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黒澤 明 (くろさわ あきら)

1910〜1998 (明治43年平成10年)
映画監督天皇とも呼ばれた完全主義映画監督スピルバーグルーカスにも影響
昭和後期映画監督東京都出身旧制京華中学卒。1936年昭和11)P.C.L(のち東宝合併)に入社43年姿三四郎」で初監督。「羅生門らしょうもん)」が51年ベネチア国際映画祭グランプリ受賞斬新なカメラワークアクション世界衝撃与えた。54年七人の侍」では雨中騎馬上の戦闘場面など世界映画史上にも残る映像を撮った。85年文化勲章98年平成10国民栄誉賞追贈

 年(和暦)
1910年 (明治43年) 韓国併合 0才
1918年 (大正7年) 米騒動 8才
1923年 (大正12年) 関東大震災 13
1928年 (昭和3年) ■初の普通選挙実施 18
1932年 (昭和7年) 五・一五事件 22才
1936年 (昭和11年) 二・二六事件 26
1941年 (昭和16年) ■対英米宣戦布告 31
1945年 (昭和20年) ポツダム宣言受諾 35
1946年 (昭和21年) 日本国憲法公布 36
1951年 (昭和26年) サンフランシスコ講和条約 41
1953年 (昭和28年) テレビ放送開始 43
1956年 (昭和31年) 国際連合加盟 46
1960年 (昭和35年) 東京タワー完成 50
1960年 (昭和35年) 日米新安保条約調印 50
1964年 (昭和39年) 東京オリンピック 54
1968年 (昭和43年) GNP世界第2位 58
1970年 (昭和45年) 大阪万国博覧会 60
1971年 (昭和46年) 環境庁設置 61
1973年 (昭和48年) 第1次オイルショック 63
1976年 (昭和51年) ロッキード事件 66
1978年 (昭和53年) 日中平和友好条約 68
1978年 (昭和53年) 成田空港開港 68
1979年 (昭和54年) ■第2次オイルショック 69
1982年 (昭和57年) 東北・上越新幹線開通 72
1983年 (昭和58年) 大韓航空機撃墜事件 73
1985年 (昭和60年) 日航ジャンボ機墜落事件 75
1986年 (昭和61年) 国鉄分割・民営化 76
1989年 (平成元年) ODA世界第1位となる 79
1989年 (平成元年) 消費税導入 79
1991年 (平成3年) バブル崩壊 81
1992年 (平成4年) 国際平和協力法成立 82
1995年 (平成7年) 阪神大震災 85
1995年 (平成7年) 地下鉄サリン事件 85


 人物
美濃部 亮吉 1904年1984年 (明治37年昭和59年) +6
堀 辰雄 1904年1953年 (明治37年昭和28年) +6
榎本 健一 1904年1970年 (明治37年昭和45年) +6
朝永 振一郎 1906年1979年 (明治39年昭和54年) +4
湯川 秀樹 1907年1981年 (明治40年昭和56年) +3
大岡 昇平 1909年1988年 (明治42年昭和63年) +1


映画監督・出演者情報

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黒澤明

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黒澤明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 05:36 UTC 版)

くろさわ あきら
黒澤 明
黒澤 明
生年月日 1910年3月23日
没年月日 1998年9月6日(満88歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府荏原郡大井町
(現:東京都品川区
民族 日本人
職業 映画監督
映画プロデューサー
脚本家
配偶者 矢口陽子
家族 長男黒澤久雄
長女:黒澤和子

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢明、1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、日本映画監督小津安二郎溝口健二成瀬巳喜男らと共に、世界的にその名が知られた日本映画巨匠であった。日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。米国映画芸術科学アカデミー会員。栄典及び称号は、従三位文化勲章文化功労者国民栄誉賞東京都名誉都民

目次

経歴

生い立ち

1910年明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の日本体育会(現在の日本体育大学)敷地内において生まれた。4男4女の末っ子であり、父親は秋田県中仙町(現在の大仙市)出身の元軍人で、体育教師をしていた[1]。一方黒澤自身は後年、親しい仲間には自分が秋田に生まれ、幼少時に東京に引っ越してきたと語っていた。

黒田小学校(文京区立第五中学校の前身)を経て、1928年昭和3年)に京華中学校を卒業した。幼少期には活動弁士であった実兄・須田貞明と、小学校時代の恩師・立川精治から強い薫陶を受け、また終生の友となる脚本家・植草圭之助とは小学校の同級生として出会った。中学生時代には、ドストエフスキートルストイツルゲーネフなどのロシア文学を読みふけり、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。

