騒動の原因と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 00:07 UTC 版)
騒動の原因であるが、六角氏が守護大名から近世戦国大名へと完全に脱皮していなかったことが挙げられる。六角氏の家臣の多くは国人領主であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。名君である定頼存命中は彼らも服属していたが、定頼の死後、後を継いだ義賢・義治父子は三好長慶や浅井長政に対して失策を重ね、後藤氏のような有力国人衆への統制を失うこととなったのである。この騒動は戦国大名への体制転換の最中での事件であると定義できる。 また、義賢・義治父子が六角本家でないとする異説によれば、六角氏内部には「定頼 - 義賢 - 義治」の陣代箕作家より家格が上の、「氏綱 - 義実 - 義秀 - 義郷」と続く六角本家があり(氏綱は定頼の兄にあたる)、本家と義賢ら陣代家の間は対立関係で非常に危うい状態だったという。 この観音寺騒動は六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながったとみる説が強い一方、観音寺騒動による混乱の中でも蒲生氏や三雲氏のように六角氏を支持する有力重臣が存在したこと、六角氏式目が家中で「国法」として認識されて当主の権力を抑制する代わりに家臣や国人が六角氏を中心とする旧来の秩序を回復させる方向で再結束を図られたとする再評価の動きもみられる。 しかし、織田信長は永禄11年(1568年)に上洛への途上にある南近江に侵攻、観音寺城を包囲する。義賢は信長を共通の敵とする三好三人衆の助勢を得たが支城の箕作城・和田山城を攻められ落城、同時に観音寺城周辺の地盤も失い没落した(観音寺城の戦い)。敗れた義賢・義治父子は甲賀郡の石部城に拠点を移すことになり、蒲生定秀・賢秀父子ら一部国人は織田方に属することとなった。この騒動は六角氏零落のきっかけであり、同時に信長がその本拠、岐阜からの上洛のルートを確保する上では、好都合な出来事だったといえるのである。
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