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ビートルズ [The Beatles]

1960年代若者文化頂点に立ったイギリスロック-グループジョン=レノン・ポール=マッカートニー・ジョージ=ハリソン・リンゴ=スター四人代表作イエスタデイ」「エリナー=リグビー」「ヘイ-ジュード」など。70年解散


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ビートルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/02 10:38 UTC 版)

The Beatles
レノン(左上)、マッカートニー(右上)、ハリスン(左下)、スター(右下)。1964年撮影。
レノン(左上)、マッカートニー(右上)、ハリスン(左下)、スター(右下)。1964年撮影。
基本情報
別名 Fab4
出身地 イングランドの旗 イングランド リヴァプール
ジャンル ロック
ポップ・ミュージック
ロックンロール
アート・ロック
サイケデリック・ロック
活動期間 1960年 (1960) - 1970年
レーベル イギリスの旗パーロフォンEMI
イギリスの旗アップル・レコード
アメリカ合衆国の旗スワン
アメリカ合衆国の旗ヴィージェイ・レコード
アメリカ合衆国の旗キャピトル・レコード
日本の旗EMIミュージック・ジャパン
共同作業者 ジョージ・マーティン
影響 エルヴィス・プレスリー
チャック・ベリーなど
公式サイト www.emimusic.jp/beatles
メンバー
ジョン・レノン
ポール・マッカートニー
ジョージ・ハリスン
リンゴ・スター
旧メンバー
ピート・ベスト
スチュアート・サトクリフ

ザ・ビートルズThe Beatles)は、イギリスリヴァプール出身のロックバンドである。

目次

概要

主に1960年代に活動したロックバンド。1962年10月にレコードデビュー1970年4月に事実上解散(詳細はこちら)。"Fab4"[注釈 1]という愛称もある[1]

バンドの活動期間内に母国イギリスで12作[注釈 2]のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間1位を獲得した。11作の週間1位獲得合計数は162週[注釈 3]。年間売り上げ最高アルバム獲得数4作[注釈 4]と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続1位獲得30週[注釈 5]はいずれも1960年代の最高数[注釈 6]。シングルは22作[注釈 7]発売し、その内17作が1位を獲得。さらにアメリカを初め各国でも高いセールスを記録(詳細は「ビートルズの作品」を参照)し、ギネス・ワールド・レコーズ最も成功したグループアーティストと認定されている。本国イギリスでは1965年に外貨獲得に貢献したとしてエリザベス2世からMBE勲章を授与されている[2]1988年に「ロックの殿堂」入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称される人気を獲得。それに加えて後期には音楽的にも評価されている(評価と影響を参照)。

バンドとメンバーについて

バンド名の由来

ビートルズのロゴ

「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョンの発言[3]によれば、この名前を提案したのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名である「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ[注釈 8]にあやかり、同じ昆虫で、同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズ[注釈 9]を『乱暴者[注釈 10]から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演の仕事を依頼してきたブライアン・キャス[3]にその名前を嫌われ[注釈 11]、出演条件として改名を提案され「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名前が提示された。話し合いの上、お互い譲り合う形で『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と名乗る事になったが、その後ロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗る様になった[3]。ただし同年8月から行われた最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告[4]に出演者として記載された時点で「The Beatles」となっている。

メンバーと担当楽器

基本編成

上記の通り、パーロフォンからレコード・デビューした1962年10月の時点で「ギター×2、ベース、ドラムス」という編成となっている。この編成は1961年に「ギター×3、ベース、ドラムス」という編成で行われた2度目のハンブルク巡業(詳細はこちら)が終了した時点で、それまでベースを担当していたスチュアート・サトクリフが脱退して4人編成に変わり、ギター担当の1人だったポールがベースに転向した事で確立された[5]。さらにデビューの直前である1962年8月にドラムスがピート・ベストからリンゴ・スターに交代し、解散するまでこの編成が続いた。デビューから2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたため、原則としてこの編成による一発録りで録音されていたが、ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!から4トラックが導入されて多重録音が可能になると、演奏のみのベーシック・トラックとボーカル、リード楽器を別個に録音するといった録音方法が採られる様になる[6]

中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時に、ジョンがベースを担当する例も存在する[注釈 13]他、1968年のホワイトアルバム録音時におけるリンゴの脱退騒動[7][注釈 14]に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」はポールがドラムスを担当している[注釈 15]。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。ジョンのリードギターは「ゲット・バック」や、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは「涙の乗車券」のフェイド・アウトの部分でベースに加えてリードギターを担当。「バック・イン・ザ U.S.S.R.」やジョージ作による「タックスマン」の間奏部とラスト部分などでもリードギターを弾いている。また「ブラックバード」などのアコースティック・ギターもポールが担当している。ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分はポール、ジョージ、ジョンの順番でギターソロ・リレーを演奏している[注釈 16]

ボーカル

4人全員がいずれかの曲でボーカルを担当しているが、基本的にはジョンとポールの2人がリード・ボーカル(メイン・ボーカル)を担当する事が多い。初期の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などでは、ジョンとポールの二人がメインのメロディーとハーモニーを担当しており[注釈 17]、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、また「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「曲の進行に連れて担当が次々交代するパターン」などがある。ジョージは主に「サムシング」や「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「タックスマン」等の自作曲でボーカルを担当。リンゴは「イエロー・サブマリン」や「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」など、比較的コミカルな曲でボーカルを担当している。これは両曲のメイン作曲者であるポールが、リンゴにはシリアスな曲は似合わないと考えたため[8]

曲毎に使用された楽器

曲によっては基本編成以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と外部の演奏者がセッション参加した作品がある。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ」から3曲連続でジョン[9][注釈 18]ハーモニカを演奏している。キーボードは、ポールが「マーサ・マイ・ディア」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」、ジョン作「セクシー・セディー」でピアノを担当しており[注釈 19]。またビデオ版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」では「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンをポール自ら演奏しながら解説を行っている。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートの記録映像では「アイム・ダウン」でVOXのオルガンを演奏している。「ノルウェーの森」から導入されたシタールはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いた[8]ラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けている[10][注釈 20]。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどもジョージが担当している。「ヘルター・スケルター」ではジョンがサックスを演奏している。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』においてジョージが導入した[11]。1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でジョージが演奏。ポールも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。

セッション参加したミュージシャンの例では、まずメジャーデビューに際して、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイト(Andy White)が、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加している。ただしこれはメンバーの意向ではなくプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの[12]。メンバーの自主的な判断による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」で弦楽四重奏団が、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペット奏者が招かれている。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを弾いているエリック・クラプトンや、「レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いているニッキー・ホプキンスが挙げられる。番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏を担当。また、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。映像記録が残っている例では、アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにエレクトリックピアノハモンド・オルガンなどでビリー・プレストンが参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。

利き手

ビートルズの4人のうち、ポールとリンゴは左利きであるとされている。ポールは自身が左利きだと述べている事[13]、そして演奏するベース・ギター等が左利き用である事で確認されているが、リンゴは自身のコメントが無く、右利き用のドラムスを叩いていた。ただし映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」では、川に石を投げる時やカメラの遠隔操作式シャッターを持つ時の手が左である。

作詞作曲

ビートルズのオリジナル曲はメンバー自身が作詞作曲を行っている。

オリジナル曲の作詞作曲で最も多いのはジョンとポールの共作クレジットであるレノン=マッカートニーで、ビートルズナンバー213曲[注釈 21]の内、153曲がこの名義になっている。レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆のマッカートニー=レノン作品8曲、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。[14]ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、ジョンとジョージの共作というパターンも存在する。

レノン=マッカートニー

詳細はレノン=マッカートニーを参照。

同クレジット作品は米ビルボード/英ミュージック・ウィークともNo.1になった曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、「ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)」P94のポールのコメントによれば、プリーズ・プリーズ・ミーはジョンがメイン、P.S.アイ・ラヴ・ユーはポールがメイン、フロム・ミー・トゥ・ユーは半々、と様々なパターンが存在する。また同頁によれば、共同の作者として発表していくことは早い時期から決まっており、レノン=マッカートニーという序列はミーテイングの上で決定した。ただしアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」でのみマッカートニー=レノンという表記である。また「イエスタデイ」などポールがメインの作品の場合にマッカートニー=レノンという表記を使用する事も考えられたが、実現はしていない。

ビートルズ結成当初から、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に(原題・Give Peace a Chance)」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている)クレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはない(二十数曲程度)という意見に対して、後年ジョン・レノンはインタビューで否定しており、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」で多くの曲が共作であったと言明している。

デビュー前のメンバー

ビートルズは元々クオリーメンという名称で1957年に結成。それ以降はジョニー&ムーン・ドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名を繰り返しており、ビートルズと改名するまでに複数のメンバーが入れ替わっている(クオリーメン~シルヴァー・ビートルズ時代については別項クオリーメンを参照のこと)。ビートルズと改名してから在籍したメンバーは通算6名。その内2名は1962年10月5日にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする以前にバンドから脱退している。スチュアート・サトクリフStuart Sutcliffe)はベース担当として1960年1月に加入し、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退している。この後ポールがベースを担当するようになり、バンドは4人編成になる。1962年4月10日、21歳で死去。映画『バック・ビート』は彼を主人公として描写した。ピート・ベストPete Best)はドラムス担当として1960年8月に行われた最初のハンブルク巡業の直前に加入し、1962年8月に解雇された。この直後にリンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」からビートルズに加入[注釈 22]

