評論家として
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「ニコライ・カラムジン」の記事における「評論家として」の解説
ツァーリのボリス・ゴドゥノフを「クロムウェルのような性質の持ち主」と評した。 ロマノフ朝第4代のロシア皇帝であるアンナの治世を酷評した。 1826年6月3日(新暦:5月22日)にサンクトペテルブルクで亡くなる。アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。
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評論家として
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若貴ブームをきっかけとして協会が興行の努力を怠るようになったと指摘しており「たとえば巡業。力士がホテルの個室に泊まり、ガードマンが花道で警備する。お相撲さんに触ってはいけません、とね」とファンと力士の身近な触れ合いが無くなった点を言及していた。 ある雑誌の写真を見て、ある横綱が着ている着物の襟にしわが寄っていることに気付いた際「昔は、こんなことありえないですよ。横綱の着物にシワなんて。弟子がきちんと着物をたためなくなってるんですね。昔は、頭をコヅかれながら覚えさせられましたよ。これは、ちょっとみっともないですね。外国から来た横綱本人が気がつかないのは仕方ないにしても」と批判している。 『大相撲ジャーナル』2013年10月号のコラムでは同年3月場所の優勝インタビューで観客に対して大鵬に対する黙祷を求める、7月場所の優勝インタビューでこの場所を最後に引退する龍皇について話す、雑誌『相撲』の表紙写真として部屋の序ノ口(当時)・石浦と2人で映るなどの白鵬の行為を「どれも私事じゃないかな」と指摘し、公私混同であるとして批判した。 力士達が内容を顧みずテレビ番組に出演することに対しては批判的であり、2014年1月場所直前に幕内力士達が出演する腕相撲対決のテレビ収録が行われた事実に対して「専門に鍛えている人間にかなうはずがない。怪我をした力士もいた。協会広報部もなぜ番付発表後の時期に許可したのか」と厳しく詰めていた。また、力士の大食いを見世物にすることも快く思っていない。 孫弟子の隠岐の海に対して辛辣なコメントが多く、あまりに辛辣なコメントが多かったため、彼の両親に口を聞いてもらえなくなった。父親の方とはその後和解したが、母親の方とは今でも口を聞いていない。2014年か2015年に隠岐島に行った時は、隠岐の海に対する物言いの厳しさから、現地で酔っ払い数人に絡まれた。 2016年に出版された自著では「いま、テレビのほうも、ちょっと長くなると、気がはやって、自分がしゃべろうとする。そういうのが多い感じですね」とNHK大相撲中継のアナウンサーの傾向について話している。 力士の大型化に関しては警鐘を鳴らすところがあり、2020年3月場所に孫弟子の千代丸が蜂窩織炎で途中休場となった際には「そもそも『蜂窩織炎』なんて、われわれの現役時代はなかった病気である」と前置きした上で「早くいえば、デブがかかりやすい病気である」「千代丸もこれを機会に、ダイエットしたらどうだ」と200kg近い巨体を持て余す様子に対して厳しい言葉を浴びせた。 2021年1月場所4日目の取組後、新型コロナウイルス感染に対する恐怖心から引退した琴貫鐵について「若い力士がコロナが怖いから引退したが、気の毒な事である」と自身のコラムで同情するところを語った。 2021年11月場所中に「(同場所前に)東京で合同稽古が4、5日間あったが、初日は9人しか顔を見せなかったらしい。中には顔を出したが、稽古を一番もしなかった力士もいたらしい。これでは強くなるはずがない。実に情けない話だ」「協会主催の大事な合同稽古にも、理事連中はあまり顔を出さないらしい。こんな合同稽古はやるだけ無駄である。情けないことだが、力士たちは自分の親方がいないと、どうしても手を抜く。もう一度言おう。合同稽古はやめた方が良い」と合同稽古否定派の立場を示した。 髷掴みに関しては掴んだ時点で取組を止めて反則負けを宣告すべきだと主張している。 2021年11月場所中の自身のコラムで「どうも今場所に限らず、最近の審判部は昔の審判部に比べても見劣りを感じてしまう。昔は審判部に任命されるとうれしかったものだが、近ごろは審判部は長く座っているのが大変ということで、辞退する親方も少なくないと聞く。私の頃は『花の審判部』と言われたものだが、情けない時代になったものだ」と嘆いていた。
