃でフライブルクは壊滅した。フライブルク大学哲学部は帝国講師連指導者シェールにハイデッガーの兵役免除を嘆願し、1944年12月4日にハイデッガーは除隊を許可されたため、メスキルヒに向かった。12月、ハイデッガーは義理の娘と助手の女性とともにフライブルクからメスキルヒまで徒歩で避難をし、道中ゲオルク・ピヒトの家に宿を求めた。ピヒトの妻がシューベルトの遺作ピアノソナタ第21番変ロ長調を演奏すると、「こんなことは我々は哲学ではできない」と述べ、ピヒトの来客記念帳には「破滅するのは、のたれ死にするのとは違う。上昇の中には常に破滅が隠されている」と記した。冬、フライブルク大学校舎が爆撃で破壊されたため、10人の教授と、男子は戦場に行っているため全員女子の学生30人はボイロン修道院の上手にあるヴィルデンシュタイン城に移った。 1945年2月22日、連合軍によるメスキルヒ空襲で35名が死亡、93名が負傷した。空襲後、銀行の貸金庫に保管していた原稿をハイデッガーは自分で取り出しにいった。3月、ハイデッガーはフライブルク大学教員と学生のいるヴィルデンシュタイン城に移り、ヘルダーリンを講義をした。 1945年4月、ハイデッガーの聴講者であったザクセン=マイニンゲン家のマルゴット王女が、ボイロン近くのダグラス伯爵の森番小屋を避難所としてハイデッガーに提供した。4月22日、フランス軍機甲部隊がメスキルヒを占領した。 1945年4月30日にアドルフ・ヒトラーは自殺した。5月8日、ドイツは連合国軍に降伏した。
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第二次世界大戦時
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「イギリス・フォード」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
第二次世界大戦中、英国フォードも民間向けの車両生産を中断し、英国軍需省の要請に応じた軍用車両・エンジンの生産に邁進した。 ダゲナム工場は360,000台の各種車両を、マンチェスターの新工場アームストン(Urmston)では航空用として34,000基のロールス・ロイス マーリンエンジンを生産し、英国陸軍・空軍の対ドイツ戦勝利に著しい貢献を残した。ことに高品質で知られたロールス・ロイス航空用エンジンを、ロールス・ロイス本社に劣らぬ品質・精度を確保しつつ遙かに効率的に生産・供給したことは、フォードの大量生産の実力を裏付けるエピソードであった。
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第二次世界大戦時
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「夕風 (駆逐艦)」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
大東亜戦争(太平洋戦争)開戦日となった1941年(昭和16年)12月8日朝、連合艦隊司令長官山本五十六大将直率の戦艦長門(連合艦隊旗艦)以下、主力戦艦部隊と共に出撃する。第三航空戦隊(空母〈瑞鳳、鳳翔〉、駆逐艦〈三日月、夕風〉)として主力部隊と行動を共にした。南雲機動部隊の損傷艦収容や掩護を目的に出撃したが、機動部隊のハワイ奇襲作戦成功をうけて小笠原群島近海で反転した。この時、「鳳翔」は護衛の駆逐艦3隻と共に主力部隊から落伍していた。主力部隊は13日朝に桂島泊地に帰投する。「鳳翔」は主力部隊から数日遅れて呉に帰投した。 1942年(昭和17年)3月12日、米機動部隊による東京空襲を警戒し、索敵のため「鳳翔」と共に小笠原諸島まで出撃する。しかし、会敵しなかったため父島に寄港し、補給の後帰投した。4月1日、第三航空戦隊は解隊された。各艦は第一艦隊附属になった。 同年6月に起こったミッドウェー作戦における「鳳翔」と「夕風」は、戦艦大和(連合艦隊司令長官山本五十六大将座乗)以下の主力部隊護衛として出撃する。主力部隊は、山本長官直率の主隊(本隊〈大和、陸奥、長門〉、警戒隊〈川内、吹雪、白雪、初雪、叢雲、磯波、浦波、敷波、綾波〉、空母隊〈鳳翔、夕風〉、特務隊〈千代田、日進〉、第一補給隊〈鳴戸、東栄丸、有明〉)と、第一艦隊司令長官高須四郎中将指揮下の警戒部隊という編成であった。「夕風」は併せて洋上給油用タンカーの護衛も行った。しかしミッドウェー海戦により日本海軍は大敗、主力部隊も後退したため戦闘には不参加だった。6月14日、連合艦隊主隊は桂島泊地に到着した。