中山竹通
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中山 竹通(なかやま たけゆき、1959年12月20日 - )は長野県北安曇郡池田町出身の日本の元陸上競技(長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息子の中山卓也も陸上長距離種目選手。
注釈
- ^ この記録は1986年10月19日の北京国際マラソンで児玉泰介に破られるまで日本最高、1997年12月7日の福岡国際マラソンで早田俊幸に破られるまで国内最高の記録だった。
- ^ この記録は2001年5月4日に高岡寿成に破られるまで日本記録。
- ^ 戦後の日本男子マラソン代表では、ほかに君原健二(1968年メキシコ五輪2位、1972年ミュンヘン五輪5位)しかいない。
- ^ 毎日新聞は、福岡国際マラソン中山優勝を報じる記事の見出しを「見たか瀬古」としている。
- ^ この内容は『陸上競技マガジン』2013年6月号からの転載。中山はダイエーに入る前に、宗兄弟の所属していた旭化成陸上部の練習メニューを入手していた[4]。
出典
- ^ a b c d e f g 武田薫 2014, pp. 224–225.
- ^ a b c d 記者グループ 1988, 第5章「中山という男」.
- ^ 武田薫 2014, pp. 226–228.
- ^ a b c d e 武田薫 2014, pp. 226–229.
- ^ 武田薫 2014, p. 224.
- ^ a b 武田薫 2014, pp. 233–234.
- ^ a b “不遇乗り越え連続4位 マラソンの中山竹通 【わが街 オリンピアン 長野県】”. 共同通信(リンク先は47NEWSへの転載. (2021年5月11日) 2022年10月8日閲覧。
- ^ a b c 武田薫 2014, pp. 255–257.
- ^ “中山竹通さん、往年のストライド健在 さが桜マラソン2018”. 佐賀新聞. (2018年3月19日) 2022年10月8日閲覧。
- ^ 武田薫 2014, pp. 251–252.
- ^ a b 「日本のマラソンはなぜ弱くなったのか」『別冊宝島No.458 マラソンに勝つ』、宝島社、1999年、pp.244 - 255。インタビュアー・構成はスポーツライターの武田薫。
- ^ 武田薫 2014, p. 258.
- ^ 後藤正治『マラソンランナー』文藝春秋〈文春新書〉、2003年、[要ページ番号]
- ^ 「新兵庫人―輝く」第3部 長距離王国 (3)日の丸を胸に "反骨心こそ 世界への切符" - 神戸新聞2009年6月21日
- ^ “因縁ライバル 瀬古&中山が“和解”の握手”. スポーツニッポン. (2010年1月27日) 2011年2月16日閲覧。
固有名詞の分類
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