初め画家となることを志した黒澤は、日本プロレタリア美術家同盟に参加。洋画家・岡本唐貴白土三平の実父)に絵を教わり、二科展にも入選している。当時黒澤は、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという。

映画界入り

1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、100倍の難関を突破してP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入所した。

映画監督・谷口千吉の推しによって、主に映画監督・山本嘉次郎の下での助監督を務め、映画 『』(1941年)などを担当した。また、この頃に書いた脚本、『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、脚本家で監督の伊丹万作からも絶賛された。この頃黒澤の書いた脚本としては他に、『雪』、『静かなり』などがある。

助監督時代の仲間には、後の映画監督・本多猪四郎がいた。森田信義の推薦により、黒澤の初監督作品として『敵中横断三百里』が予定されたが、実現しなかった。

白黒映画監督時代

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビューした。以後、終戦を挟んで『わが青春に悔なし』、『素晴らしき日曜日』、『醉いどれ天使』、『野良犬』など、社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表した黒澤は、東宝の看板監督のひとりとなった。

また、映画監督・山本嘉次郎が参加していたオーディションにおいて、俳優・三船敏郎をたまたま目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。三船のデビュー3作目『醉いどれ天使』からは、黒澤監督作品の常連俳優となった。

自身の映画制作

撮影中の黒澤明

東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男監督らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。1950年大映で撮影した『羅生門』は、1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目される。続けてドストエフスキー原作の『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの傑作『生きる』(1952年)を撮り、後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。

1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受ける。シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』(1957年)や娯楽時代活劇『隠し砦の三悪人』(1958年)を撮った後に、独立プロダクションである黒澤プロを設立。時代活劇『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)、社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)を立て続けに発表し、大監督の名声を確定させる。

黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであり(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)、『天国と地獄』までの作品はその皮肉な成果といえよう。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させた『赤ひげ』(1965年山本周五郎原作)は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。

白黒映画および三船との決別後

ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の制作を準備。主演にピーター・フォークヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジュセフ・E・レヴィンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。

1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の制作に参加する。20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督[2]となっていた。しかし健康問題を理由に制作を離れることとなる。[3]1970年黒澤が制作を離れた後に完成した『トラ・トラ・トラ!』についての週刊朝日のインタビューに対し、黒澤は「見ていないし、見たくもない、当時の改善提案が修正されているとは思えない。済んだことであり興味がないし蒸し返すのはもうたくさんで、忘れてしまいたい」旨の内容を答えている。[4]

1970年10月 山本周五郎季節のない街』を原作、木下惠介市川崑小林正樹らと結成した四騎の会製作とし、黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保し、初のカラー作品『どですかでん』を撮影・公開するが、商業的には失敗となる。

1971年末、自殺未遂事件を起こす。日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。

1975年ソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して、「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となる。

1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。

その後も外国資本参加による映画制作が続き、ジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、フランスとの合作の『』(1985年)、米ワーナー・ブラザーズ製作でスティーブン・スピルバーグ提供の『』(1990年)などの作品を監督。

1985年11月、文化勲章受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。

1990年米アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。

八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去。88歳没。また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治が後を追うような形で死去。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、翌1999年には米週刊誌『タイム』アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。

作品をめぐる評価とその演出

黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは、疑問の余地がない。骨太のヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚(助監督を務めたこともある野村芳太郎は「世界的レベルを超えている」と絶賛している)は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた(後述の「世界的な影響」を参照)。ただし、『どですかでん』以後のカラー作品については評価が分かれ、娯楽性よりも芸術性を重視したそれらの作品に対しての否定的な見解も出されている。

妥協を許さない厳しい演出はことに有名で、何カ月にもわたる俳優たちの演技リハーサル、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続ける、カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込む、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使う、ロケ現場に立っていた民家を画に邪魔であるとして立ち退きを迫ったなどなど逸話は多い。

また黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これはワンシーン・ワンカットで撮るため、役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。

三船敏郎との関係

黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで計16本の映画に三船敏郎を起用し、頻繁に主演として使った。基本的に役者に惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、三船を手放さなかった。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。ただ、『蜘蛛巣城』(1957年)のクライマックスとなる、三船演じる鷲津武時が城兵の裏切りにより、全身に矢を浴びせられてハリネズミのようになり最期を遂げるシーンでは、本物の矢が三船に射かけられるという命がけのスタントで、これにはさすがの三船も激怒したという(蜘蛛巣城#撮影に関するエピソード参照)。が、その後もしばらくの間、三船は黒澤の作品に出演し続けている。

黒澤の世界的な評価と同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。

「赤ひげ」を最後に黒澤は三船を使わなくなり、そのため2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。

世界的な影響

日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べている(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)。

スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模したと言われる。

フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したと言われる。

また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。

マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。

技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。

超望遠レンズでパンフォーカスの画を撮るためには絞りを極限まで絞って撮影しなければならない。そのためには強い照明をあてなければならず、黒澤の撮影日は電力不足で撮影所の他の仕事ができなかった。また、あまりにも強い照明を当て続けたせいで役者のカツラが燃えだしたこともあった。

さらに、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンで、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。『七人の侍』の影響からか、主役格が7人である映画は多い。

ジョン・ミリアスジョージ・ミラーロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。

クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。

北野武も黒澤映画の影響を受けた人物の一人である。また黒澤も北野映画のファンであることを公言していた。

その他

兵役は、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除された。

当時と世代としては好体格であり、学生時代は水泳と剣道に打ち込んだ。

作品『海は見ていた』は、黒澤が自分で監督するつもりで脚本を執筆していたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたゆえ、コストの面で折り合いがつかず、制作が実現しなかった。黒澤の死後に、熊井啓監督によって映画化されている。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品には恋愛ドラマを撮りたかったという説もある。また仲代達矢は、黒澤が生前に『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証している(黒澤はセルゲイ・ボンダルチュクが手掛けた映画版を「ボンダルチュクは本当に凡だな」と酷評していた「黒澤明 封印された十年」)。

大のヤクザ嫌いで知られ、その影響が作風にも出ており、『酔いどれ天使』、『生きる』、『用心棒』などの作品でも、ヤクザを否定するシーンやテーマがある。

私生活の黒澤はグルメで知られ、この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武も、その旺盛な食欲に感嘆したと述べている。本人は北野に「食事はバランス」だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解したところによると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉、豚肉、鶏肉などのさまざまな種類の肉を食べることだと言った趣旨であったと苦笑している。

黒澤の肉料理好きについては、後期作品の製作進行を務めた熊田雅彦も、スッポン、寒鰤など脂っこい料理が好きで「育ちは山の手だけど、ルーツは秋田なんだろうなあと思いました」と述べている[5]

妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費が余りに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[6]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。

また、酒も煙草も嗜んだ。特にウイスキーが大好物で、当時まだ珍しかったジョニーウォーカーホワイトホースを愛飲していた。1993年イランアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折りは「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すのでやむ無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[7]。大酒飲みであったので、三船敏郎や千秋実は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。

『七人の侍』の撮影期間中、5時にロケーションが終了し6時から広間でメインの俳優とスタッフが、黒澤を中心に車座になって食事をしていた。しかし、実態は黒澤の独演会で飲めば飲むほど話がはずみ、11時ぐらいまで話が延々と続いた。黒澤によると「みんなで一緒にご飯を食べるときが一番楽しいね。内々の話をしたりね。僕はよく、あそこで演出をしちゃってるんだよって言うんです。宴会で家族みたいになると、現場でもやりいいですよ。映画はみんなで創っているんですから」。

児玉清は若手時代に黒澤に徹底的にいじめ抜かれ、厳しい指導を受けた。児玉曰く「黒澤を殴ろう」と思ったが、結局殴らずじまいで出番を終える。その後、児玉は黒澤に評価されていたことを知り、腰が砕けたという。

佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎監督が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。

山田洋次監督が黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎監督『東京物語』をビデオで鑑賞していたという。なお、黒澤は話題になった新作を含め、自宅でよく映画をビデオ、テレビ鑑賞しており、この話を伝聞で聞いた蓮實重彦が尾ひれを付けて語ったような「晩年の黒澤は小津映画ばかり繰り返し見ていた」というような事実はない。

作家の小林久三は、黒澤プロから松竹に転職した社員の話として、大学出たての彼の同プロ出勤初日に、来客中だった黒澤が立ち上がって「黒澤です。よろしくお願いします」と頭を下げたというエピソードを記し、その紳士ぶりを伝えている。

俳優の藤木悠によると、『蜘蛛巣城』の撮影中、藤木が「監督も(ゴジラ映画を)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その話をそばで聞いていた東宝製作部の人間が藤木を呼び、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。

所ジョージの出演する番組を、欠かさずチェックしていたという。そのために『まあだだよ』への出演が決まった。

松田優作がまだ六月劇場の研修生だったころ、黒澤の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫ったが、結局会わずに追い返してしまう。その時の経験から後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語り、その言葉通りに、逝去するまで黒澤映画に出演することはなかった。

菅井きんは、映画出演時には黒澤には優しくしてもらい、自分の演技に落ち込んでいる時には慰めてくれたと語っている。赤ん坊を背負う母親役を演じた際は、雨のシーンの撮影時には「赤ちゃんはいらない。濡れたら可哀想だから」と気遣いをしたという。

