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中西太

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中西太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/18 00:38 UTC 版)

中西 太
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 1933年4月11日(78歳)
身長
体重
173cm
93kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1952年
初出場 1952年3月21日
最終出場 1969年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1999年
選出方法 競技者表彰

中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手内野手)・監督、打撃コーチ。

現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。愛称は「太っさん」。あるいは「太」。

目次

来歴・人物

高松第一高等学校時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。甲子園には1949年春1949年夏1951年夏の三度出場し、ベスト4に2回進出。2回とも優勝校に惜敗した。

現役時代

1952年西鉄ライオンズに入団。1年目から活躍し、新人王を獲得。その後も首位打者本塁打王打点王のタイトルを多数獲得し、1958年まで毎年のように三冠王に近い成績を残した。1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王。また、1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、1954年は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。

また、そのずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁(トリプルスリー)を達成している。三塁手としての守備もうまかった。目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。このため前歯を3本折損している。

非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったのでよく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。しかも、十両ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあったほどで、鶴ヶ嶺曰く「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」。

豊田・大下弘関口清治高倉照幸河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年にリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の元で築き上げた。この時期、三原監督の長女・敏子のもとに婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1958年まではタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、1959年近鉄小玉明利に利き手をスパイクされて負傷。さらに翌1960年腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、代打での出場が多くなった。

1962年、29歳の若さで西鉄の監督に就任。2年目の1963年には南海と熾烈な優勝争いを繰り広げ、最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー)に全勝し劇的なリーグ優勝を決める(これが西鉄最後の優勝となった)。しかし同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。1964年オフ、退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受ける。西鉄は5位であり、若林に成績不振の責任を取らせたとマスコミからの非難を浴びた。

若林退団の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向から退団の真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は、中西が見舞いに来るたびに、自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしいと語っていたという。それがもはやかなわないことを知っていた中西は涙が出るほど辛かった、と後年回想している。若林は翌1965年、58歳で死去。

引退後

1969年限りで現役引退し、監督退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。中西が着けた背番号6は西鉄の永久欠番に指定された。しかし後の1973年、西鉄が身売りしたときに失効している。

引退後は1年間東京放送(現:TBSテレビTBSラジオ)の野球解説者を務めた[1]後、ヤクルト(1971年 - 1973年、1983年 - 1984年途中)、日本ハム(1974年 - 1975年)、阪神(1979年 - 1981年)、近鉄(1985年 - 1990年)、巨人(1992年)、ロッテ(1994年)、オリックス(1995年 - 1997年)で監督、打撃コーチ、ヘッドコーチを歴任した(日本ハム・阪神では監督、ヤクルト・ロッテでは代理監督を務めている)。パ・リーグの球団は歴代のホークス楽天以外全て在籍していたことになる。

監督時代は江本孟紀の「ベンチがアホ」発言で槍玉に挙げられたが、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つ。コーチとしては数多くの強打者を育成している。特に近鉄ヘッドコーチ時代の10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木彬監督との名コンビによる活躍ぶりは選手からもファンからも大変な支持を得る(ただし、ベンチの雰囲気は仰木監督と中西「総監督」のような状態であった。ちなみに西鉄時代は逆に中西の参謀を仰木が務めていた)。

同時に球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。オリックス退任後もヤクルトを始め、様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めている。1999年、野球殿堂入り。2000年より日刊スポーツ野球評論家。近年甲状腺がんを患ったが、幸い経過は良好。2007年2月には、メジャーリーグに挑戦する愛弟子の岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどであった。また、自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。

2007年10月、現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松市に寄贈。2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されている。

特筆

打撃にまつわる伝説

中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。

  • 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。推定飛距離は160m以上で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と千葉茂に後年語っていたと言う。
  • 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした。
  • 投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった(青田昇の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。
  • 1955年の東京スタジアムでは中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた有町昌昭の膝を直撃、有町は病院送りとなってしまったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかったという。
  • ファールチップで焦げたボールの皮の匂いが、マウンド上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)。
  • 高校時代に甲子園で打った本塁打2本、及びプロ初本塁打はいずれもランニングホームランである。
  • 得てして一流選手は自分が活躍した場面よりも失敗した場面を覚えているものだが、中西もまた例外ではなく、最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏1死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は結局続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せるのだが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら…」と思い返すことがたびたびあったという。
  • 素振りの音が相手ベンチまで聞こえたという程スイングスピードがあまりにも速すぎたために腱鞘炎になった。腱鞘炎になっていなければ率を除く全ての分野において2倍の通算成績を残していたと言われる。

記録に関するトピック

  • 戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズ葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の大津守投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った[2]
  • 中西は三冠王になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは王貞治の5回、長嶋茂雄の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で岡本伊三美に、1955年は打点において1打点差で山内和弘に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。



  1. ^ 後年も、1976年・1982年は毎日放送、1977年から1978年までは九州朝日放送(KBC)の解説者を務めた。
  2. ^ 「三冠王」定着の陰に伝説の強打者 日本経済新聞2011年10月18日「ことばオンライン」


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