観音寺騒動
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観音寺騒動(かんのんじそうどう)は、戦国時代の永禄6年(1563年)10月に、南近江の戦国大名・六角氏の家中で起こったお家騒動。
- ^ 『野洲町史第2巻 (通史編 2)』p5 野洲町 1987年3月31日刊 全国書誌番号:87037576
- ^ 『国史大辞典』
- ^ 六角氏綱流を六角氏本宗家とする異説では、追い出した側に六角義秀ら六角氏本宗家も加わっていたという。
- ^ 義定に当主の座は譲られていないとする説あり
- ^ a b 新谷和之「南北朝・室町期における六角氏の家督と文書発給」川岡勉 編『中世後期の守護と文書システム』思文閣出版、2022年、P81-82.
- ^ 義賢ら陣代家は従四位下に対し、義実系の「本家」は従三位。ただし、「本家」はその存在自体が一般に偽書と認知される江源武鑑などにしか認められない。
- ^ 新谷和之『戦国期六角氏権力と地域社会』(思文閣出版、2018年) ISBN 978-4-7842-1935-3 P133-136.
- ^ 「義実-義秀-義郷」という系譜は正しいとする異説では、六角義秀ら六角本家の一部が箕作城落城の際に離反したとする。
- 1 観音寺騒動とは
- 2 観音寺騒動の概要
- 3 関連項目
観音寺騒動
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永禄6年(1563年)、六角家中でも特に信望のあった重臣・後藤賢豊親子を観音寺城内で誅殺してしまう(観音寺騒動)。これを契機として六角氏の家中は動揺し、敵対している浅井長政に主替えする者まで現れ始めた。この騒動で義治は一時、父と共に反発した家臣団に観音寺城を追われたが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子らの尽力により観音寺城に戻った。この一連の騒動は、後藤氏の影響力の強さと、大名としての六角氏の権力基盤が揺らいでいたことを象徴するもので、六角氏の絶対権力的戦国大名への移行は頓挫したといえる。『足利季世記』には「佐々木家滅亡の端相」と記された。なお、近年の新説として義賢と義治の対立に関連して、義治とその側近が父親の影響力を排除するために義賢の信任が厚かった後藤親子の粛清を図ったのが裏目に出たとする見方もある。 永禄8年(1565年)、京で三好三人衆が将軍・足利義輝を殺害する(永禄の変)。義治は義輝の弟・一乗院覚慶(のちの足利義昭)が亡命してくるとそれを匿ったが、三好三人衆が管領職などを条件にして義治を誘ってくると、義治はこれに応じて覚慶(義昭)を追放した。 永禄10年(1567年)4月28日、主君の権限を抑える分国法である六角氏式目に署名することを余儀なくされた。家督も強制的に弟・義定に譲らされたとされるのが従来の通説であるがこれには異説もある。
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