世田谷区松原にあった当時の黒澤邸から通りをはさんで3軒先にある小劇場「宇宙舘」で松田は70年代後半に自ら書き起こした作品を上演している。

身長は181cmで、明治生まれの日本人としてはずば抜けた長身だった。晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際に、プレゼンテーターを務めたジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグよりも、頭一つほど大きかった(この2人は、おおよそ170cm弱)。

カンヌ映画祭の時、マドンナと同じホテルであったが、マドンナ側から「一緒に食事を」との申し出に対して黒澤監督は付き添いの娘に、「嫌だ、どうしてもと言うなら窓から飛び降りて逃げる」と言った。マドンナをどう思うか?という質問に黒澤監督は、「面白いね、しかしね、なかなか。他の映画も観ましたけどね、マドンナが主演してるやつね。テレビですけどね。いろんな意味でね。何て言うのかなぁ勝手なことしてるでしょ?思い切ってこだわらずに。で、キャラクターとしてとてもおもしろいなぁと思いましたけどね」。

生前、自らがもし映画館を作るとしたら?という前提で百本の映画をチョイスしたが、そのうち最も絶賛したのがサタジット・レイ『大地のうた』であった[8]

スタッフや俳優からは、「クロさん」と呼ばれた。演出中に俳優を罵倒する際の最大級の罵り言葉は、「このでこすけ!」であった。この「でこすけ」が出ると、もう収拾がつかなかったという[9][10]

芸能界に関係する家族

  • (兄)須田貞明(黒澤丙午)(活動弁士。トーキー導入時期に浅草の松竹系映画館弁士の労組委員長となるが挫折後、伊豆で愛人と心中)
  • (妻)矢口陽子(女優、結婚後に引退)。
    • (長男)黒澤久雄(タレント、プロデューサー、黒澤プロダクション代表取締役社長)
      (前妻)林寛子(タレント、後に離婚)。
      • (孫・長男)
      • (孫・長女)黒澤優(元女優、夫は松岡充
      • (孫・次女)黒澤萌(歌手)
    • (長女)黒澤和子(デザイナー)
      (前夫)加藤晴之(加東大介の息子、後に離婚。つまり長門裕之津川雅彦などのマキノ一族とも、縁戚関係にあった)
      • (孫・長男)加藤隆之(俳優)