デビューまでの来歴

クオリーメン結成からビートルズへの改名まで

1957年3月、ジョンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する(詳細は同バンドの項目を参照の事)。同年7月6日、ウールトン(Woolton)のセント・ピーターズ教会(St. Peter's Church)が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポールが観覧。共通の友人であるアイヴァン・ボーン[注釈 23]の紹介によりジョンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(Twenty Flight Rock[注釈 24])」を歌う。ポールが歌詞を完璧に覚えている事[15]に加え、トランペットピアノも演奏出来る事にジョンは感心し、クオリーメンに勧誘。その翌日にポールは参加OKと返答した[16]。翌1958年2月6日、ポールの紹介でジョージがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー(Raunchy)」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのコードを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わる[17]1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われベーシストとしてバンドに加入(経緯はスチュアート・サトクリフを参照の事)[注釈 25]。同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフによりバンド名をビートルズとする提案がなされるが、ブライアン・キャスが改名を要請(詳細はバンド名の由来を参照)。その後の交渉により、バンド名が「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」になる[注釈 26]

ビートルズへの改名以後

1960年5月、ロンドンの芸能関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー[注釈 27]のバックバンドを務めるオーディションにエントリー。参加を約束していたドラマーが来れなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムを担当して合格。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る。この時、ジョンは「ロング・ジョン」、ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージは「カール・ハリスン」、スチュアート・サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を付けていた[18]。なお、このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する[注釈 28]。8月、アラン・ウィリアムス[注釈 29]を通じてドイツ(当時は西ドイツ)のハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、この時点でドラマーがいなかったバンドは新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6~8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、また長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していった[19]。1か月後「カイザーケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリット(アストリッド)・キルヒヘル(Astrid Kirchherr[注釈 30]が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後にザ・ビートルズ・アンソロジーなどビートルズに関する文献に収録された。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上のクラブ「トップテン」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしていた映画館の出火がきっかけとなってポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。サトクリフだけはアストリットの援助によりしばらくハンブルクに滞在した。

再建されたキャヴァーン・クラブ。

1961年1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していたが、その後アラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーに紹介され、オーディションの上でキャヴァーン・クラブ(The Cavern Club)にレギュラー出演するようになる。またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役としてニール・アスピノール[注釈 31]が、続いてマル・エヴァンズ(Mal Evans[注釈 32]が雇われた。同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。前回で出演依頼があったトップテンで演奏するようになる。このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。詳細はこちらを参照。また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を要請。ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後にビートルカットと呼ばれるようになる[20]

2度目のハンブルク巡業が終わった時点でサトクリフが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。ベースがいなくなったため、ポールがギターからベースに担当を替え、後のレコード・デビュー時と同じ編成となった4人組のビートルズが誕生する。帰国後の8月、ジョンの級友だったビル・ハリー(Bill Harry)が音楽新聞「マージービート(Mersey Beat)」を発刊。ジョンの書いた文章が載るようになる。12月10日、リバプールでレコード店「NEMS」を開いていたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる(詳細はブライアン・エプスタインの功績を参照の事)。このブライアンの売り込みにより、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。その後もビートルズがライブ活動を続ける傍ら、ブライアンが各レコード会社に売り込みを続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し11日からスター・クラブで演奏。しかしその前日の[21]4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。6月、パーロフォン・レーベルから、ジョージ・マーティンによるオーディションが打診される。ビートルズへのジョージ・マーティンの功績はこちらを参照。6月6日に行われたオーディションの後の8月15日、ピート・ベストを解雇[注釈 33]。直後にリンゴ・スターが加入。9月からEMIでレコーディング・セッション。この時はリンゴの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミス(Norman Smith)は、この後「ラバー・ソウル」までチーフ・エンジニアを務める事になる。

ハンブルクでのレコーディング

トップテンにはトニー・シェリダンが出演しており、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。6月22、23日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売[注釈 34]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのボーカルの「いい娘じゃないか」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた[注釈 35]

デビュー以降の来歴

デビューから国外への進出まで

1963年,スウェーデンのテレビ番組で

1962年10月5日にイギリスにてデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売。ミュージック・ウィーク誌(Music Week)のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録[22]。1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位[23](ミュージック・ウィーク誌は最高位2位[注釈 36])を獲得。この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3曲目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる[24]。このフロム・ミー・トゥ・ユー以降は「シー・ラヴズ・ユー(8月23日発売/1位6週)」、「抱きしめたい(11月29日発売/1位5週)」とリリースするシングルが連続して1位を獲得した[25]

一方、アルバムは4月26日、英国でのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がリリースされ、5月11日付けでチャート1位となり、それから30週間連続1位を続けた[注釈 5]。また、この記録が更新中だった同年11月22日、セカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』と入れ替わる形でチャート1位を獲得、そのまま翌年の5月まで21週間連続1位となる[注釈 5]。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム(Sunday Night at the London Palladium)」に出演。およそ1500万人[23]がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言[26]によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している(このステージでの最後の曲「ツイスト・アンド・シャウト」の直前にジョン・レノンが「安い席の人は拍手を、それ以外の人は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と観客に言っている)。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は批判と公的な抑圧を参照)。しかし、イギリスでの人気に比してアメリカではヒットしなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIのレコードをリリースしていたキャピトル・レコードにアメリカでのリリースを要請した[27]が、キャピトルはこれを拒否。その為ヴィージェイ・レコードやスワン(Swan Records)などと契約してレコードをリリースしたが、ポールの発言[28]などによれば、レコード会社が小さい事もあり、1964年の様な大きなセールスは実現しなかった。その後「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方からリリースのオファーがなされる事となった[29]

1964年1月にフランス公演。その最中にアメリカで「抱きしめたい(キャピトルでリリースした初のシングル)」がシングルチャート1位になった[注釈 37]。2月にグループとして初めて渡米し、9日にCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人[30]となった。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を開催。カーネギー・ホールで2回目の公演を開催した後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている[31]。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占[32][23]。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界公演が開催されるが、リンゴが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコル(Jimmie Nicol)が起用される。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホール(Adelaide Town Hall)での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている[33][34]。7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督[注釈 38]による映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムがリリースされ、「ウィズ・ザ・ビートルズ」を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズファーストアルバムを7月25日に抜いて1位となり、そこから21週間連続1位を維持した。

1964年,アメリカで
1964年,ドイツのテレビ番組で

この後1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、ボブ・ディランサウンド・オブ・ミュージックのサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった[注釈 5]。またアメリカのビルボードにおいても、「Meet The Beatles!(11週連続)」、「The Beatles' Second Album(5週連続)」、「A Hard Day's Night(14週連続)」の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。8月からは第2回アメリカ公演旅を行い、34日間、24都市で32公演[31]が開催される。9月に帰英し「ビートルズ・フォー・セール」を録音。10月からはイギリスで27都市の公演が行われた。12月4日、イギリスで「ビートルズ・フォー・セール」がリリースされた。

演奏旅行の中止まで

映画「ヘルプ!」のアメリカ版予告編

1965年2月[3]から映画「ヘルプ!4人はアイドル」の撮影開始。前作のドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在する作品となり、今回はカラー映画にもなった。公開は7月。サウンドトラックアルバム「4人はアイドル」は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる(当該項目を参照の事)。同月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55600人[注釈 39]の観客を集めた野外コンサート開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月、メンバーにMBE勲章が授与される。12月、「ラバー・ソウル」リリース。ジョンはこのアルバムについて、ビートルズが音楽的に同時代に影響を及ぼした最初のアルバムだと述べており[31]、実際に「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。なお、シタールの導入を提案したのはジョージであり、ラヴィ・シャンカルの影響であるとコメントしている[35][31]。同月、最後のイギリス公演旅行を行う。また、この公演旅行中に、メンバーがコンサート・ツアーを続ける事に疑問を感じて話し合いの場を持っている[36]。1966年3月、ジョンがイギリスのインタビューでキリスト教に関する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を呼ぶ(詳細はジョンのキリスト発言を参照)。4月から「リボルバー」の録音が開始される[37]。なお、本作からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。6月からドイツ、日本、フィリピン公演。8月、最後の(ただし最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった[31])アメリカ公演旅行が開始され、29日のキャンドルスティック・パークで終了した(詳細は#公演旅行の中止とレコーディングアーティストへの変遷を参照)。同月5日、イギリスで「リボルバー」がリリースされた。

野球場でのコンサート

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった[38]。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりに、コンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが演奏旅行期間中に開催した全てのコンサートの中でも最大数である[39]1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 40]。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[39]、これがビートルズの公演旅行中止の一因となった(詳細はこちらを参照)。これ以後、野球場での大規模コンサートは一般化していき[注釈 41]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場でのコンサートが開催されて以降、野球場でのコンサートが折に開催されるようになる。また、野球場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル(Isle of Wight Festival 1970)といった大規模野外コンサートが開催されるようになる。