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評論家として
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「ロッキング・オン」は外来思想としてのロックを日本の風土と日常生活の中に根付かせようとする一種の思想運動だったと言える。 渋谷は時代における先進性を持ったバンドを高く評価するが、その音楽性を固定させたようなバンドは「様式化」という言葉で批判している。例えば、ハードロック(ヘヴィ・メタル)におけるブラック・サバスは評価するが、ジューダス・プリーストは批判する、という具合である。これについては松村雄策との対談の中で「サバスは好きだけどジューダスは嫌いというのは世間は納得しない」と、からかわれている。 レッド・ツェッペリンとビートルズ、プリンスに関しては盲目的なファンという姿勢をくずさない。 クイーンについては自著『ロックミュージック進化論』で、日本における人気ナンバー・ワン・バンドと評し、その要因として建築工学的で厚みのあるサウンドやメロディーの明快さ等を挙げている。渋谷自身も「デビュー当時は新しいタイプのハードロック・バンドとしてよく聞いていた」と語り、『ジョーズ』や『スター・ウォーズ』といったハリウッド大作映画に通じる質の高いエンターテイメント性がクイーンの魅力であると述べている。 ライナーノーツを数多く執筆しているが、原稿の管理に無頓着で、単行本『ロック大教典』出版の際には読者に今まで書いたテキストを送ってほしいと告知し、実際に送った人は協力者として巻末に記載されている。 英語が不得意なためにしでかした失敗もあり、一例として『音楽専科』の新譜紹介ページでエリック・クラプトンのソロアルバムのタイトル"No reason to cry"(1976)を「泣くのに理由はいらない」と誤訳したことがある(実際は「泣く理由はない」だから意味は全く逆)。 新雑誌の立ち上げに際しては編集長として積極的に関わることが多く、その手腕も高く評価されている。「映画」ジャンルにはとくに積極的に関わっており、黒澤明・北野武・宮崎駿・押井守らに直接インタビューをおこなっている。 渋谷の出る杭的な言動が、いかに業界の反感を買っていたかを象徴するエピソードには事欠かない。業界の大物のパーティーで渋谷が挨拶に立てば、「バカヤロー」「いい気になってんじゃねえぜ」と大声で罵倒の野次が嵐のごとく降ってきたこともあったという。 1972年にロッキング・オンを立ち上げてからの7年間の活動について、「評論家としての自分は、ロッキング・オンというプロジェクトの一部であった」「メディアを自分達で組織していくという行為が僕の全てであった」と振り返り、メディア活動を批評行為の一部と位置づけ、「その表出のしかたが、文章であるか、雑誌運営であるかの差でしかない」と述べている。 音楽評論家として雑誌を創刊したが、いざ雑誌を作り始めると、雑誌編集の仕事の方がはるかに面白かった、と語っている。 近年、執筆活動をほとんどしなくなった理由について、「原稿を書いているより、広告営業をしている方が楽しいし、資質的にも合っているように思う」「原稿を書いていると鬱鬱として暗くなってしまう。楽しくない事を無理矢理やると体に悪い」「要するに根っからの編集者であり、出版社の経営者なのである」と述べている。 本人は評論家業よりも出版社の経営者としての立場を重視しており、経営者の方が面白いとも公言している。
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評論家として
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1985年、政治経済評論家として独立しエスタブリッシュメント・オフィス(個人事務所)を設立。執筆、講演活動、選挙プロモート事業などを行う。政府は隠蔽体質であるとし、河野外相がCIAと北朝鮮に密かに喝破されていた等の告発を行って議論を呼んだ。
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評論家として