作品

監督作品

公開年 作品名 制作(配給) 脚本 主な出演者 上映時間ほか
1943年 姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内傳次郎藤田進月形龍之介轟夕起子志村喬花井蘭子 79分/白黒/スタンダード
1944年 一番美しく 東宝 黒澤明 志村喬、清川荘司、入江たか子矢口陽子萬代峰子 85分/白黒/スタンダード
1945年 續姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、月形龍之介、河野秋武、轟夕起子、清川荘司、宮口精二森雅之 82分/白黒/スタンダード
虎の尾を踏む男達 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、榎本健一小杉義男仁科周芳(岩井半四郎) 58分/白黒/スタンダード
1946年 明日を創る人々 東宝 山形雄策山本嘉次郎 藤田進高峰秀子薄田研二森雅之竹久千恵子志村喬鳥羽陽之助 82分/白黒/スタンダード
わが青春に悔なし 東宝 久板栄二郎 原節子、藤田進、杉村春子、大河内伝次郎、河野秋武、三好栄子、志村喬、原ひさ子谷間小百合 110分/白黒/スタンダード
1947年 素晴らしき日曜日 東宝 植草圭之助 沼崎勲中北千枝子渡辺篤菅井一郎 108分/白黒/スタンダード
1948年 醉いどれ天使 東宝 植草圭之助、黒澤明 志村喬、三船敏郎木暮実千代久我美子山本礼三郎千石規子進藤英太郎、中北千枝子、笠置シズ子飯田蝶子木匠久美子 98分/白黒/スタンダード
1949年 静かなる決闘 大映 黒澤明、谷口千吉 三船敏郎、三條美紀、志村喬、千石規子、中北千枝子 95分/白黒/スタンダード
野良犬 新東宝映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、志村喬、木村功、山本礼三郎、淡路恵子河村黎吉、飯田蝶子、伊豆肇、千石規子、三好栄子、千秋実 122分/白黒/スタンダード
1950年 醜聞 松竹=映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、山口淑子、志村喬、桂木洋子北林谷栄千秋実 .日守新一、岡村文子、左卜全三井弘次 104分/白黒/スタンダード
羅生門 大映 黒澤明、橋本忍 三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎加東大介、本間文子 88分/白黒/スタンダード
1951年 白痴 松竹 久板栄二郎、黒澤明 原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬、千秋実、岸惠子. 東山千栄子、千石規子、左卜全 166分/白黒/スタンダード
1952年 生きる 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 志村喬、日守新一、千秋実、小田切みき田中春男中村伸郎金子信雄浦辺粂子藤原釜足、左卜全、宮口精二、渡辺篤、伊藤雄之助阿部九州男市村俊幸丹阿弥谷津子菅井きん南美江 143分/白黒/スタンダード
1954年 七人の侍 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 志村喬、三船敏郎、木村功、稲葉義男加東大介、千秋実、宮口精二、藤原釜足、津島恵子土屋嘉男、左卜全、高堂国典東野英治郎島崎雪子山形勲 207分/白黒/スタンダード
1955年 生きものの記録 東宝 橋本忍、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、志村喬、青山京子東郷晴子、千秋実、東野英治郎、千石規子、清水将夫根岸明美、三好栄子、左卜全、佐田豊 113分/白黒/スタンダード
1957年 蜘蛛巣城 東宝 小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明、千秋実、太刀川洋一浪花千栄子佐々木孝丸、高堂国典、稲葉義男 110分/白黒/スタンダード
どん底 東宝 小国英雄、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、千秋実、上田吉二郎、藤原釜足、三井弘次、東野英治郎、渡辺篤、左卜全、清川虹子, 根岸明美 125分/白黒/スタンダード
1958年 隠し砦の三悪人 東宝 菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明 三船敏郎、千秋実、藤田進、藤原釜足、志村喬、上原美佐、三好栄子、藤木悠、土屋嘉男、田中春男、三井弘次、上田吉二郎 139分/白黒/シネマスコープ
1960年 悪い奴ほどよく眠る 東宝=黒澤プロ 小国英雄、久板栄二郎、黒澤明、菊島隆三、橋本忍 三船敏郎、香川京子、三橋達也、森雅之、志村喬、西村晃、藤原釜足、加藤武笠智衆、宮口精二、山茶花究、藤田進、中村伸郎、賀原夏子一の宮あつ子 151分/白黒/シネマスコープ
1961年 用心棒 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢司葉子、加東大介、山茶花究、河津清三郎、山田五十鈴、東野英治郎、沢村いき雄、志村喬、藤原釜足、夏木陽介 110分/白黒/シネマスコープ
1962年 椿三十郎 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、小林桂樹加山雄三団令子、志村喬、藤原釜足、清水将夫、伊藤雄之助、入江たか子、平田昭彦田中邦衛、久保明 96分/白黒/シネマスコープ
1963年 天国と地獄 東宝=黒澤プロ 小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、石山健二郎、木村功、加藤武、志村喬、山崎努千秋実 .佐田豊、伊藤雄之助、中村伸郎、田崎潤名古屋章 143分/白黒・パートカラー/シネマスコープ
1965年 赤ひげ 東宝=黒澤プロ 井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、香川京子、桑野みゆき二木てるみ頭師佳孝、土屋嘉男、志村喬、笠智衆、田中絹代内藤洋子、杉村春子、藤山陽子風見章子、根岸明美 185分/白黒/シネマスコープ
1970年 どですかでん 四騎の会=東宝 黒澤明、小國英雄、橋本忍 頭師佳孝、菅井きん三波伸介伴淳三郎芥川比呂志奈良岡朋子加藤和夫、渡辺篤、藤原釜足、井川比佐志、田中邦衛、楠侑子松村達雄三谷昇二瓶正也江幡高志小島三児園佳也子、根岸明美、塩沢とき 140分/カラー/スタンダード
1975年 デルス・ウザーラ モスフィルム 黒澤明、ユーリー・ナギービン ユーリー・サローミン、マキシム・ムンズーク、シュメイクル・チョクモロフ、ウラジミール・クレメナ、スベトラーナ・ダニエルチェンコ 141分/カラー/70ミリ・ワイド
1980年 影武者 東宝=黒澤プロ 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、山崎努、隆大介萩原健一根津甚八大滝秀治油井昌由樹桃井かおり倍賞美津子室田日出男、志村喬、阿藤海 179分/カラー/ビスタビジョン
1985年 グリニッチ・フィルム=ヘラルド・エース 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、寺尾聰、隆大介、根津甚八、原田美枝子宮崎美子野村萬斎、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、田崎潤、加藤武、植木等南條玲子 162分/カラー/ビスタビジョン
1990年 黒澤プロ 黒澤明 寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、井川比佐志、いかりや長介伊崎充則、笠智衆、頭師佳孝、根岸季衣マーティン・スコセッシ姿晴香 120分/カラー/ビスタビジョン
1991年 八月の狂詩曲 黒澤プロ=フィーチャーフィルムエンタープライズII 黒澤明 村瀬幸子吉岡秀隆大寶智子茅島成美鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、リチャード・ギア 97分/カラー/ビスタビジョン
1993年 まあだだよ 大映=電通=黒澤プロ 黒澤明 松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、小林亜星板東英二岡本信人 134分/カラー/ビスタビジョン