日本公演

日本公演が行われた日本武道館
日本武道館の内部

ビートルズの日本公演は1966年に催行されている。

6月29日に訪日。公演は6月30日および7月1日・2日[40]。7月3日に離日。会場はすべて東京都千代田区日本武道館大ホールで。地方公演は行っていない。司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ内田裕也望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ寺内タケシとブルージーンズザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にポールが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高く評価出来ないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している[41]

しかしそうした歓待の一方で、日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者が存在した。街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ[42][43]、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫する者もいた[41]。この為、警視庁は大規模な警備体制を採り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備し監視を行った[41]。またビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール厳守および外出の禁止などの措置がとられた。

(マイク・スタンドの不備などの問題は生じたが)コンサート自体は事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった[41])会場が静かだったため、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受け、次のステージまでに慌てて直さなければならなかった[41]

フィリピン事件

 フィリピン公演は、日本公演の後に行われた。日程は1966年7月3日(香港経由でマニラに渡航)、4日にアラネタ・コロシアム[40]でコンサート、5日に出立となっている。コンサートは2回行われ、合計10万人を動員した[注釈 42]。コンサートが開かれた4日、そのコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎パーティーが大統領官邸でとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い休日だった(ポールの発言[44])ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールの発言[44]によれば、プライアン・エプスタインの方で事前に出席辞退の連絡はしていた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビは官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を指示し続けた[44]が、結局ビートルズ側は招待に応じなかった。

5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、事件を知ったフィリピン国民はビートルズに対して怒りを向けた。帰国の途に付こうとしていたビートルズは空港等で多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがビートルズに敵意を向けるという事態に発展する[45]。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、飛行機の離陸許可がなかなか下ろしてもらえず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡して[45]ようやく許可が下り、フィリピンを離れることができた。後にメンバー及び関係者がこの件についてコメントしており[46]、スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした事、この一件によってエプスタインが体調を損ねた事などが語られた。そして二度とフィリピンには行きたくないと断じ、マルコス夫妻が後年失脚した事に対して肯定的な見解を述べている。またニール・アスピノールは、この一件がビートルズからツアー催行の意欲を奪った原因のひとつだったと述べている[47]

ジョンのキリスト発言

1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるジョンのインタビュー記事が「ロンドン・イブニング・スタンダード(Evening Standard)」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演旅行間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック(Datebook)」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量[48]だったが、デイトブックはその中の1行である「ビートルズはキリストより有名だ(詳細は"More popular than Jesus"を参照)」という発言を抽出して掲載した。これが「神を冒涜した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄/焼却されるという事態に発展、特にアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った[48]。この事態に対し、ブライアン・エプスタインは公演旅行前に声明を発し、その解釈が誤解である事、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である事、しかし現在の若者はビートルズの方が影響力がある、と言いたかった旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートをキャンセルしても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった[48]。このためアメリカ公演旅行は予定通り行われ、公演に先立ってジョン自身の釈明会見も行われたが、騒動は沈静化せず、バイブル・ベルト[48]に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど、実際に危険な事態が生じた。

ローマ教皇庁に赦される
事件から42年を経た2008年11月、ローマ教皇庁(ローマ法王庁)はジョンの発言を赦す声明を発表した。「有名になった若者が豪語したに過ぎない」というローマ教皇庁の見解であり、事件に終止符を打った[49]

公演旅行の中止とレコーディングアーティストへの変遷

ビートルズの公演旅行は、1966年8月29日のサンフランシスコキャンドルスティック・パークでのコンサートを以て終了した[50]。これ以降、ビートルズとしての公演旅行は行っていない[注釈 43]

1965年の段階でリンゴ[51]やジョージ[52]がスケジュールの過酷さに不満が募ってきていた事をコメントしており、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[53]PAも当時は満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。例えば1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカ公演旅行では、スタジアムでの使用の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[54](ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載されたディープ・パープルのPAは、最大25600ワットの出力が可能だった[55])。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていない事もメンバーは不満に感じ始めており[56]特にジョンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している[57]。さらに演奏旅行の続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館で演奏する事で反発が生じて大掛かりな身辺警護が実施され[58]、その後のフィリピンでの出来事8月のアメリカでの騒動など、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。メンバー達のコメントによれば、こうした一連の出来事によって鬱憤が増大の一途を辿り[59]、公演中止に至った。なお、フィリピン公演の後に立ち寄ったインドで、ブライアン・エプスタインはジョージの「来年もツアーをやるのか?」という質問を受け、1967年は公演旅行を行わない事を決定している[57]。さらに1967年8月、ブライアン・エプスタインが死亡してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はアップル・コアを参照)ため、演奏旅行再開は実現しなかった。

こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、ライブでは実現困難な作品も手がけ始めた。すでに1965年の『ひとりぼっちのあいつ』や1966年の『ペーパーバック・ライター』など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい[60]曲が発表されていたが、公演旅行終了後初めてリリースされた1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年[61]が費やされ(初期のアルバムは12時間で録音した[62])ライブでの再現を前提としないスタジオワークの技術が数多く組み込まれた[63]

演奏旅行中止以降の来歴

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで

1966年9月、ジョンが「ジョン・レノン僕の戦争(How I Won the War)」の撮影のためスペイン入り。休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を書いている[64]。ほぼ同時期にジョージがインド音楽の研究のためインドに行き、ラビ・シャンカルと対面している[65]。11月、ジョン・ダンバー[注釈 44]の招待[66]でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコと出会う。同月、公演旅行中止後初めてアビーロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」、「ペニー・レイン」等がレコーディングされた。これらの曲は当初次回作アルバムに収録する予定だったが[67]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[23]、この内の2曲が先行してシングル発売される事になった。1967年2月、シングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面としてリリースされる。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスで「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がリリースされる。同月25日、3億人が視聴した[68]世界同時衛星中継番組「アワー・ワールド(Our World)」に出演し「愛こそはすべて」を披露する(シングル発売は7月)。8月、ジョージがサンフランシスコに行き、ヘイト・アシュベリー(Haight-Ashbury)でヒッピーらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に深く関る様になる[69]。このジョージの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで催されていたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。その教義を気に入ったため、続けてウェールズのパンゴア(Bangor)で開催されたセミナーに参加した。しかし参加中の27日にブライアン・エプスタインが死亡し、その連絡を受けた4人はセミナーを辞去。ロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される[70]。9月[71]からテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の撮影が行われ、年末にBBCで放映された。なお同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤が、12月にイギリスでEP盤がリリースされている(詳細はこちらを参照)。

1968年1月、ジョージがインドのボンベイで「不思議の壁(同名映画Wonderwallのサウンドトラック)を録音(発売は11月)。その後メンバー全員でリシケシュ(Rishikesh)のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラー(Derek Taylor[注釈 45]主導でアップル・コアの設立準備を行う[72]。5月、ニューヨークでジョンとポールがアップル・コア設立の記者会見を催行する。7月[73]、アニメーション映画イエロー・サブマリンを公開。8月、ジョンとシンシアが険悪である時に夫妻の息子であるジュリアンにポールが伝えたいと思ったメッセージが元になった[74]ヘイ・ジュード」発売。11月、2枚組アルバム「ザ・ビートルズ(通称ホワイトアルバム)」発売[注釈 46]

アップル・コア

詳細はアップル・コアを参照。

ブライアン・エプスタインが生前に設立していたアップル・パブリッシングという投資会社が元になっている[75]。しかしマネージメントを取り仕切っていたブライアン・エプスタインの死によって、その時点でのマネージメント契約や権利の所在がビートルズにも把握困難になったため、メンバー4人、及びマル・エヴァンスとニール・アスピノールの計6人で話し合い[76]、その対応策としてアップルを拡大する事になった。

レット・イット・ビーからアビィ・ロードまで

アビー・ロード・スタジオの入口

1月、トゥイッケナム・スタジオ(Twickenham Film Studios)でゲット・バック・セッション(後のレット・イット・ビー)開始。だがレコーディングの過程でメンバー間の不和が増大。ポールとジョージが喧嘩状態となり、ジョージが一時離脱する[77]。ミーティングの上でジョージは復帰を承諾するものの、トゥイッケナム・スタジオでの続行に不満が提起され、サビル・ロウで新しく作られたスタジオに移動。ジョージの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘してセッションを再開したが、結局この時点ではアルバムリリースには至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる(詳細は後述)。1月30日、映画のラストで使用された屋上でのコンサートを敢行するが、警察の介入により[8]途中で中止となる。その後、アップル・コアの財政に危機が招来し、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立(ポールは義父のリー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレイン(クライン)を推した[78])が起こる。3月12日、ポールがリンダ・イーストマンと結婚。同日、ジョージの家で警察がマリファナ捜索。同月20日、ジョンとヨーコがジブラルタルで結婚式を挙げる。4月、アビー・ロード・スタジオにて新作アルバム「アビイ・ロード」の録音が開始される(発売は9月)。音楽雑誌『THE ROLLING STONE』1969年9月号に、ビートルズが同年2月から5月(アルバム『アビイ・ロード』セッションが始まる直前)に『ホット・アズ・サン(HOT AS SUN)』というタイトルのアルバム・セッションを行ったという記事が掲載されたが、後に誤報と判明。8月、『アビイ・ロード』のフォトセッション。撮影日は暑かったため、ポールはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された[79]。22日、ジョンの新しい私邸にて全員が揃った最後の写真撮影セッションが行われる。9月、ジョンとヨーコが結成したプラスティック・オノ・バンドがカナダのトロントでコンサートを開催。ジョージがメンバーに誘われた[80]が、これを辞退。エリック・クラプトンがギタリストとして参加した。ジョンが帰英した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が催行されたが、小規模なギグから再開したいというポールの発案にジョンが反発、その場で脱退を宣言した。ただしアラン・クレインにより脱退は公表されなかった[80]。1970年4月10日にポールがビートルズ脱退を表明し、4月17日にソロアルバム「マッカートニー」リリース。これによってビートルズとしての創作活動は終了を余儀なくされる。5月8日、フィル・スペクターのプロデュースによるアルバム「レット・イット・ビー」リリース。

アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』

サビル・ロウにあるアップル社のビル。このビルの屋上で、ゲット・バック・セッションの一部であるルーフ・トップ・コンサートが行われた。

レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』は、収録順と発売順とが逆になっている。時系列は以下の通り。

各アルバムの詳細は『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』を参照の事。

ポールの提案[81]による『ゲット・バック・セッション』が1月3~31日に行われた。このセッションは「新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を引っさげライブ活動を再開する」という、単に1つのアルバムを作るだけではないプロジェクトとして企画された。撮影されたフィルムは後に編集され映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる(詳細はゲット・バック・セッションを、30日の「ルーフトップ・コンサート」は当該項目を参照)。しかし、セッションで収録された音源をメンバーは気に入らず[82]、終了後にその音源を使って制作されたテスト盤『ゲット・バック』は、結局公式にリリースされる事は無かった。その後、アビイ・ロードの制作が開始されたため、この時点ではこのセッションはお蔵入りとなってしまう。その後、録音された楽曲に興味を失ったグループがこのプロジェクトを完全に放棄するという事態に見舞われたものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたことから楽曲を廃棄する事が出来なかった為、ジョンやジョージらの依頼によりフィル・スペクターがプロデュースを担当。アルバム『レット・イット・ビー』(映画『レット・イット・ビー』のサウンドトラック)としてアルバムが完成(商品化)した[注釈 47]。映画の公開にタイミングを合わせた事もあって[83]、発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがアビー・ロード・スタジオで制作した作品であり、完成した翌月にはリリースされた。この件について、リンゴは、世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だと述べている。また映画については、自分なりジョンやポールなりが編集した方がずっと面白いものが出来ただろうと論評している[83]

解散とその後のメンバーの関係

1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したのでビートルズの解散が法的に決定された(解散についての詳細はビートルズの解散問題を参照の事)。解散後、4人は各人が中心となって音楽活動を行っており、1995年に開始された『ザ・ビートルズ・アンソロジー』までは、再結成或いは任意のメンバーが組んで継続的なバンドやユニットを結成するといった動きは無かった。ただし相互の作品の参加や主催コンサートへの出演などは実現している(解散以降を参照)。

解散直後には、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の「眠れるかい」などに代表されるように、ジョンとポールの2人がお互いのソロ作品の中で非難を繰り広げている。さらにジョンは、同じく当時ポールと不仲となっていたジョージをもレコーディングに誘い、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や「イエスタデイ」、ソロ・デビュー曲「アナザー・デイ」までをも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている[注釈 48]。しかし、年月を経るにつれ、そういった行為は次第に収まっていき、1980年にはジョンが3人に親愛を抱いている事を言明し、かつ3人が自分の人生の一部を占めている事は事実であると述べている[84]。ジョージもビートルズ内部の騒動について自己責任を言及、さらにポールも、問題が発生しているかどうかとは別に、4人の結束は常に固い[84]と述べている。なお、リンゴだけは、解散以後も他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムのレコーディングに関わっている。1973年リリースのアルバム『リンゴ』ではテープの上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏した。収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」(作者はジョン)ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏している[注釈 49]

解散以降

1970年代

1971年8月、ジョージ主催による「バングラデシュ・コンサート」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催。リンゴも参加した。演奏を記録したライブアルバムは翌1972年にリリースされ、第15回グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得している。1973年、アップル・レコードより2種類の2枚組コンビレーション・アルバム『ザ・ビートルズ1962年~1966年(赤盤)』と『ザ・ビートルズ1967年~1970年(青盤)』リリース(CD化は1993年)。赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位[注釈 50]を獲得した。日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、73年度の洋楽年間チャート1位となっている[注釈 51]。またこの年、世界各国でビートルズのリバイバル・ブームが起こり、タイムニューズウィークなどでも改めてビートルズが取り上げられた[85]。11月にリリースされたリンゴのソロアルバム『リンゴ (アルバム)』では、録音作品の上だけだったが解散後初めて4人全員が揃った。

1980年代

1980年12月8日、ジョンが自宅前で射殺される。これにより、オリジナル・メンバー4人による(生前の録音や記録画像等を使用しない)再結成は物理的に不可能となった。1985年、『ギネス・ワールド・レコーズ』が「世界でのビートルズのCD・レコードの総売り上げが10億枚以上」と認定。1987年3月9日、ビートルズが曲の制作者の名義としていた「レノン=マッカートニー」がアメリカの「ソングライターの殿堂(Songwriters Hall of Fame)」に選ばれる。本来はアメリカ国内のソングライターに対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の「殿堂入り」となる。

1990年代

1995年、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の企画が開始され、同年11月、その先鞭としてコンピレーション・アルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』がリリースされる。同アルバムには『フリー・アズ・ア・バード』の他、デビュー前~1964年ごろまでの未発表曲やデモ、別テイクが収められ、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している[注釈 52]。翌1996年には続編の『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』と『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』がリリースされた。

2000年代

2000年10月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の書籍版出版。同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった曲27曲を集めたコンピレーション・アルバム『ザ・ビートルズ1』リリース。このアルバム自体もビルボード等多くのチャートで1位を獲得した。詳細は当該項目を参照。2001年11月、ジョージが死亡。2003年11月、『レット・イット・ビー...ネイキッド』リリース。ゲット・バック・セッションで録音された音源から改めてマスタリングされ、『レット・イット・ビー』でポールが不満を表明していた[86]フィル・スペクターによる改変部分が無くなっている。2006年11月、シルク・ドゥ・ソレイユのミュージカルのサウンドトラックとして、リミックス・アルバム『ラヴ』リリース。2007年1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット・デザインを使用した切手が発売[87]。2009年9月9日、オリジナルアルバム、米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDがデジタルリマスターステレオ音源で世界同時発売した。なお、現行盤でモノ音源として出回っている『ビートルズ・フォー・セール』までの4作がオリジナルステレオミックスとして初めてCDとして出た[88]。同日『ザ・ビートルズ』までのオリジナルアルバムのモノ音源と2枚組の『モノ・マスターズ』(ステレオ盤の『パスト・マスターズ』に対応したアルバム未収録曲集)[89]を収録したCD BOX『ザ・ビートルズ MONO BOX』(原題『The Beatles In Mono』)も発売され、『ヘルプ!』、『ラバー・ソウル』には発売当時のステレオミックス音源も追加収録された。又、ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した『THE BEATLES STEREO USB』も発売された。このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐFLAC 44.1Khz 24 bitで収録され、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている。

2010年代

2010年、ビートルズのオリジナル作品がiTunesでデジタル配信解禁[90]。「ラヴ」も2011年2月に配信され同時にアルバムで1位を獲得した。2011年6月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』がリマスタリングされ、配信開始[91]

オリジナル・ディスコグラフィー

詳細はビートルズの作品を参照。

  • 本節はバンドの活動期間中に英国でリリースされたオリジナルアルバム及びシングルのみ紹介している。

オリジナルアルバム

発売日 タイトル 原語タイトル 全英チャート最高位 全英1位獲得回数
1963年03月22日
プリーズ・プリーズ・ミー Please Please Me
#1
#30
1963年11月22日
ウィズ・ザ・ビートルズ With The Beatles
#1
#21
1964年07月10日
ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ! A Hard Day's Night
#1
#21
1964年12月04日
ビートルズ・フォー・セール Beatles For Sale
#1
#11
1965年08月06日
4人はアイドル Help!
#1
#09
1965年12月03日
ラバー・ソウル Rubber Soul
#1
#08
1966年08月05日
リボルバー Revolver
#1
#07
1967年06月01日
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
#1
#27
1968年11月22日
ザ・ビートルズ The Beatles
#1
#08
1969年01月13日
イエロー・サブマリン Yellow Submarine
#3
#0
1969年09月26日
アビイ・ロード Abbey Road
#1
#17
1970年05月08日
レット・イット・ビー Let It Be
#1
#03