7月14日、「鳳翔」と「夕風」および第一航空基地隊は新編された第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)の附属となった。 以後も「鳳翔」に付随し、内海で対潜哨戒及び「鳳翔」の追躡駆逐艦として空母着艦訓練の支援(航空関係者は"トンボ釣り"と呼称、駆逐艦乗組員は"あとおし"と呼称)に従事する。時には、「鳳翔」と共に航空部隊が行う雷爆撃訓練の目標艦も務め、演習終了後には訓練魚雷を大分航空隊基地に運搬した。なお、この雷爆撃訓練には後に陸軍機も参加している。「鳳翔」に対する雷撃訓練も行ったという。 「夕風」は舞鶴鎮守府在籍艦だったため、定期入渠修理は舞鶴海軍工廠でおこない、その他は瀬戸内海で「鳳翔」の「あとおし」に従事した。「鳳翔」の他にも改造空母(千歳、千代田、神鷹、海鷹)の着艦公試にも警戒艦として随伴している。この事もあって外地には殆ど出なかったため戦績も無く、武勲や戦果には恵まれなかったが、終戦まで無傷で残存していた。なお大戦末期でも、30ノット程で航行できたという。また、終戦時残存していた峯風型は4隻であり、うち「澤風」は対潜学校の試験・練習艦に改装、「汐風」「波風」は回天搭載艦に改造されていた。
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第二次世界大戦時
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戦況の悪化に伴う硬貨用材料の枯渇により、1938年(昭和13年)2月まで製造されていた五十銭硬貨(五十銭銀貨)の代替として発行された。 1938年(昭和13年)6月1日:五十銭券(富士桜)の様式を制定。 1938年(昭和13年)7月5日:五十銭券(富士桜)発行開始。図柄は富士山と桜。 1942年(昭和17年):五十銭券(富士桜)製造終了。 1942年(昭和17年)10月23日:五十銭券(靖国神社)の様式を制定。 1942年(昭和17年)12月8日:五十銭券(靖国神社)発行開始。図柄は靖国神社第二鳥居・神門と高千穂峰。題号は「大日本帝國政府紙幣」。 1946年(昭和21年)3月5日:題号の表記と地模様を変更した五十銭券(靖国神社)の様式を制定、同日発行開始。題号を「日本帝國政府紙幣」に変更。 1947年(昭和22年):五十銭券(靖国神社)製造終了。 1948年(昭和23年)3月5日:五十銭券(板垣五十銭)の様式を制定。 1948年(昭和23年)3月10日:五十銭券(板垣五十銭)発行開始。図柄は板垣退助と国会議事堂。 1948年(昭和23年)8月31日:小額紙幣整理法により大正小額政府紙幣 五十銭券・二十銭券・十銭券、五十銭券(富士桜)、および五十銭券(靖国神社)失効。 1949年(昭和24年):五十銭券(板垣五十銭)製造終了。 1953年(昭和28年)12月31日:小額通貨整理法により銭単位の法定通貨廃止。五十銭券(板垣五十銭)失効。 終戦直後の1946年(昭和21年)5月14日からは新たな五十銭硬貨(五十銭黄銅貨)が一旦製造されたが1948年(昭和23年)10月7日には製造終了し、その後は再び五十銭紙幣のみの製造発行となっていた。最終的にはインフレーションの進行により銭単位の現金通貨が意味を成さないものとなり、硬貨が復活することなく銭単位の法定通貨(紙幣・硬貨)自体が廃止となった。 なお、1944年(昭和19年)11月1日には十銭硬貨・五銭硬貨の代替として十銭紙幣・五銭紙幣が発行されているが、これらは前述の通り小額政府紙幣ではなく日本銀行券として発行された。これらも五十銭紙幣と同じく1953年(昭和28年)末をもって廃止されている。
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第二次世界大戦時
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「バルカン・ファウンドリー」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
1939年から軍需生産に携わり、マチルダII歩兵戦車の開発、生産を行った。1943年には供給省から400両の車軸配置2-8-0と50両の車軸配置0-6-0のサドルタンク機関車を受注した。 1944年、バルカン・ファウンドリーはロバート・スティーブンソン・アンド・ホーソンズ(英語)を傘下に収め、1945年には車軸配置2-8-0の機関車を復興の進む欧州のUNRRA向けに受注した。 戦後、インドは独立してインド向けの鉄道計画は大幅に縮小された。バルカン社はノース・ブリティッシュ・ロコモティブからの下請けに活路を見出そうとするが、全ての英国の製造会社共々、画餅に帰す。他国との競争は激しさを増すだけでなく、インドが独自に機関車の開発力を身につけた事も衰退に拍車をかけた。
