教職時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:03 UTC 版)
1898年(明治31年)、飯塚町福岡県立東筑中学校雇教師となった。 1900年(明治33年)、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、3月福岡市福岡県中学修猷館漢文担当教諭となった。また、同窓会剣道部長を務め、1902年(明治35年)『同窓会雑誌』発刊に際し同窓会雑誌部長となった。『同窓会雑誌』編輯を通じて中野正剛を指導し、影響を及ぼした。 1908年(明治41年)春、母と共に京都、奈良、吉野、伊勢、大阪市等を巡った。1910年(明治43年)夏にも母と上京し、東北地方を旅行した。 1915年(大正4年)5月30日に引き渡された集会施設を菁莪堂と名付けた。1924年(大正13年)10月17日小川直煕と共に父兄会顧問となり、1926年(大正15年)4月には修猷館学友会副会長を務めた。 1924年(大正13年)8月、朝鮮に渡り、16日間で京城、仁川、鉄原、金剛山、平壌を巡った。1928年(昭和3年)5月、福岡県教育会の命で台湾視察に派遣され、台北から台南まで16日間で往復した。帰国後肺炎に罹り、10日間生死を彷徨った。
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