高橋紹運(たかはし じょううん) 1548~1586
高橋紹運
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高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
注釈
- ^ 『續群書類従卷第六百四十七 高橋記』の紹運公御緣邊之事では「鎮実御妹」としている。
- ^ 『下記寛政重修諸家譜』によると鎮実の女と記載されたが、それは鎮実の父、長実が二階崩の変で歿後、家主となった鎮実が妹を養女として扱うのだとされる。
- ^ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[3]。
- ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて大友義政と大友義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
- ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。[10]
- ^ 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。[11]
- ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。[12]
- ^ 元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮忠の伯父。甥と同じ「鑑尚」と「弾正」の名を使用していたのでよく混同されている。大友氏から原田氏に寝返ると推測される。[13]
- ^ 宗像氏貞の受領名や官位からみると「弾正」を使用することはなかったと確認された。一族の他人もしくは宗像賜姓を受ける家臣と推測される。[13]。[14]では許斐の城主・宗像弾正忠と記述された。
- ^ 麻生民部丞。大友家の命令に従って宗像郡津屋崎(上松)城主となったが、のち秋月家に寝返った。[13]
- ^ 勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川、耳納連山の高峰、九十九折そして道路が未整備の鷹取山などを越えた[146]。
- ^ 「天正十一年」[152]説、「天正十三年乙酉正月」[153]説、「天正十二年九月」説[154]がある。
- ^ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均のみとされる。
- ^ 薦野増時の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のち11月下旬の三潴郡掃討戦の西牟田城で戦死した説が有力。『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、安部六弥太前廿八動之砌、於西牟田表分捕候、前日於石垣表も分捕仕候、両度之儀無比類候、参陣以来両家討補頸二百餘にて候、大利之段満足候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。[155]
- ^ 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史・筑後将士軍談』などがあるが、[156] によるとこういう記述は明らかな誤記と指摘された。
出典
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- ^ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
- ^ a b 吉永, 1977 & p.295-296
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- ^ 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 | 豊後高田市
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- ^ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537
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- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、両人以参陣當陣衆申談、前廿五至河堺表(川崎)大蔵山(大籠)寄陣、同廿八下筑後表従両口相動、中口者縮坂東寺・西牟田、下口者折地・小嶋(古島)・水田表・簗河(柳川)近邊迄雖相動候、敵者一人茂不出合候、佐賀之者共入目之儀、以是可有御黨候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、黒木事、至紹運・道雪種々詫言候、一昨日朔日猫尾属御案利候、為人質黒木伊豆守宗宅罷出候、以其響高牟礼入番之者共火懸、方々落行候、則時人数差遣、普請堅固申付、一衆差籠候、 (後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.136~137
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.194~195
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 黒木落城付所々軍之事 P.404~412
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (53) 大友義統感状写 前九於柳川表其方僕從市郎分捕高名之由、忠儀粉骨次第感入候、彌又励馳走事肝要候、恐々謹言、九月十四日 後藤隼人佐殿 P.566。
- ^ 筑後草野氏・草野鑑員の子、名は家清とも。肥前の草野鎮永とは別々の人物。
- ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二七)筑後井上城 天正十二年十一月十四日 P.14
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.196~198
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- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.143
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- ^ 『橘山遺事』 P.167
高橋紹運
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道雪と並ぶ大友家の重臣。カタツムリの触角のような眉が特徴で、一人称は「それがし」、口癖は「なんだな」。「約束」を絶対視する性分であり、宗麟への忠誠心は非常に強いものの、決して主君に甘いわけではない。共に大友家を支える重臣である道雪との信頼関係は固い。若いころは髪が長く、中々の美男子であった。
※この「高橋紹運」の解説は、「殿といっしょ」の解説の一部です。
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