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『映画評論』『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を行う。佐藤重臣とともに「W佐藤」と呼ばれる。1959年、加太こうじ、森秀人、鶴見俊輔、虫明亜呂無、邑井操、柳田邦夫、タカクラ・テル、福田定良らと大衆芸術研究会を創設。 さらに、1973年から、妻の佐藤久子と共同で個人雑誌『映画史研究』を編集・発行。日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学学長(2011年~2017年)。 1996年(平成8年)春の褒章で紫綬褒章、2002年(平成14年)春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。その他に、芸術選奨文部大臣賞、王冠文化勲章(韓国)、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、芸術文化勲章シュヴァリエ(フランス)等を受賞。2019年、文化功労者。 1989年、第7回川喜多賞を妻の佐藤久子とともに受賞。 アジア映画を中心として世界中の知られざる優れた現代映画を発掘・紹介し、映画界全体の発展に寄与した。 作家・編集者の岸川真は弟子筋にあたる。 2022年3月17日、胆のうがんのため死去。91歳没。死没日付で従四位に叙され、旭日中綬章を受章。
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評論家として
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2016年9月場所後の雑誌の記事では「いまの力士は『痛い、痛い』と言い過ぎ!僕の計算では9割の力士が言ってるな(笑)。なんで『熱が出て座薬を入れて』なんてことまで、ああだこうだしゃべらないといけないんだよ?サポーターやテーピングもどんどん目立ってきてるし、一言で言うと『カッコ悪い』んだ」と批判している。 遠藤に関してはテーピングをしないということを評価している。一方で、怪我を引きずって相撲を取り続けることに関しては、2016年7月場所後に「せっかくここまで来て、また十両に逆戻りと、これを繰り返すばかりになってしまう。『ジ・エンド(遠藤)になっちゃうよー』」と、休場をする勇気を出すことを進言している。 琴勇輝の掛け声に関しては武蔵丸も反対派であり、2015年5月場所前の記事では「土俵上でなく、支度部屋にいる時や花道に進む前にやっておけ、って言いたいね」と話している。 2016年9月場所3日目に服部桜太志が敗退行為を行った際には「彼の場合、うちの弟子たちと同期だったから以前の取組も動画などで見ていたけど、この行為は今回が初めてじゃなかったんだ。師匠は彼の相撲を見ていたのかな?稽古場ではどうだったんだ?その前にちゃんと指導しておかなきゃいけなかったんだよ。師匠が悪いヨ」と難詰しており、一方で「うちの部屋の弟子も相撲経験のない子が多いし、最初は稽古場で相手を怖がってしまって、相撲にならない子もいた。そういう子は、前相撲でデビューさせるまで2、3場所、様子を見たりもするんだ」と自身の指導方針についても語っている。 2015年1月場所後の白鵬の審判部批判問題に関しては、正式な謝罪会見を開催しなかったその対応を「謝り方を間違えているよ。本当は紋付き袴着て師匠と一緒に協会に謝りに行かないと駄目。・・・テレビのバラエティで言うなんて誰が見てもおかしな話でしょ」と批判した。 2017年3月場所14日に照ノ富士が変化で琴奨菊を破った件に関しては、照ノ富士自身この場所の優勝争いに絡んでいただけに「もうね、立ち合い変化するヤツは負けにしていいよ!高いお金を払って、それも今はなかなかチケットが取れず、徹夜してまで並んでくれるお客さんもいてさ。それなのに、あんな一瞬で終わっちゃう。お客さんに失礼なんだよな」と感情的に非難している。一方で2015年9月場所11日目に鶴竜を立合い変化で破った新入幕の逸ノ城に関しては「立ち合い変化のはたき込みは、やった方も悪いけど、食った方がもっと悪いんだ」と主張している。 2017年7月場所で通算1050勝と39回目の優勝という大記録を達成した白鵬に関しては「でも、相撲内容が良くないよな。内容より『勝てばいい』『記録だけを伸ばす』と考えているのか、相変わらず張り差しとかかち上げばかりで、横綱として堂々とした相撲だったとは言えない。