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第二次世界大戦時
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「内部マケドニア革命組織」の記事における「第二次世界大戦時」の解説
1941年、ブルガリアは枢軸国側にたって第二次世界大戦に参戦、連合国側であったユーゴスラビアが支配するヴァルダル・マケドニアに侵入した。ブルガリア軍はヴァルダル・マケドニア地域の多くの住民によって「解放」として歓迎され、かつての内部マケドニア革命組織の構成員たちはそれまでのヴァルダル・マケドニアの統治機構に替わって現地を統治するブルガリア人活動委員会の組織に関わった。一方、ユーゴスラビア共産党に加わっていたメトディ・シャトロフ(Методи Шаторов、Metodi Shatorov)などのかつての内部マケドニア革命組織(連合派)の構成員たちもまた、ユーゴスラビア共産党の方針に反し、ブルガリア軍を占領軍とみなすことには反対した。彼らはマケドニアの地元の共産主義組織の活動家たちに、ブルガリア共産党に加入することを勧めた。しかし1943年にユーゴスラビア共産主義者同盟のパルチザンでモンテネグロ人のスヴェトザル・ヴクマノヴィッチ=テンポ(Светозар Вукмановић-Темпо、Svetozar Vukmanović-Tempo)がマケドニアに入り、反ブルガリア抵抗活動を活発化させた際、内部マケドニア革命組織(連合派)はその方針を放棄した。一方、かつての内部マケドニア革命組織の構成員たちはブルガリアによる統治機構を助け、スヴェトザル・ヴクマノヴィッチ=テンポ率いるパルチザン軍と戦った。 内部マケドニア革命組織はまたギリシャ領マケドニア(エーゲ・マケドニア)における軍事組織の結成のためにも動き、ギリシャの王党派、共産主義派の武装勢力と対決した。かつての指導者であったミハイロフ、およびソフィア在住のマケドニア系移民の助力のもと、親ドイツ(枢軸国)的な武装勢力オフラナ(Uhrana)がギリシャ領カストリア、フロリナ、エデッサの各地区で組織された。これらの組織はギリシャ領マケドニア出身のブルガリアの当局関係者アンドン・カルチェフ、ゲオルギ・ディムチェフによって指揮されていた。ミハイロフには、ドイツ支配下でマケドニア国家が建国されるだろうということを思い描いていたのは明白であろう。ミアイロフはまた、内部マケドニア革命組織の義勇軍が将来的な独立国マケドニアの中核となって、統治や教育をエーゲ・マケドニア地域(フロリナ、カストリア、エデッサ地区)において担うようになることを期待していた。 1944年8月2日(グレゴリオ暦の8月2日は聖エリヤの日(イリンデン)であり、マケドニア共和国ではイリンデン蜂起と関連して「第2のイリンデン」と呼ばれる)、セルビアの聖プロホル・プチニスキ(Prohor Pčinjski)修道院において、マケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)の初会合が開かれた。最初の演説を行ったのは、かつてのイリンデン蜂起の時の内部マケドニア革命組織の活動家で、後に内部マケドニア革命組織(連合派)に移った活動家パンコ・ブラシュナロフ(Панко Брашнаров、Panko Brashnarov)であった。このなかで、連合国に認められたチトーによる社会主義ユーゴスラビアの構成国としての、マケドニア国家の建国が初めて宣言された。このマケドニア人民解放反ファシスト会議はこの時以来、終戦により公式にユーゴスラビアの構成国としてのマケドニア社会主義共和国が成立するまでの間、マケドニア国家の代表権を持つものと見なされている。 ブルガリアの枢軸国からの離脱と対ドイツ宣戦布告の後、1944年9月にミハイロフはナチス・ドイツ占領下のスコピエに入った。ドイツ側が、ミハイロフがドイツと協力し、マケドニアに親ドイツ的なマケドニア国家を建設することを期待していた。しかし戦況はドイツの敗戦が濃厚と見たミハイロフは、これ以上の流血を回避するために、ドイツ側の要請を断った。ミハイロフはその後ローマに移り、マケドニア問題に関する多くの記事や本、資料を残し、1990年にローマで死去している。
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