ほう‐じょう〔ハウヂヤウ〕【方丈】
孤篷庵本堂(方丈)、書院及び忘筌
方丈
方丈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:20 UTC 版)
入母屋造、檜皮葺。寛永15年(1638年)に京の豪商・後藤益勝の寄進により造営されたもので、曾我蛇足や長谷川等伯の障壁画が伝わる。
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方丈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/11 06:56 UTC 版)
桃山時代の方丈建築を代表する建物で、方丈内部は狩野松栄・永徳父子による障壁画で飾られている。障壁画のオリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託され、現在方丈にある障壁画は複製である。
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方丈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 15:07 UTC 版)
重要文化財。「本堂」とも称する。入母屋造、瓦葺き。寛政5年(1793年)の火災による焼失後、寛政9年(1797年)に雲林院客殿を移築したものである。
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方丈(本堂)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 14:29 UTC 版)
京都府指定有形文化財。寛永8年(1631年)に建立された単層入母屋造・桟瓦葺の建物で、内部は狩野山楽の弟子である狩野山雪による襖絵で飾られている。このうち「金碧松三日月図」は狩野山雪の筆によるもので、かつては仏壇背後に貼り付けられていたが、襖絵へと改装された。
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方丈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:55 UTC 版)
「竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。庭園は夢窓疎石の作といわれる。
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方丈(本堂)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:36 UTC 版)
重要文化財。桁行11間、梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈に典型的な六間取りである。すなわち前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」。西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)、その手前が「次の間」(檀那の間)、東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となる。「富貴の間」は奥に床高を一段高めた上段を設け、床(とこ)、棚、付書院を設け、天井を格天井とする格式の高い部屋である。各室の襖や障子腰板には狩野派による金地の障壁画がある。障壁画の主な画題は「富貴の間」が松、「次の間」が松、梅、牡丹、「室中」が唐人物、「鶴の間」と「菊の間」がそれぞれ鶴と菊などである。この大方丈(本堂)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、話の時代が合っていないうえ、建物に移築の痕跡は確認できない。実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる。 障壁画製作は崇伝から狩野探幽に委嘱した記録が『本光国師日記』にあり、画題の選定は探幽が行ったものであることがわかるが、探幽が自ら作画に携わったか否かについては同日記は伝えていない。武田恒夫、土居次義らの研究者は、探幽の指揮のもと、実際の作画は富貴の間・次の間は狩野尚信が、室中・鶴の間は狩野信政が担当したと推定している。 正面に掲げられている額「布金道場」は山岡鉄舟の筆。明治時代初期に巻き起こった廃仏毀釈から守るため、仏教寺院ではなく道場である旨を表したものである。 大方丈鶴の間北面 大方丈室中 大方丈室中東面 大方丈室中西面 大方丈室中北面 大方丈次の間東面 大方丈次の間西面障子腰板
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