当たってつかまえて、投げる、一気に前に持っていって寄る。そんな力相撲を見せるのが横綱というものだと思う」と、2017年7月場所後の雑誌の記事で注文を付けていた。 2017年3月場所に第72代横綱に昇進した稀勢の里は、2場所連続2度目の幕内優勝を果たしながら、同場所13日目の横綱・日馬富士戦で右胸・上腕部の筋肉部分断裂の重傷を負った。その故障が完治せず、2017年5月から2018年3月場所迄、当時横綱在位7場所目で6場所連続休場(途中休場4回・全休2回)を記録した稀勢の里に対して、武蔵川親方は「最低でもあと1年から2年は横綱として頑張って欲しい」「こうなったら2・3場所かけてじっくり治すべきだ」と、寛容な姿勢を見せていた。その後も稀勢の里は同年7月場所迄8場所連続休場(年6場所制以降横綱として単独ワースト記録)、休場明けの9月場所では10勝5敗と復活するも、次の11月場所は初日から4連敗と絶不調で再び途中休場。進退を掛けた翌2019年1月場所も序盤3連敗、横綱では単独ワーストの8連敗を喫して同場所4日目限りで現役引退。この報道に関し武蔵川は「(大怪我の直後)暖かくて一番治りやすい夏場にきっちり休んでおけば、筋肉も言うことを聞いてくれた筈。横綱の責任は出場ではなくて、勝つことだ」と判断ミスを指摘している。 2019年11月場所後の記事で「ここ最近の大関たちを見ても、デパートのエレベーターみたいに上がったり下がったりで、大関の価値も薄れてしまっているのは残念だよね」と嘆いていた。 2020年1月場所、この頃の幕内力士達について「みんな場所前の稽古だけガンガンやって、本場所が始まると四股を践む程度らしいけれど、せっかく場所前に調子がよくても、2週間も何もしないと、だんだんと体のキレが悪くなっていくんだ」と話した。 2021年5月場所前の半生を振り返ったインタビューでは、「最近(2021年5月場所前時点)の関取は、自分の型を持たず、相撲の激しさ、ハングリーさが欠けており、友達感覚で相撲を取っている。稽古も1日10番にとどまっている」という趣旨の批判をした。 2021年7月場所千秋楽の白鵬-照ノ富士戦で見られた白鵬のかち上げを「デカい照ノ富士だからまだ大丈夫だったけれど、相手によってはこの一発で相撲人生が終わってしまうくらいの、本当に危険なこと」「もう協会も『危険な違反行為として禁止』と、スパッとルールを決めちゃえばいいと思うよ」と問題視していた。また、14日目の白鵬-正代戦で白鵬が俵近くで仕切ってからの奇襲を見せた際には「見ていて呆れたというか、もう横綱として恥ずかしいよ。元横綱の僕としては許せなかった。僕のなかにある『横綱の魂』が、新幹線に乗って東京にビューン! と帰っちゃったよ(笑)」と呆れていた。 『文藝春秋』2021年10月号の記事では「あれはプロレスでいう『エルボー』。『かち上げ』という相撲の技ではないよ」と白鵬のかち上げを切り捨てており「右のヒジにサポーターをしているけど、あのヒジ、痛くないんじゃないかな。もしケガをしていたら、わざわざ、痛めているところを使うわけはないよ。あのサポーターはボクシングのグローブの代わりみたい」と述べた。また、張り手に関しては「問題なのは、若いお相撲さんたちが横綱の真似をしてしまうこと。昨日今日入ってきたような新弟子や、学生出身力士たちが、横綱の真似して張り手をしているんだから本当に驚くね。昔だったら、若い子がそんな相撲を取るなんてあり得なかったのに」と憂慮しており「白鵬の場合、師匠が言えないからダメなのか、本人が師匠の言うことを聞かないからなのか……」と感想を漏らしている。白鵬が休場を繰り返すことに関しては「協会が彼を『生かしている』ということなんだ」「やはり協会もビジネス的には横綱の存在が欲しいんだよ。昔と比べて協会が変わったんだと僕は思う」と分析している。 阿炎や竜電といった元三役で幕内の力が十分にあった力士が長期出場停止によって幕下まで落ちたことに関しては、当たった下の力士の昇進や各段優勝に悪影響を与えるという観点から、出場停止期間中は給与の不支給という形にしながら番付は十両に据え置きすべきではないかと私見を述べている 2022年5月場所後、大関陣の不成績を指して「今までもいろいろな大関がいたけど、今の大関陣はワーストだよ」と呆れていた。御嶽海を「まだ大関2場所目でしょ? カド番が当たり前で、来場所8番勝てばいいやって、そんな考えじゃダメ」と批判し、正代に至っては「正代なんてケツがだらしないんだもの。お相撲さんはケツを見ればわかるんだ。稽古がじゅうぶんで四股をたくさん踏んでいれば、自然とケツや太ももが張ってくるものだから」と切り捨てていた。千秋楽結びの一番が優勝の掛かっていた照ノ富士と既に負け越しで翌場所の角番が決定していた御嶽海との対決であったため「千秋楽の序ノ口や序二段の優勝決定戦のほうが、よっぽど面白かったもんな」とまで扱き下ろした。