著作権問題

上記の作品のうち、1952年までに公開された作品は、2004年1月1日に改正法が施行される前の著作権法の規定により、公開後50年を経たことを根拠に、日本国内においては著作権の保護期間が終了したとの誤解が一部であったことから、いくつかの作品が、著作権者の許諾なしに激安DVDで発売された。これに対し、製作者(著作権継承者)の東宝と角川映画は2036年(監督没後38年)まで著作権が存続するとして発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年9月14日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。松竹作品についても2008年1月28日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。発売業者は控訴・上告したが、2009年10月8日最高裁は原告勝訴の判決を下しており、2036年まで著作権が存続することが確定している[11]映画の著作物#旧法時の映画の著作物も参照のこと)。

その他の映像作品

作詞

その他

受賞歴

  • 『羅生門』(1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞・イタリア批評家賞、1951年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、1953年アメリカ監督組合賞ノミネート、1952年米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞))
  • 『生きる』(1954年ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞)
  • 『七人の侍』(1954年ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞)
  • 『隠し砦の三悪人』(1958年ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞)
  • 『赤ひげ』(1965年ヴェネツィア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)、モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞、フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞)
  • 『どですかでん』(モスクワ映画祭映画労働組合賞)[12]
  • 『デルス・ウザーラ』(1975年モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞、1976年米アカデミー賞外国語映画賞、1977年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1977年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、パリ国際映画祭賞[要出典]
  • 『影武者』(1980年カンヌ国際映画祭パルム・ドール、1981年英国アカデミー賞監督賞、1981年セザール賞外国語映画賞、1981年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、1981年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1981年ベルギー映画批評家協会監督賞)
  • 『乱』(1985年米アカデミー賞監督賞ノミネート、1985年全米批評家協会賞作品賞、1985年ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞、1985年ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞、1985年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、1985年ボストン批評家協会賞作品賞、1986年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1987年英国アカデミー賞外国語映画賞、1987年ロンドン映画批評家賞監督賞)

関連文献

著書

  • 黒澤明 『蝦蟇の油 自伝のようなもの』 岩波書店 1984年
     岩波同時代ライブラリー 1990年、岩波現代文庫 2001年/復刊2010年
  • 全集 黒澤明』(全7巻、岩波書店)、1987-88年 / 復刊1993年、※最終巻は2002年刊
  • 『黒澤明語る』(聞き手原田眞人福武書店 1991年、福武文庫 1995年
  • 『黒澤明作品画集』 TOKYO FM出版 1992年-大著
  • 黒澤明 『まあだだよ』 徳間書店 1993年-絵コンテ集・シナリオ等
    • ※他に刊行されたのは、『夢』(岩波書店 1990年)
      『乱』(集英社 1984年) 、『影武者』(講談社 1979年)
  • 黒澤明・宮崎駿対談 『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 スタジオジブリ 1993年
  • 黒澤明述、文藝春秋編 『黒澤明「夢は天才である」』 文藝春秋 1999年
  • 黒澤プロダクション監修 『黒澤明全画集』 小学館 1999年-大著
  • 黒澤明 『海は見ていた 巨匠が遺した絵コンテ.シナリオ.創作ノート』 新潮社 2002年
  • 大系 黒澤明』(全4巻+別巻、講談社)、浜野保樹編、2009年10月~2010年4月に、別巻は11月に刊行。
  • 『黒澤明 絵画に見るクロサワの心』 角川文庫、2010年8月-解説横尾忠則
  • 『「七人の侍」創作ノート』 文藝春秋 2巻組、2010年8月

