早稲田大学時代
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2020年4月、早稲田大学政治経済学部に進学。早稲田大学競走部に入部した。同期にはスポーツ推薦で入学した菖蒲敦司ら世代トップの選手がいる。さらにトップアスリート推薦で栁本匡哉が、指定校推薦で諸冨湧が入学し、稀に見る黄金世代を形成した。 2021年3月から、新型コロナウイルス感染拡大の影響により3ヶ月間活動停止となったが、活動再開後からメキメキと頭角を現していく。 大学デビュー戦となった7月4日、第2回早稲田大学競技会で3000mに出場すると、自己ベストを大幅に更新する8分12秒31のタイムで1着フィニッシュ。 2021年7月26日、第3回早稲田大学競技会では5000mに出場し、14分05秒68をマーク。自己ベストを更新した さらに9月30日、第6回早稲田大学競技会の5000mに出場。自身初の13分台となる13分49秒31をマーク。一気に学生陸上界の実力者に仲間入りした。 10月11日の第7回早稲田大学競技会では10000mに出場すると、またも自己ベストを更新。28分台こそ出なかったものの29分08秒11の好タイムをマークした。 連戦での自己ベストで実力と好調が首脳陣に認められ、1年生にして早稲田の鬼門と言われていた全日本大学駅伝の1区を任される。最後まで先頭集団でレースを進め、トップから11秒差の区間6位と見事な走りを見せた。区間タイムの27分18秒は、区間新記録であった。 2021年3月14日、第24回日本学生ハーフマラソン選手権大会に出場。強風でタイムが低調な中1時間4分11秒で20位に入り、長距離適性を示した。 2021年4月18日、第54回東京六大学対校陸上競技大会にて、男子5000mにエントリー。14分34秒23で3位に入賞し、チームに6点をもたらした。 2021年5月9日、北海道・札幌マラソンフェスティバル2021の10kmに出場。チームメイトの伊藤大志とともにゴールし、30分08秒で優勝を果たした。 2021年5月20日、第100回関東学生陸上競技対校選手権大会の10000mに出場。29分29秒02で21位だった。 2021年7月7日、第7回早稲田大学競技会3000mに出場。8分19秒81 2021年7月17日、ホクレン・ディスタンスチャレンジ2021年千歳大会の5000mに出場。14分23秒26 2021年9月29日、第10回早稲田大学競技会5000mに出場。14分13秒48 2021年10月13日、第12回早稲田大学競技会10000mに出場。自身初の28分台となる28分54秒74をマークした。 2021年11月14日、世田谷246ハーフマラソンに出場。前半は1km3分を切るハイペースで推移し、中盤で転倒。膝から流血してしまった。そこからは徐々にペースが落ちたが、1時間4分12秒で持ちこたえた。 2021年12月31日、12月8日に大腿骨の疲労骨折が発覚し東京箱根間往復大学駅伝競走のエントリーから外れたため、大晦日の早稲田大学競技会、通称”漢祭り”の5000mに出場した。怪我明けということもあり、1年生小玉瑞葵のペースメーカーを担当。自己ベスト更新のアシストをした。15分25秒54と約2年半ぶりの15分台であったが、怪我からの順調な回復をアピールした。
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早稲田大学時代
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1905年(明治38年)早稲田大学英文科に入学する。早稲田大学では高田蝶衣らの早稲田吟社の句会に参加し、同じ東京牛込の下宿「霞北館」の若山牧水らとも親交を深める。蝶衣が中退すると、蛇笏が早稲田吟社の中心となる。蛇笏は『文庫』や『新聲』に小説「ぬれ手紙」や新体詩を投稿し、『国民俳壇』へ投句も行う。この年に高浜虚子の主宰する『ホトトギス』に「飯田蛇骨」「白蛇玄骨」の俳号で初めて俳句が掲載される。 1908年(明治41年)8月には大学の夏季休暇を使い、虚子が河東碧梧桐らの「俳三昧」に対抗して結成した俳句鍛錬会「俳諧散心」に最年少で参加した。俳諧散心の最終日に虚子は俳壇を退いて小説に専念することを宣言したため、蛇笏は『ホトトギス』への投句も中止し、1909年(明治42年)に家から帰郷の命を受け学業を断念し、早大を中退し帰郷する。
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早稲田大学時代
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2010年、早稲田大学に進学。7月にカナダ・モンクトンで行われた、世界ジュニア選手権10000mに同学年の志方文典と共に出場。8位に入賞し、志方も9位に入った。同年の第22回出雲駅伝では2区を走り先頭を守ったが後続に差を詰められ、本人曰く悔しさの残る大学駅伝デビューとなった。早稲田大学は14年ぶり2回目の優勝を飾った。第42回全日本大学駅伝では2区で先頭の東洋大・柏原竜二との差を20秒縮めて、1区の遅れを取り戻す7人抜きの快走を見せた。その後佐々木、志方等の活躍で早稲田大学は優勝を飾った。同年11月22日に行われた第23回上尾シティマラソンでは1時間01分47秒を記録して優勝すると共に、伊達秀晃が持っていたジュニア記録を更新した。(10年後三浦龍司が更新) 2011年の第87回箱根駅伝では1区序盤で集団から抜け出し、10km過ぎまで後ろを付いていた高校時代の先輩である堂本尚寛(日本大)を振り切り、1区区間賞を獲得。早稲田大学は5区中盤まで先頭を守って東洋大学と27秒差の往路2位、翌日の復路で東洋大学を逆転して18年ぶりの総合優勝を飾った。また2000年の順天堂大学以来10年ぶり3度目の大学駅伝3冠を達成した。深圳で行われたユニバーシアードでは、28分42秒83のタイムで優勝。日本人としては1995年福岡大会の渡辺康幸以来となる16年ぶりの優勝となった。翌2012年の第88回箱根駅伝でも1区を走り、同学年の服部翔大(日本体育大)を11km過ぎで振り切り、2年連続で区間賞を獲得した。 2013年4月28日カーディナル招待で2位、日本人学生10000m記録更新(日本人学生最高記録)、高岡寿成、中山竹通、佐藤悠基に続く日本歴代4位(当時)の記録27分38秒31をマーク。一挙に日本を代表する長距離ランナーに躍り出た。
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早稲田大学時代
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1年次 2020年4月に早稲田大学に進学。同期には辻文哉や栁本匡哉がいる。11月の第52回全日本大学駅伝では5区に出走。4区の太田直希から2位明治大学と52秒差のトップで襷を受け取るが、1分17秒差の4位で襷を受け、区間記録ペースで追い上げて来た青山学院大学の同学年佐藤一世に10秒差まで縮められてしまう。チームは6区で逆転を許してしまい、総合5位に終わり、自身の成績も区間9位と不本意な結果に終わった。2021年1月に開催された第97回箱根駅伝は3区にエントリーされるも当日変更で中谷雄飛に変更された。 2年次 10月の第33回出雲駅伝は1区へ出走し、区間賞を取った青山学院大学の近藤幸太郎と4秒差の区間2位の快走を見せた。11月に行われた第53回全日本大学駅伝は4区に出走。3区の中谷雄飛からトップ東京国際大学と1分1秒差の2位で襷を受けると区間5位の走りでトップとの差を37秒まで縮める快走を見せ、チームは5区でトップに立つが、6区のブレーキが響き6位に終わった。1月2日の第98回箱根駅伝では大会直前に起きた疲労骨折によりエントリーされなかった。
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