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評論家として
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「マーティン・エドワーズ」の記事における「評論家として」の解説
エドワーズは推理小説作家であると同時に主導的な評論家でもある。小説家としてデビューする以前から様々な媒体で評論を発表し、自らのウェブサイト、ブログで現在も評論を発表し続けている。その彼が、1920年代から40年代の英国における推理小説の隆盛を、「ディテクションクラブの歴史」を軸に様々な資料に基づいて描きだした『探偵小説の黄金時代』(2015)は、米国推理作家協会のエドガー賞の評論・伝記部門の他、アガサ賞、マカヴィティ賞、H・R・F・キーティング賞を受賞、またアンソニー賞や英国推理作家協会のゴールド・ダガー賞のノンフィクション部門の最終候補作となった。本作は、続けて世に出た The Story of Classic Crime in 100 Books (2017) と併せて、彼の評論家としての評価を決定づけた。
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評論家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:07 UTC 版)
大学在学中から、漫画雑誌の編集や、ライターなどとしても活動していた。同人誌『漫画新批評体系』の活動で漫画評論を行う。また、当時「三流劇画」と称されたエロ漫画との関係も深く、1979年には編集長の亀和田武退職後の『劇画アリス』誌の編集に「迷宮」として加わっている(翌1980年の廃刊まで)。その後は、『マンガ奇想天外』の編集者となった。 主な著書に『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』『戦後ギャグマンガ史』からなる戦後マンガ史三部作などがある。この三部作の成功で、これまで世間的な認知の薄かった漫画評論が注目され、米澤は漫画評論家としても活動するようになった。漫画史関連の著作は多く、急逝直前まで『戦後エロマンガ史』を『アックス』誌に連載していた(未完)。 市川によると、一つの時代一つのジャンルだけでなく漫画の全体を把握していた「百科事典みたいな人」であったという。また、コミケットに参加していたプロ作家として交流があった漫画家みなもと太郎も、「米澤は漫画の百科事典だった。漫画のことでわからないことがあると、彼に聞けばすぐ答えが返ってきた」と語っている。 『藤子不二雄論 FとAの方程式』で2002年に第26回日本児童文学学会賞受賞。 また、漫画(他)の大コレクターでありながら、コレクターにありがちな偏屈さがなく、人に好かれ信用される性格であった。『別冊太陽』で構成を担当した、一連のシリーズは、多くのコレクターから、本や漫画の提供をあおいだが、米澤が依頼すると、普段は偏屈なコレクターでも、気軽に資料を貸し出ししてくれたという。 2008年、母校の明治大学が、米澤の蔵書の一部を受け入れ、漫画資料の記録保存所として「米沢嘉博記念図書館」を開設する計画を進めていることが明らかにされ(2007年度事業報告書 「II事業の概要」参照)、2009年10月31日に開館した。18歳以上であれば学外者も閲覧が可能(有料)。
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評論家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 07:29 UTC 版)
宣伝その他別の意図を秘めて、それを故意に過大評価したり、また過小評価すべきでもない。 しかしある事件、人物を十分的確に理解し、評価することは困難な場合が多く、ことに奇蹟というような異常なことが起こっている場合には、それを奇蹟でないように評価するのではなくて、やはり奇蹟であるといって読者に伝える判断力と勇気とを、評論家は備えているべきであると考える。