オリジナルシングル

発売日 タイトル 原語タイトル 全英チャート最高位 全英1位獲得回数
1962年10月05日
A.ラヴ・ミー・ドゥ
B.P.S.アイ・ラヴ・ユー
A.Love Me Do
B.P.S. I Love You
#17
#0
1963年01月11日
A.プリーズ・プリーズ・ミー
B.アスク・ミー・ホワイ
A.Please Please Me
B.Ask Me Why
#02
#0
1963年04月12日
A.フロム・ミー・トゥ・ユー
B.サンキュー・ガール
A.w:From Me to You
B.w:Thank You Girl
#01
#06
1963年08月23日
A.シー・ラヴズ・ユー
B.アイル・ゲット・ユー
A.w:She Loves You
B.w:I'll Get You
#01
#07
1963年11月29日
A.抱きしめたい
B.ジス・ボーイ
A.w:I Want To Hold Your Hand
B.w:This Boy
#01
#05
1964年03月20日
A.キャント・バイ・ミー・ラヴ
B.ユー・キャント・ドゥ・ザット
A.w:Can't Buy Me Love
B.w:You Can't Do That
#01
#03
1964年07月10日
A.ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
B.今日の誓い
A.A Hard Day's Night
B.w:Things We Said Today
#01
#03
1964年11月27日
A.アイ・フィール・ファイン
B.シーズ・ア・ウーマン
A.w:I Feel Fine
B.w:She's a Woman
#01
#05
1965年04月09日
A.涙の乗車券
B.イエス・イット・イズ
A.w:Ticket to Ride
B.w:Yes It Is
#01
#03
1965年07月23日
A.ヘルプ!
B.アイム・ダウン
A.Help!
B.w:I'm Down
#01
#03
1965年12月03日
A.デイ・トリッパー
A.恋を抱きしめよう (両A面)
A.w:Day Tripper
A.w:We Can Work It Out
#01
#05
1966年06月10日
A.ペイパーバック・ライター
B.レイン
A.w:Paperback Writer
B.Rain
#01
#02
1966年08月05日
A.イエロー・サブマリン
A.エリナー・リグビー (両A面)
A.Yellow Submarine
A.w:Eleanor Rigby
#01
#04
1967年02月17日
A.ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
A.ペニー・レイン (両A面)
A.w:Strawberry Fields Forever
A.w:Penny Lane
#02
#0
1967年07月07日
A.愛こそはすべて
B.ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン
A.w:All You Need Is Love
B.w:Baby, You're a Rich Man
#01
#03
1967年11月24日
A.ハロー・グッドバイ
B.アイ・アム・ザ・ウォルラス
A.w:Hello, Goodbye
B.w:I Am the Walrus
#01
#07
1968年03月15日
A.レディ・マドンナ
B.ジ・インナー・ライト
A.w:Lady Madonna
B.The Inner Light
#01
#02
1968年08月30日
A.ヘイ・ジュード
B.レボリューション
A.w:Hey Jude
B.Revolution
#01
#02
1969年04月11日
A.ゲット・バック
B.ドント・レット・ミー・ダウン
A.w:Get Back
B.Don't Let Me Down
#01
#06
1969年05月30日
A.ジョンとヨーコのバラード
B.オールド・ブラウン・シュー
A.w:The Ballad of John and Yoko
B.w:Old Brown Shoe
#01
#03
1969年10月31日
A.サムシング
A.カム・トゥゲザー (両A面)
A.w:Something
A.w:Come Together
#04
#0
1970年03月06日
A.レット・イット・ビー
B.ユー・ノウ・マイ・ネーム
A.Let It Be
B.You Know My Name
#02
#0

評価と影響

音楽的評価と影響

ビートルマニアに代表される様に、デビュー当初はアイドルグループとして受け止められる傾向が強かったが、その時期に於いても音楽性の評価はなされていた(ウィリアム・マンがタイムズ誌で絶賛する一方、ラジオ司会者のブライアン・マシューが批判するなど賛否両論だった[92])。先輩格の同業者では、ジェリー・リー・ルイスが才能を認める発言をしており、ザ・ビーチ・ボーイズカール・ウィルソンは「抱きしめたい」のファンだったと述べている。またビートルズの勢力拡大に対してブライアン・ウィルソンがメンバーとミーティングを開き、市場維持の為に自分達の音楽性を変化させる事を提案している[93]。なお、後年リリースした『ペット・サウンズ』は、逆にビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に影響を与える事となった[94]。後輩格の同業者の例では、トム・ペティジャクソン・ブラウンが称賛している。また両者ともビートルズがポピュラー音楽を変容させた点を挙げており、ボノもビートルズの前進する姿勢を評価している。さらにオジー・オズボーングラディス・ナイトブルース・スプリングスティーンなど、様々なジャンルのミュージシャンもビートルズのファンだった事を打ち明けている[93]。1967年にリリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、音楽的な評価がこれまで以上に高く、それまでビートルズを批判していた者或いはビートルズを無視していたシリアス音楽の側にいる者たちにも好評で、ポピュラー音楽そのものを変革した作品と評された[注釈 53]。なお、リンゴの発言[95]によれば、1966年~67年頃のバンドは、ほぼ全てビートルズの影響を受けており、それらのプロデューサーは多かれ少なかれ自分の担当するバンドの音をビートルズに似せようとしていた。

オリジナル曲を優先する傾向

ビートルズのレパートリーは、オリジナル曲とロック/ポップスの有名曲のカバーの両方で成り立っているが、バンド活動期間中にイギリスでリリースされた22枚[注釈 54]のシングルは全てメンバー自身によるオリジナル曲である。これはデビュー時である1962年頃のイギリス音楽産業界の常識からは逸脱していた。当時はプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携によって業界が成り立っており、ジョージ・マーティンも、そういった業界のしきたりをビートルズに教えている[96]。ビートルズ以前に数多くの全英チャート1位を獲得したバンド「クリフ・リチャード&シャドウズ」なども、その多くが外部の音楽作家の作品で、ディッキー・プライド(Dickie Pride)やビリー・フューリー(Billy Fury)といった当時の人気歌手も同様だった。ビートルズも当初はジョージ・マーティンの発案で外部の作家による「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」をデビューシングルとして出す予定だったが、メンバーは自分達で作った曲によるシングルのリリースを頑として主張し[96]、結果として「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。以降、解散までそれが続いた。この、自作曲を優先するという傾向は、ビートルズ以降のイギリス音楽産業界に次第に浸透していく事になる。その最も代表的な例が、ビートルズより少し遅れてデビューしたローリング・ストーンズであり、キース・リチャーズミック・ジャガーがそれまでの既成曲を優先して演奏する方向を変え、オリジナル作品を作るようになったのは、ビートルズのメンバーから作曲について直接アドバイスを受けたからだった[97]

イギリスとアメリカの音楽産業の構図の変化

ビートルズのデビュー及びイギリス音楽界での活動はイギリスの音楽産業そのものにも変化をもたらしている。ホリーズに在籍していたグラハム・ナッシュの発言によれば[93]、ビートルズ以前のイギリスの芸能界はロンドンが中心で、地方とは分け隔てされている状態だった。それをリバプールのバンドであるビートルズが突破して市場の勢力が一変し、その結果、マンチェスターのバンドであるホリーズにもチャンスが巡ってきた。

次の変化はアメリカで起こっている。1963年まで、イギリスのポップ・グループの曲がアメリカのビルボード・シングル・チャートで1位になった唯一の例はトーネイドス(The Tornados)の「テルスター(Telstar)」で、それも2作目以降はヒットを持続させていない。しかし1964年初頭、キャピトルが初めてリリースしたビートルズのシングル「抱きしめたい」がビルボードで1位となった後、4月4日には上位5曲をビートルズが占め、翌週の11日にはビートルズの曲14曲が100位以内にチャート入りするという事態が生じた[98]。このビートルズの人気によって障壁が打ち破られ[99]、この後、イギリスの多くのバンドがアメリカに進出を始める。ローリング・ストーンズアニマルズキンクスデイヴ・クラーク・ファイヴハーマンズ・ハーミッツザ・フーピーター&ゴードンなどが進出したこれらの一連の流れは「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれている[99]。この状況に対し、ファン層が異なっていた[100]モータウンを除いて、当時のアメリカ側の音楽関係者の多くは対応策を迫られ、状況の分析と打開に向けて動き始めることになった[101]

ビートルズへの影響

ビートルズのメンバー自身は多くの音楽その他の事象から影響を受けていると述べている[注釈 55]。したがって本節は、本人たちが特にコメントしているもの等を代表例として挙げている。

1950年代に活躍した先駆的ミュージシャン達にはメンバー各人がアマチュア時代から影響を受けたと述べている。中でもエルヴィス・プレスリーリトル・リチャードチャック・ベリーの3人から影響を受けたというコメントが多い。特にチャック・ベリーは音楽的にも歌詞の内容も評価が高い[102]。一方エルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードは音楽に加えてスターミュージシャン、アイドルとしての要素にも憧れていたと述べている。ただし、プレスリーについては、ジョン[103]もポール[104]ファースト・アルバムの頃については高く評価しているものの、除隊後の作品は興味を持てない(ポールの発言[105])と述べている。それ以外にもカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスチェット・アトキンスファッツ・ドミノジーン・ヴィンセントバディ・ホリーエディ・コクラン等の影響があったと述べている[106]。なお、ビル・ヘイリーロック・アラウンド・ザ・クロックについては意見が別れており、ポール[107]とジョージ[108]とリンゴ[109]が気に入っているのに対し、ジョンはあまり強い印象を感じなかったと述べている[110]。デビュー後の早い時期に影響を受けたのはボブ・ディランで、1964年1月のフランス公演の際に現地のDJからフリーホイーリン・ボブ・ディランを手に入れ、それ以来ずっと聴き続けた[111]。同年行われた第2回アメリカ公演旅行で本人と対面した時は全員が「デビュー・アルバム」を持っていた。特にジョンは強く傾倒しており、1965年に発表された「悲しみはぶっとばせ」を自分のディラン時代の作品だと述べている[112]。「ノルウェーの森」を始め、ビートルズにインド音楽の影響が表れたのはジョージがラヴィ・シャンカルのレコードに影響された事がきっかけとなっている。さらに上記の通り『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はザ・ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』の影響を受けている。