回想・評伝・作品研究

※基本的に没後のみ。著者・編者五十音順。
  • 川村蘭太 『黒澤明から聞いたこと』 新潮新書 2009年
  • 黒澤明研究会編 『黒澤明を語る人々』 朝日ソノラマ 2004年
  • 黒澤和子 『パパ、黒澤明』 文藝春秋 2000年、文春文庫 2004年
  • 黒澤和子 『黒澤明の食卓』 小学館文庫 2001年
  • 黒澤和子 『回想黒澤明』 中公新書 2004年
  • 小林信彦 『黒澤明という時代』 文藝春秋 2009年
  • 佐藤忠男 『黒澤明の世界』 朝日文庫 1986年
  • 佐藤忠男[14] 『黒澤明作品解題』 岩波同時代ライブラリー 1990年、岩波現代文庫、2002年
  • 塩澤幸登編 『KUROSAWA 黒澤明と黒澤組、その映画的記憶、映画創造の記録』
     茉莉花社 全3巻、 2005年、※スタッフインタビュー集
  • 田草川弘 『黒澤明vsハリウッド 〈トラ・トラ・トラ!〉 その謎のすべて』
    文藝春秋 2006年、文春文庫 2010年3月-大佛次郎賞受賞
  • 土屋嘉男 『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』 新潮社 1999年、新潮文庫 2002年
  • 都築政昭 『黒澤明 全作品と全生涯』 東京書籍、2010年
  • 都築政昭 『黒澤明と「七人の侍」』 朝日ソノラマ 1999年、朝日文庫 2006年
    ※他に朝日ソノラマを主に、作品論を多数刊行。リンク先参照
  • 仲代達矢山崎努ほか 『十五人の黒澤明 出演者が語る巨匠の横顔』 ぴあ 2005年
  • 西村雄一郎 『巨匠のメチエ 黒沢明とスタッフたち インタビュー集』 フィルムアート社 1987年
  • 西村雄一郎 『黒澤明 音と映像』 立風書房 1990年、増補版1998年
  • 西村雄一郎 『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』 筑摩書房 2005年
  • 西村雄一郎 『黒澤明 封印された十年』 新潮社 2007年
  • 野上照代 『天気待ち 監督・黒澤明とともに』 文藝春秋 2001年、文春文庫 2004年
  • 橋本忍 『複眼の映像 私と黒澤明』 文藝春秋 2005年、文春文庫、2010年3月
  • 樋口尚文 『黒澤明の映画術』 筑摩書房 1999年
  • 古山敏幸 『黒澤明の作劇術』 フィルムアート社、2008年
  • 堀川弘通 『評伝黒澤明』 毎日新聞社 2000年、ちくま文庫 2003年

ムック

  • 『KAWADE夢ムック 文藝別冊 追悼特集黒澤明』 河出書房新社 1998年
    • 増補新版 『KAWADE夢ムック 黒澤明生誕100年総特集』 2010年1月
  • 黒澤明研究会編 『MOOK21 黒澤明〜夢のあしあと〜』 共同通信社 1999年
  • 淀川長治、黒澤明を語る』 河出書房新社 1999年 ※遺作のひとつ
  • キネマ旬報編集部編 『黒澤明集成 (全3巻)』 キネマ旬報社 1989年〜93年
  • 西村雄一郎『キネ旬ムック 黒澤明を求めて』キネマ旬報社 2000年
  • 野上照代編『キネ旬ムック 黒澤明 天才の苦悩と創造』キネマ旬報社 2001年
  • 『キネマ旬報セレクション 黒澤明』 2010年4月

絶版書籍・雑誌

  • キネマ旬報増刊号 『黒沢明〜その作品と顔』 キネマ旬報社 1963年
    • ※『「黒沢明・三船敏郎」 二人の日本人』、『黒沢明ドキュメント』(関係者60名の証言)と共に、3冊組<黒澤明コレクション>で、1997年12月に限定復刻。
  • 『黒沢明映画大系』(全6巻) キネマ旬報社 1970-71年
  • 『世界の映画作家.3 黒沢明』 キネマ旬報社 1970年、※「黒澤明集成.III」に大半を再録。
  • 植草圭之助 『わが青春の黒澤明』 文藝春秋 1978年、文春文庫 1985年
  • ドナルド・リチー、三木宮彦訳 『黒澤明の映画』 キネマ旬報社 1979年、現代教養文庫、1991年、増補版1993年
    ※原題は、Donald Richie <The Films of Akira Kurosawa> 著者は第1回の川喜多賞受賞者。
  • 島敏光 『黒澤明のいる風景』 新潮社 1991年、※著者は甥で、少年時代は黒沢家で暮らした
  • 尾形敏朗 『巨人と少年 黒沢明の女性たち』 文藝春秋 1992年
  • 文藝春秋編 『異説・黒澤明』 文春文庫ビジュアル版 1994年
  • 『黒澤明 田村彰英写真集』 NTT出版 1991年
  • 月刊PLAYBOY 『黒澤明没後10年記念企画 クロサワ 世界の映画王』 集英社 2008年3月号(No.398)

黒澤明記念館

佐賀県伊万里市黒川町大字福田字米島地内に建設が計画されていた。開館までの繋ぎの仮施設として、1999年7月2日に伊万里市市街地中心部の商業施設にサテライトスタジオが開設された [15]

