三省堂 大辞林 |
戦国武将覚書 |
斎藤義龍(さいとう よしたつ) 1527~1561
○豊太丸 新九郎 利尚 高政 玄龍 美濃守 左京大夫 治部大輔
◇父:斎藤秀龍? 室:浅井久政女、一条氏女? 子:斎藤龍興、菊千代
美濃・斎藤道三の長子であるが、実のところ美濃守護・土岐頼芸側室であった母が、その子を宿して後道三に嫁ぎ産んだ子ともいわれる。父の正室から男子が生まれたことから、義龍廃嫡の意志もあって父と不和になった。その為、長井道利と謀って父や弟らを敗死させ、美濃を制圧した。その兵を動かす手腕を見て、父道三は安心して死んだという。その後尾張・織田氏らと争うが、持病が悪化し35歳で亡くなった。
◇父:斎藤秀龍? 室:浅井久政女、一条氏女? 子:斎藤龍興、菊千代
美濃・斎藤道三の長子であるが、実のところ美濃守護・土岐頼芸側室であった母が、その子を宿して後道三に嫁ぎ産んだ子ともいわれる。父の正室から男子が生まれたことから、義龍廃嫡の意志もあって父と不和になった。その為、長井道利と謀って父や弟らを敗死させ、美濃を制圧した。その兵を動かす手腕を見て、父道三は安心して死んだという。その後尾張・織田氏らと争うが、持病が悪化し35歳で亡くなった。
ウィキペディア |
斎藤義龍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/13 14:29 UTC 版)
斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代の武将。
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- ^ 一説に一色義清の娘、または稲葉良通の妹といわれるが、定かではない。
- ^ 一説に浅井久政の娘ともいわれるが、『系図纂要』には浅井亮政の娘(久政の妹で養女)と記載されているため、後者の説が有力とされる。
- ^ 天文17年(1548年)相続説もある。また、隠居は父道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。
- ^ 当時でも義龍の父親は道三だと認めている第三者の手紙(六角義賢が1560年、家臣に宛てた書状『六角承禎状書』による)がある。
- ^ ただし、一連の行動を義龍ではなく旧土岐家臣が主導したとする異説も存在する。
- ^ ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない。また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前の弘治元年(1555年)11月からである。
[続きの解説]
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