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むつ-むねみつ 【陸奥宗光】
日露戦争関連用語集 |
陸奥宗光
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弘化元年(1844年)-明治30年(1897年) |
近代日本人の肖像 |
陸奥宗光 むつ むねみつ
和歌山生まれ。外交官、政治家。父は和歌山藩士。幕末期海援隊に参加。維新後外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。明治11年(1878)政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。出獄後欧米を歴訪し、帰国後外務省入省。21年(1888)駐米全権公使に就任。23年(1890)第1回衆院選で当選。第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。27年(1894)日英通商航海条約に調印し、領事裁判権の回復を実現。対清強硬路線をとり、日清戦争開戦へと導き、講和・三国干渉を処理した。
| キーワード | 外交官, 政治家 |
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ウィキペディア |
陸奥宗光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/04 07:46 UTC 版)
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)は、幕末から明治時代の武士、政治家、外交官。カミソリ大臣と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。
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- ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。
- ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。
- ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えたという。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
- ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
- ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
- ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
- ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。
- ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。
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