ジョージ・マーティンの功績

1962年6月6日、ジョージ・マーティンはビートルズのパーロフォンでのオーディションを担当。同年10月にリリースされたデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」から活動時期で最後に録音されたオリジナル・アルバム『アビイ・ロード』までのプロデュースを担当している。デビューに際しては選曲でビートルズのメンバーと意見を異としたが(こちらを参照)、「プリーズ・プリーズ・ミー」以降はメンバーのオリジナル曲を優先してシングル化している。また作品のみならず、ビートルズの音楽スタイルそのものにも影響を与えている。マーティンは当初ビートルズのメンバーの誰かをメイン・ボーカルに設定するつもりだった。この頃は当時の人気バンド「クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ」などに代表される様に『ボーカリスト&バックコーラス』又は『リード・ボーカル・ウィズ・バックバンド』という形式が多かったためで、マーティンも第2のクリフ・リチャードと成り得るスターを1名作り出そうとしていた[23]。しかし結局、マーティンはビートルズにこの形式を導入せず、曲によってボーカルを担当するメンバーが異なるスタイルを取り入れた。デビュー以降もプロデューサーとして常に関り、クラシック楽器の使い方をメンバーにレクチャーするといった役目も担っていた。1966年8月のツアー中止以降のスタジオワークを重視する活動の時期には、テンポと調が異なる形で2テイク録音したストロベリー・フィールズ・フォーエバーを1つに合わせたり、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録された「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」のオルガン録音でのテープ編集(詳細はこちら)を手がけている[23]。なお、販売順としては最後となった『レット・イット・ビー』は、最終的にフィル・スペクターがアルバムとして完成させたが、1969年1月からトゥイッケナム・スタジオで開始されたゲット・バック・セッションにはジョージ・マーティンが参加し[113]、テスト盤として制作されたアルバム『ゲット・バック』も、ジョージ・マーティンがグリン・ジョンズとともにプロデュースを担当している[114]

ブライアン・エプスタインの功績

NEMSレコード店[注釈 56]の責任者を担当していたエプスタインは、1961年に地元のバンドであるビートルズの存在を知り、12月にマネージメント契約を締結した[注釈 57]。当時のイギリスの音楽界はロンドンが中心であり、地方都市を拠点とするローカル・バンドがレコードをリリースしたり全国ツアーを催行するといった活動は基本的に行われていなかった[注釈 58]が、エプスタインはロンドンにあるレコード会社を廻ってビートルズを売り込み始めた。この売り込みに対してデッカ・レコードがオーディションに応じている。これはエプスタインが大手レコード店であるNEMSの責任者である事が反映されたものだった[115]。1962年1月に行われたデッカのオーディションは不合格となったが、エプスタインは引き続きレコード会社を廻って売り込みを続け、その結果ジョージ・マーティンによるパーロフォンでのオーディションが行われる事となった。レコードデビュー後はエド・サリヴァン・ショー出演契約締結などでアメリカへの進出を実現させ、ビートルズの世界進出に営業面で貢献している。1966年8月のツアー中止以降もビートルズの活動に関っており、1968年に公開されたアニメーション映画「イエロー・サブマリン」の制作契約もエプスタインが生前に手がけている[116]。なお、同性愛者であった事はメンバーも承知していた[117](詳細は「こちら」を参照)。

批判と公的な抑圧

ビートルズを筆頭とするロック/ポップ・グループの流行については、活動初期である1963年当時から批判が存在する。特にビートルマニアと称されたファンの一部が、真夜中にも関らずビートルズが宿泊するホテルの周囲を4000人ほどで取り囲んで喚声を上げたりするといった騒動がタイムズ誌などで報道されている(日本でも、最初の映画の公開時に、地方上映を待てない百人以上の未成年のファンが、保護者の承諾を得ないまま上京して警察に補導されている)[118]。風紀の乱れ、青少年への悪影響といった批判が増大していき、母国イギリスでは1965年のM.B.E勲章叙勲時にその批判が顕在化した。ビートルズへの叙勲に抗議する形で勲章を返却する者も現れ[119]、この時は863個の勲章が返却された[120]。同1965年イスラエルはビートルズの公演を拒否しており[注釈 59]、またソビエト連邦(当時)を中心とした社会主義国家は、ロック音楽を資本主義による精神汚染とみなし、ビートルズの流行は西側からソ連国内の自由化を図るプロパガンダ工作の一種ととらえたため、そのレコード発売には政府からの許可が下りなかった[注釈 60]

映像作品

ビートルズの側によって制作された作品

活動時期にビートルズの側によって制作された作品は5本ある。この内ブライアン・エプスタインがユナイテッド・アーティスツと契約した劇場用映画が「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964年)、「ヘルプ!4人はアイドル」(1965年)、およびエプスタインの死後に制作・公開されたアニメ「イエロー・サブマリン」(1968年)の3本[121]。「マジカル・ミステリー・ツアー」はポール主導で1967年に制作され[122]、同年暮れにBBCで放映された。「レット・イット・ビー」は撮影は1969年に行われたが、公開は翌1970年となった。詳細はこちらを参照。このうち現在は「レット・イット・ビー」のみ公式なソフト販売がなされていないが、他の作品はソフトウエアとして市販されている。

ドキュメンタリー映画・TV・DVD

1982年に記録映画「コンプリート・ビートルズ(The Compleat Beatles)」(1982年)が米MGM映画で制作・公開され、その後MGM/UAからビデオソフトとしてリリースされている。1995年には「ザ・ビートルズ・アンソロジー」が制作され、映像及び2曲のビートルズの新曲、未発表曲、アウトテイクを発表した。2004年には初期のアメリカ公演の模様を収録した「The Beatles: The First U.S. Visit」が発表されている。また、1988年に発表されたジョンの伝記映画「イマジン」は、一部ビートルズ時代の活動記録が収録されている。

ビートルズを題材にした映画

1994年に、サトクリフのビートルズでの活動とアストリットとの関係、死を描いた「バック・ビート」が公開された。2007年には「アクロス・ザ・ユニバース」が公開されている。

2011年にリアム・ギャラガー企画、マイケル・ウィンターボトム監督によるビートルズ映画の制作が発表された[123]

プロモーション・フイルムまたはビデオ

ライブ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージフィルム(ビデオ)撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。具体的には「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や「ペニーレイン」のプロモーション・ビデオ映像などが作られ、ライブによるプロモーションの代替手段として取り扱われる。ポールが主権を取ったマジカル・ミステリー・ツアーは、娯楽映画としての評判は芳しいものではなかったが、『ビートルズ・アンソロジー』において、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、同作を娯楽映画ではなく芸術映画/音楽映像作品としてみた場合、その評価は変わってくる(実際にスティーヴン・スピルバーグなどが、映画学校の学生時代、同作に注目していたと述べている[124])。

ビートルズの著作権(版権)

ビートルズのメンバーによる楽曲の版権の多くは、以下の経緯で所有者が何度か変わっている。

ファースト・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S. アイ・ラヴ・ユー」はEMI傘下の音楽出版社「Ardmore & Beechwood Ltd.」に登録された(現在この2曲はポールが権利を買取り、ポールが設立した音楽出版社「MPL Communications Ltd.」が著作権を所有している)。しかし何のプロモートもしてくれなかった為、マネージャーのブライアン・エプスタインは2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」をディック・ジェイムス[注釈 61]Dick James)の音楽出版社「Dick James Music Ltd.」に登録する事にした。ジェームズの仕事ぶりはエプスタインを満足させるものだった。この後、エプスタインは他の音楽出版社に登録するのではなく、ビートルズ自身の音楽出版社を設立する事を決め、ジェイムスを共同経営者に招き入れ、1963年2月22日にエプスタインとジェイムスが取締役のビートルズのオリジナル楽曲の著作権を管理する音楽出版社「ノーザン・ソングス(Northern Songs Ltd.)」を設立(しかし、この契約の内容はビートルズ側に不利なものであり、後にメンバーからも批判がなされている[125])。

1965年2月には税金対策の為に500万株をロンドン証券取引所に公開。1967年のエプスタインの死後は弟クライブ・エプスタインが取締役を引き継いだ。

1968年、アルバム『ザ・ビートルズ(通称・ホワイトアルバム)』からは、ジョージの楽曲は「Northern Songs Ltd.」からジョージが設立した音楽出版社「Harrisongs Ltd.」に、リンゴの楽曲もリンゴが設立した音楽出版社「Startling Music Ltd.」に登録される事になり、それ以降「Northern Songs Ltd.」に登録される楽曲はレノン=マッカートニーの曲だけになる。