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評論家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:40 UTC 版)
1998年に竹内経済工房を設立し、長銀グループを離れ評論家として独立した。なお、静岡総合研究機構の理事長は引き続き務めた。その後、静岡アジア・太平洋学術フォーラム組織委員会の委員長にも就任した。また、上海師範大学より名誉教授の称号を授与された。静岡文化芸術大学では、文化政策学部で特任教授を務めた。そのほか、静岡新聞社の論説委員を務めたり、エス・ケイ・ケイの戦略経営研究所の特別顧問も務めたりと、さまざまな役職を務めた。さらに、長銀総合研究所から分社した長銀総研コンサルティングを前身とする価値総合研究所にて、2002年より特別顧問を務めた。 2011年には、静岡県立大学や静岡県立大学短期大学部の設置者である静岡県公立大学法人にて、鈴木雅近の後任として理事長に就任した。2012年、公立大学法人の理事長を退任し、後任には京都大学大学院医学研究科特任教授の本庶佑が就任した。また、静岡総合研究機構が解散することになったため理事長を退任し、同機構を引き継ぐ形で発足した静岡県立大学のグローバル地域センターにて特任教授に就任した。さらに、同センターの初代センター長に就任した。
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評論家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 03:27 UTC 版)
「ロジャー・イーバート」の記事における「評論家として」の解説
1967年、イーバートは評論家としてのキャリアを開始した。1969年には『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を評した記事がリーダーズ・ダイジェストに転載されるなど評価は高まり、1975年にはイーバートのサンタイムズの映画評はピューリッツァー賞批評部門に輝いた。 翌1976年、イーバートはシカゴ・トリビューン紙の映画記者ですでにテレビ番組の司会も行っていたジーン・シスケルと組み、シカゴの公共テレビ局WTTW制作による映画レビュー番組『スニーク・プレビューズ(Sneak Previews)』の司会を始めた。この番組では二人が新作映画2本を紹介し、見所や評価を論じあうほか、番組最後には「ドッグ・オブ・ザ・ウィーク」と称してそれぞれがその週最悪の映画をユーモラスにこき下ろすコーナーもあった。1978年には公共放送ネットワークPBSによって全国へ配信され人気番組となった。1982年、二人はトリビューン・グループの経営する商業放送局に移籍し『アット・ザ・ムービーズ(At the Movies)』の司会となり、後にディズニー傘下のブエナ・ビスタ・テレビジョンへ移って『シスケル&イーバート&ザ・ムービーズ(Siskel & Ebert & The Movies)』の司会になった。 異なる映画観を持つ彼らは、新作映画紹介でそれぞれの観た感想や評価を述べるが、互いの評価が異なることも多くしばしば擁護派と否定派に分かれてエキサイティングな議論を展開した。最後にそれぞれがサム・アップ(親指を立てる、おすすめ映画のサイン)かサム・ダウン(親指を下げる、おすすめしない映画のサイン)を行うが、視聴者の番組に対する反響や人気は大きく、二人ともが評価する「サムズ・アップ」や、二人ともが酷評する「サムズ・ダウン」の映画は観客数に影響が出ることもあった。 シスケルが脳腫瘍で1999年に死去すると、番組は『ロジャー・イーバート & ザ・ムービーズ』に題を代え毎回違うゲストを呼ぶ形になった。2000年秋以来、シカゴ・サンタイムズのコラムニスト、リチャード・ロイパー(Richard Roeper)が毎回イーバートと共に司会を務めるようになっている。 イーバートはその他、様々な映画のDVDで映画の解説をするオーディオ・コメンタリーを担当している。
※この「評論家として」の解説は、「ロジャー・イーバート」の解説の一部です。
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