2001年、黒澤明文化振興財団が寄付金を募り黒澤明記念館を建築する予定で2007年年度末までに伊万里市が黒澤明記念館建設購入権を含め3億5100万円、総額で約3億8800万円もの建設資金を寄付などで集めたことが分かったが、同財団が佐賀県に提出した2007度決算報告書ではわずか140万円しか残っていないことが判明、純資産も9000万円しか無かった。2010年2月19日、伊万里市議会全員協議会に於いて、同財団理事長で黒澤明の息子である黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝した[16][17]。その後2010年5月には、同財団側が、多額の資金を集めて記念館を造ることが現実的でないとした上で、市内の商店街に既にオープンしているサテライトスタジオをリニューアルし本記念館としたいとの意向を示し、記念館の建設を事実上断念することを決めたと、伊万里市側が明らかにした[18]

2011年3月6日、サテライトスタジオが閉館した[19]

黒澤デジタルアーカイブ

黒澤プロダクションは龍谷大学の協力の下、黒沢監督の直筆のノートやメモ、写真など計2万7431点の資料のデジタル化をし、「黒澤デジタルアーカイブ」としてインターネット上で公開している[20]

脚注

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  1. ^ 後に学校法人日本体育会理事
  2. ^ ハリウッドの映画制作現場には総監督という役職も該当する単語もない。20世紀フォックスの『史上最大の作戦』の例では、複数の監督が存在した場合にの統括はプロデューサーが行う。アメリカにおいては『トラ・トラ・トラ!』は『史上最大の作戦』と同じフォーマットで撮影されると報道されていた。だが、これは日米間の認識のずれというよりも、黒澤プロダクションのプロデューサーが意図的に黒澤本人やマスコミに事実と異なる情報を伝えた結果である。田草川弘 『黒澤明vsハリウッド』(文藝春秋)
  3. ^ 黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されたり、東京から来た黒澤に反感を持つ京都太秦撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊、スケジュールが大幅に遅延し、さらには黒澤が倒れ病院搬送されるなどの事態まで発生する。ついに、健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされるが、これは黒澤の名誉に配慮した表向きの理由であり、製作遅延を無視できなくなった米側による事実上の解任であった田草川弘 『黒澤明vsハリウッド』(文藝春秋)
  4. ^ 一般には、この事件は黒澤に大きな精神的打撃を与えたとされ、後の自殺未遂と関連付けられ語られることも多いが、側近の野上照代(「どですかでん」の興行的失敗のショック)や長女の黒澤和子(監督降板後は、むしろサバサバした様子だった)のように、それを否定する証言もある。
  5. ^サライ』(小学館)1999年2月4日号 21頁
  6. ^ 島敏光 『黒澤明のいる風景』 (新潮社)
  7. ^ 産経新聞 2004年7月1日
  8. ^ 『黒沢明「夢は天才である」』(文藝春秋
  9. ^ 土屋嘉男『クロサワさーん! 黒沢明との素晴らしき日々』(新潮文庫
  10. ^ 黒澤の作品に数多く出演した女優の香川京子によれば、「本当に怖かった。迫力ありますよ」とのことである
  11. ^ 「羅生門」廉価版DVD販売差し止め確定 - 読売新聞・2009年10月8日
  12. ^ 黒沢明・絵コンテの世界
  13. ^ 黒沢明・絵コンテの世界
  14. ^ 右記の「作品解題」の大半は『全集 黒澤明』の解題。佐藤は数多い黒澤本では、自伝「蝦蟇の油」、堀川弘通「評伝 黒澤明」、橋本忍「複眼の映像」の他に、田草川弘「黒澤明VSハリウッド」と野上照代「天気待ち」を推薦している。(毎日新聞日曜読書コラム「今週の本棚・この人この3冊」、2010年1月9日付)より。
  15. ^ 黒澤明文化振興財団 - 記念館概容」、「サテライトスタジオ
  16. ^ 黒澤明文化振興財団:「記念館」建設計画の財団、寄付3億円不記載--07年度決算 - 毎日jp(毎日新聞)
  17. ^ 「寄付金使い果たした」黒澤財団理事長が陳謝 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  18. ^ 黒澤明記念館の新設断念 財団側、佐賀・伊万里市に回答 朝日新聞 2010年5月7日
  19. ^ 黒澤明記念館スタジオ閉館 運営財団、寄付金使い果たし 朝日新聞 2011年3月7日
  20. ^ 黒澤デジタルアーカイブ

関連項目

外部リンク


黒沢明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/07/09 06:38 UTC 版)

黒沢明(くろさわ あきら)





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