1969年6月、ジェイムスはすでに「Northern Songs Ltd.」の株を数パーセント所有していた「ATV社(Associated Television)」に自身が持っていた株を売却。残りの株を巡ってビートルズとATVで争いが始まったが、ビートルズがこれに敗れ、ビートルズの楽曲を管理する音楽出版社「Northern Songs Ltd.」の筆頭株主オーナーは「ATV」となった[注釈 62]そしてこの時のビートルズのビジネスマネージャーだったアレン・クラインはビートルズの持ち株をジェームズの倍の値段でATVに売却し、決着をつけた。これによりビートルズの楽曲の版権(使用に関する権限)は楽曲の作者であるビートルズの自身の意思は介在されなくなる(ただしアーティスト印税は版権の所在とは別のものである。これについては後述)。

1985年、「Northern Songs Ltd.」の持ち主である「ATV」が売りに出され、マイケル・ジャクソンが購入した。これ以降、ジャクソンがビートルズの版権を所有する事になったが、その後「ソニーATVミュージックパブリッシング」に版権が移り、ジャクソンはその版権から得る権利から、持ち分に基づく配当として収益を受けるという形になる。ちなみに、マイケルに版権ビジネスを教えたのはポールだと言われている[126]

2009年6月25日マイケル・ジャクソンが死亡。

2011年に至るも版権を巡って様々な報道がなされている[127][128]。なお、現在では、彼ら自身の楽曲を英語以外の言葉で歌うことは禁じられている[129]

版権と印税

レコードを出す為には、楽曲の作者は楽譜を印刷し曲の使用を管理する「音楽出版社」に曲を登録し、著作権版権とも呼ばれる)を音楽出版社に譲渡し印税を受けとるという契約をする必要がある。著作権者となった音楽出版社は、その使用に関する権限を持ち管理運営を行う。楽曲の著作権料(使用料)は音楽出版社に支払われ、そこから音楽出版社の取り分である管理運営費を引き、音楽出版社から作者へ印税を支払う仕組みになっている(作者は楽曲の著作権を音楽出版社に譲渡し、音楽出版社は楽曲の管理運営を行い、音楽出版社はそこから得た著作権料を作者に分配するというのが音楽業界の仕組み)。

版権及び印税の詳細については各項目を参照の事。

脚注

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注釈

  1. ^ "ファブ・フォー"と読む。FabはFabulousの略。「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味。
  2. ^ マジカル・ミステリー・ツアーを当初EP2枚組として発売。詳細は当該作品を参照。
  3. ^ w:en:List of number-one albums from the 1960s (UK)およびw:en:List of number-one albums from the 1970s (UK)を参照。
  4. ^ w:en:List of best-selling albums by year (UK)を参照。
  5. ^ a b c d List of number-one albums from the 1960s (UK)を参照。
  6. ^ ただし、通算1位獲得数では「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラックの70週と『南太平洋(South Pacific)』のサウンドトラックの44週に次ぐ3位。なお『南太平洋』のサウンドトラックは1958年から1959年にかけて70週間連続1位を獲得しており、全英アルバムチャート連続一位獲得数歴代1位となっている。詳細はw:en:List of number-one albums from the 1950s (UK)を参照。
  7. ^ バンド活動期間である1962年10月の「ラヴ・ミー・ドゥ」から1970年3月の「レット・イット・ビー」まで。
  8. ^ 英語でこおろぎの複数形。その他にスポーツのクリケットの意味がある。
  9. ^ BEETLES=かぶと虫の複数形。この綴りの3文字目をAに変えて、言葉を聞くと虫=BEETLESをイメージし、文字を見るとビート・ミュージック=BEATLESとなるようにした。
  10. ^ マーロン・ブランド主演の映画。ビートルズはバイクを乗り回している女性を指すスラングとして共演者であるリー・マーヴィンの台詞に登場する。
  11. ^ Beetle はかぶとむしだけでなく、コガネムシカナブンも含まれ、日本でのかぶとむしのイメージと違い、英米では嫌われている昆虫類(害虫)のひとつでもあった。
  12. ^ ただし「KAWADE夢ムック 文藝別冊『[総特集]ジョージ・ハリスン』」の年表には「出生届は2月25日だが、実際には2月24日午後11時42分生だ」とジョージ本人が1992年に明かしている、との注釈がある。
  13. ^レット・イット・ビー」では、ジョンがバリトン・ギター(ギターより1オクターブ低い6弦楽器。6弦ベースとは異なりギターに近い)を演奏している。
  14. ^ ただし約一週間で復帰し、当時公にはされなかった。
  15. ^ この件とは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスもポールが演奏している。
  16. ^ ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏を行っている。
  17. ^ どちらがメインのメロディーを担当しているかは曲毎のアレンジで異なっている。
  18. ^ ビデオ版のザ・ビートルズ・アンソロジーにはジョンがハーモニカを吹いている「ラヴ・ミー・ドゥ」の演奏の記録映像が収録されている。
  19. ^ ポールはジョンと出会った頃からピアノを演奏する事が出来た。詳細は「デビューまでの来歴」を参照。
  20. ^ シタールを通じて知ったインド哲学への興味が、ジョージから他のメンバーにも伝わり、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーへの傾倒につながる。詳細はこちらを参照。
  21. ^ テイク数は217。これらは全て2009年にリリースされた『ザ・ビートルズ・BOX』に収録されている。
  22. ^ なお、ジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイト(andy White)というドラマーを手配していたので『ラヴ・ミー・ドゥ』では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルではリンゴの、アルバムではアンディのバージョンを聴くことができる。
  23. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.29のジョージの発言によれば、一時期クオリーメンにも在籍していた。
  24. ^ 女はそれを我慢できない (1956年の映画)の挿入歌。
  25. ^ しかし、当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。
  26. ^ 同年4月23、24日。ジョンとポールの2人が「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏している。
  27. ^ この時点ではシンガーそのものはまだ未定だった。
  28. ^ この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はポールがドラムスを叩いたこともあった。
  29. ^ 初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもあった。
  30. ^ 写真家。学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者であり、アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』のジャケットのアイディアの元となった写真の撮影者でもある(ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.107。ただしジャケットの写真そのものはロバート・フリーマンが撮影している)。また、生前のサトクリフと恋愛関係にあり、映画『バック・ビート』ではヒロインとして描かれている。カナ表記は、ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)では本文(p.52その他)で「アストリット」、p.358のCREDITでは「アストリッド」と、両方の表記が存在する。
  31. ^ 元々はポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をする事になる。
  32. ^ ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なため2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年に死去。
  33. ^ 詳細はピート・ベストの項を参照。
  34. ^ 後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えている。
  35. ^ これらは1995年にリリースされた『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収されている
  36. ^ その為、後にリリースされたチャート1位シングル曲集であるザ・ビートルズ1には収録されていない。
  37. ^ ただしビルボードで日付上で1位になったのは2月1日。List of Hot 100 number-one singles of 1964 (U.S.)を参照。
  38. ^ 本作以降も『ヘルプ!4人はアイドル』の監督を担当。『ジョン・レノン 僕の戦争(How I Won the War)』では監督に加えてプロデューサーも兼任し、1991年には『ゲット・バック(Get Back)』の監督を担当している。
  39. ^ ただしこの人数には異説がある。ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーではニール・アスピノールが55000人と話しているが、ポールは56000人、リンゴは60000人、ジョージは70000人だと聞いたとコメントしている。
  40. ^ この1966年のツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。8月29日のビートルズ最後のコンサートもキャンドルスティック・パークという野球場である。
  41. ^ シェイ・スタジアム自体もその後ローリング・ストーンズザ・フーポリスなどがコンサート会場として使用している。2009年にシェイ・スタジアムは解体され、その前年である2008年に開催されたビリー・ジョエルのコンサートが最後となった。なお、このコンサートにはポールがゲスト出演している。詳細は公式サイトの当該項目を参照の事。
  42. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.219のニール・アスピノールの発言より。ただし同p.220でジョージは20万人ぐらい入っていたのではないかと発言している。
  43. ^ テレビ出演時のライブ演奏やゲット・バック・セッションでの屋上コンサートなどは除く。
  44. ^ マリアンヌ・フェイスフルの前夫。
  45. ^ 広報担当。1964年に一旦離れたが、1968年のアップル・コア設立に関連して再びビートルズとの仕事に携わる。元々は記者で、ライターとして『サイケデリック・シンドローム―それはビートルズから始まった』も執筆している。また『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の編集に協力したと特に編集後記で名前が挙げられている。1997年に死去。
  46. ^ 本作ではクリス・トーマスChris Thomas)がアシスタント・プロデューサーとして参加している。
  47. ^ ただしこのプロデュースについては後に問題が発生した(詳細はこちらおよびレット・イット・ビー...ネイキッドを参照)。
  48. ^ 具体的な内容については「眠れるかい」の項を参照のこと。
  49. ^ ベースはクラウス・フォアマンが担当。
  50. ^ 5月26日付け。w:en:List of number-one albums of 1973 (U.S.)を参照。
  51. ^ なお本作は、ビートルズのブートレグ(海賊盤)の中でも有名なベスト盤『αΩ(アルファ・オメガ)』(vol.1&2 各4枚組)の対策として企画された公式ベスト盤である。詳細は「公式website・赤と青のバイブル」(2011年8月13日閲覧)を参照。
  52. ^ 12月9、16、23日。w:en:List of number-one albums of 1995 (U.S.)を参照。
  53. ^ ビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ(w:en:The Compleat Beatles)」に収録された音楽評論家Wilfred Mellersの解説によれば、それまでのロックやポップスは踊るための音楽だったが、同作によって聴くに値する音楽になった。
  54. ^ ラヴ・ミー・ドゥ - レット・イット・ビー。EP盤やアメリカ等外国で独自にリリースされたシングルは除く。
  55. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 によると、ジョージは、メンバーが聴いた音楽は好悪の別なく全てビートルズの音楽に影響を与えていると述べており(pp.26-27)、ジョンは、ビートルズ成立の原因を考え始めたら、通っていた学校の校風や、住んでいた伯母の家の棚に並んでいた書籍まで関係すると述べている(p.14)。
  56. ^ リブァプールで父親が経営していたNEMSという家具店のレコード部門。
  57. ^ この経緯については諸説ある。詳細はブライアン・エプスタイン#ビートルズとの出会いを参照の事。
  58. ^ ビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ」に収録されたビル・ハリーやジェリー・マースデン(Gerry Marsden)のコメントによれば、当時のイギリスの芸能界はロンドンの芸能関係者が取り仕切っており、地方都市のバンドは彼ら自身も関係者もレコードをリリースするいう考え自体が存在しなかった。
  59. ^ ただし2008年になってイスラエルは謝罪の意を公式に表明した。これを受けてポールは同年9月に同国での公演をおこなっている。詳細はイスラエル政府、ビートルズに1965年の公演中止を謝罪(AFP・2011年7月26日閲覧)を参照。
  60. ^ ただし実際には、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳されたロシア語版のカセットテープなどが販売され、当時も多くの若者に親しまれていた。なお、2003年にポールが行ったロシアの首都モスクワ赤の広場でのコンサート「ライヴ・イン・レッド・スクウェア」では、その編集映像にセルゲイ・イワノフ国防相(1953年生まれ)のインタビューが収録されたが、その中でイワノフは10代の頃からのビートルズファンと自己紹介し「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」も演奏されたコンサートにもプーチン大統領と伴に来場した。詳細は映像ソフト「ライヴ・イン・レッド・スクウェア」及びクレムリンを揺るがせたビートルズを参照。
  61. ^ このカナ表記は『ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.97に準拠。
  62. ^ 庄司英樹は著書「ビートルズの復活」p.220で、このATVの買収を「乗っ取り」と称している。

