騒動の勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:29 UTC 版)
慶長年間頃の高鍋藩は、豊臣秀吉の九州征伐以後に禄を減らされたにも拘らず高禄の者が家中に多くあり、また文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣による出費がかさみ財政難にあった。そのため元和2年(1616年)に借り上げと称して、藩士の知行の半減を断行するに至った。しかし、それでも足らず、藩主種春の妻の父である佐久間勝之の勧告により更に1/3を借り上げるとした。寛永3年(1626年)父と同じく専横の限りを尽くしていた種盛嫡子の白井又左衛門種重は、藩主の名代として江戸より高鍋へ下向、自らの叔父で妻の父でもあった家老の秋月蔵人種正にこの旨を伝えた。ところが、借り上げは藩士に平等に行われず、白井一派の借り上げは他よりも軽かった。 それと知った秋月蔵人とその一門は憤懣を募らせ、坂田五郎左衛門の一族である坂田大学は「種重の仕打ちは不公平極まりなく、このような者に藩政を左右されては上下の為にならない。討ち果たすべきである」としたが、蔵人は種重伯父で自らの実兄である内田仁右衛門に口実を設けられて藩領のある福島(現・宮崎県串間市)へ追い遣られる。そのため、坂田大学が中心となって血判状を取り、種重の邸へ高台より鉄砲を撃ち込む計画を立てた。しかし、同志の秋月兵部が種重へ密告したため、種重は猪撃ちの猟師20名を雇ってその高台を固めることで、これを阻止した。だが以降、家中には猜疑心が蔓延し始める。 同年4月6日の夜半、種重の邸で白井派の集まりがあったのであるが、その最中に中元寺半兵衛が燭台の火を消して、坂田側からの裏切者である秋月兵部を討ち果たした。これを大学らの乱入であると思った一同は暗闇の中で乱闘に及んだが、火を燈して見てみると坂田大学の一派などおらず、即死していた6名は全て白井の一派であった。同士討ちはその2日後、秋月蔵人の娘婿である入江三左衛門の別宅でも生じ、4人の死者が出た。 種重はこれらの原因を絶つべしと坂田大学へ詰め腹を斬らせるべく5月16日に討ち手を放った。討ち手とされた大学の妻の父である財津五左衛門らは大学へ切腹を申し渡したが、大学は「他人が来たならば容赦せぬが、父上がおいでとあらば御受けする」として、座敷の真中に仰向けに寝転んだまま討ち手に喉を斬らせた。
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