出典

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  3. ^ a b c d ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.41
  4. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.49
  5. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.62
  6. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
  7. ^ ビデオ「コンプリート・ビートルズ」より。
  8. ^ a b c ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーに収録されたインタビューのコメントより。
  9. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.81
  10. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
  11. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.340
  12. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.76
  13. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.20
  14. ^ 現在販売中のCDブックレットに記載のクレジット。
  15. ^ ビデオ盤「ザ・ビートルズ・アンソロジー」より。
  16. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.12,21
  17. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.12
  18. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.44
  19. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.47
  20. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58
  21. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.69
  22. ^ ビデオ版The beatles anthology より
  23. ^ a b c d e f ビデオソフト「The compleat Beatles」に収録されたコメントより。
  24. ^ ザ・ビートルズ1のジャケットの記述より。
  25. ^ List of number-one singles from the 1960s (UK)を参照。
  26. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.102-104
  27. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.110
  28. ^ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーのインタビューのコメントより。
  29. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.114-115
  30. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.119
  31. ^ a b c d e ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーの記録映像より。
  32. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.139
  33. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.140
  34. ^ Vintage Adelaide. pp.70-71
  35. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.196
  36. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.198-199
  37. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.206
  38. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.161
  39. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.187
  40. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.218に掲載されたスケジュール表より。
  41. ^ a b c d e ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.216
  42. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.215
  43. ^ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーに収録された記録映像。
  44. ^ a b c ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.219
  45. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.220
  46. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.217-221
  47. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.221
  48. ^ a b c d ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.225
  49. ^ ローマ法王庁、J・レノンの「キリスト」発言を許す ロイター通信 2008年11月23日
  50. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.228-229
  51. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.163
  52. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.199
  53. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー ビデオ版に収録されたライブ映像より
  54. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.184
  55. ^ リッチー・ブラックモア 狂気の雷舞 pp.208-209
  56. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.227
  57. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.229
  58. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.216
  59. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.226
  60. ^ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーでのポールの発言より。
  61. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.242
  62. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.92
  63. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.252のジョージ・マーティンの発言より。
  64. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.231
  65. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
  66. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.235
  67. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.237
  68. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.257
  69. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233,259
  70. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp. 264-270
  71. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.274
  72. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.287
  73. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.292
  74. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.297
  75. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.270
  76. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.268
  77. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.316
  78. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.324-327
  79. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.341-343
  80. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.347
  81. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.315
  82. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.321-322
  83. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.322
  84. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.353
  85. ^ 二見書房刊『ビートルズの復活』(庄司英樹著・1974年)あとがきより。
  86. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.350
  87. ^ Beatles covers to be on UK stamps
  88. ^ 公式siteより。
  89. ^ 公式siteより。
  90. ^ 公式siteより
  91. ^ 公式ファンクラブの当該site
  92. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.96
  93. ^ a b c ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録された本人のコメントより。
  94. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.253
  95. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.236
  96. ^ a b ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.77
  97. ^ ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されたキース・リチャーズのコメントより。
  98. ^w:en:1964 in music」及びビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ(w:en:The Compleat Beatles)」より。
  99. ^ a b ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されたジョージ・マーティンのコメントより。
  100. ^ ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール Vol.2」に収録されたAbdul Fakirのコメントより。
  101. ^ ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されたデレク・テイラーのコメントより。
  102. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.11
  103. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.11
  104. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.21
  105. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 P21
  106. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版
  107. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.21
  108. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.27
  109. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.36
  110. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.10
  111. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.114-115
  112. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.158
  113. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.315
  114. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.322
  115. ^ 「ビートルズになれなかった男」p.152
  116. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.292
  117. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)p.266
  118. ^ ビートルズの復活 pp.118-119
  119. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.183
  120. ^ ビートルズの復活 p.148
  121. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.292
  122. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.272
  123. ^ リアム・ギャラガー企画のビートルズ映画、監督はマイケル・ウィンターボトムに決定! 2011年10月26日閲覧。
  124. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.274
  125. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.97-98
  126. ^ The Rights Stuff”. snopes.com (2006年12月11日). 2006年12月11日閲覧。
  127. ^ ソニー/ATV、ワーナーの音楽出版部門買収で昨年交渉
  128. ^ ワーナー・ミュージック、事業売却で10件超の買収提案受ける
  129. ^ 王様 『カブトムシ外伝』ライナノーツ

参考文献

関連項目

外部リンク


ビートルズ!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/11/22 03:07 UTC 版)

ビートルズ!
ビートルズコンピレーション・アルバム
リリース 日本の旗 日本1964年4月5日
録音 1962年9月11日~1963年10月23日
ジャンル ロック
レーベル オデオン OR 7041
Apple AR 8026
オデオン EAS 70100
プロデュース ジョージ・マーティン
ビートルズ 日本 年表
ビートルズ!
(1964年)
ビートルズ No.2!
(1964年)

『ビートルズ!』("Meet The Beatles")は、日本において1964年4月5日にリリースされたビートルズの最初のアルバムである。

目次

解説

『ビートルズ!』は日本におけるデビュー盤として企画構成されたアルバムである。当時日本におけるビートルズの認知度は高くなかったためオリジナル・フォームでのデビュー盤(『プリーズ・プリーズ・ミー』)のリリースは見送られ、よりポピュラリティの高い選曲でビートルズの存在をアピールしようとしたものと思われる。形式的には独自編集盤ではあるものの、実質的にはいわゆるベストアルバムに近いものがある。ジャケットはアメリカ編集盤『ミート・ザ・ビートルズ』に準じている。

初リリース以来、モノラル盤のみの発売であり、本アルバムのステレオ盤はない。

収録曲

アナログA面

  1. 抱きしめたい - I Want To Hold Your Hand (Lennon - McCartney)
  2. シー・ラヴズ・ユー - She Loves You (Lennon - McCartney)
  3. フロム・ミー・トゥ・ユー - From Me To You (McCartney - Lennon)
  4. ツイスト・アンド・シャウト - Twist And Shout (Medley - Russell)
    アイズレー・ブラザーズのカヴァー曲。
  5. ラヴ・ミー・ドゥ - Love Me Do (McCartney - Lennon)
  6. ベイビー・イッツ・ユー - Baby It's You (David - Bacharach - Williams)
    シュレルズのカヴァー曲。
  7. ドント・バザー・ミー - Don't Bother Me (Harrison)

アナログB面

  1. プリーズ・プリーズ・ミー - Please Please Me (McCartney - Lennon)
  2. アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア - I Saw Her Standing There (McCartney - Lennon)
  3. P.S.アイ・ラヴ・ユー - P.S. I Love You (McCartney - Lennon)
  4. リトル・チャイルド - Little Child (Lennon - McCartney)
  5. オール・マイ・ラヴィング - All My Loving (Lennon - McCartney)
  6. ホールド・ミー・タイト - Hold Me Tight (Lennon - McCartney)
  7. プリーズ・ミスター・ポストマン - Please Mister Postman (Dobbin - Garrett - Garman - Brianbert)
    マーヴェレッツのカヴァー曲。




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