鶴竜とは?

鶴瓶上岡パペポTV

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/05/24 05:21 UTC 版)

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鶴瓶・上岡パペポTV
TSURUBE KAMIOKA PA-PE-PO TELEVISION
ジャンル トーク番組
放送時間 放送状況を参照(55分)
放送期間 1987年4月14日 - 1998年3月31日
放送国 日本の旗 日本
制作局 讀賣テレビ放送
プロデューサー 主なスタッフを参照
出演者 笑福亭鶴瓶上岡龍太郎
オープニング テーマ曲とセットを参照
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LIVE PAPEPO 鶴+龍
ジャンル トーク番組
放送時間 火曜日24:50 - 25:20
土曜日24:55 - 25:25(30分)
放送期間 1998年7月7日 - 2000年3月
放送国 日本の旗 日本
制作局 讀賣テレビ放送
プロデューサー 荻原武博、佐藤恭仁子 /
松下泰紀、松本芳久
(共にCP)
出演者 笑福亭鶴瓶上岡龍太郎
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鶴瓶・上岡パペポTV』(つるべ・かみおか パペポテレビ、英字表記:TSURUBE KAMIOKA PA-PE-PO TELEVISION)は、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎を出演者として讀賣テレビ放送(YTV→ytv)制作、日本テレビほかで放送されていたトーク番組である。

概要

1987年4月14日から1998年3月31日まで、讀賣テレビ放送本社スタジオでの公開収録という形をとって放送された。番組開始当初(1987年4月~1988年3月)は毎週月曜日、1988年4月以降は毎週水曜日に収録していたが、1991年頃から月曜日収録に変更。(生放送はパペポシアター開催時と500回記念の2回だけ。また、1988年8月27日に読売テレビ開局30周年イベントの一つとして「鶴瓶上岡10000人のパペポTV大阪城ホールスペシャル」というタイトルの特番が生放送されている)。『パペポTV』としては1998年で終了したが、番組は同年7月から同趣旨の『LIVE PAPEPO 鶴+龍』(ライブ・パペポ つるとりゅう)に移行し、2000年まで続けられた(後述)。

放送状況

制作局・よみうりテレビでの番組開始当初(1987年4月~1988年3月)は火曜日深夜24:50 - 25:45の放送であったが、1988年4月からは、金曜日深夜25:10 - 26:05に枠移動。25:25 - 26:20放送→25:40 - 26:35放送と少しずつ放送時間帯が遅くなって行く。最後の半年は再び火曜日の放送(深夜25:40 - 26:35)に戻る。

日本テレビでの放送は、1988年10月のネット開始当初は月曜日深夜 25:10 - 26:05に放送されていた。最初の3回は「入門編」と称して過去の内容が放送されていた。そして、湾岸戦争時の影響による1990年12月から1991年3月までの放送休止時期を経て[1]、復活後は当初水曜日深夜26:30 - 27:25の放送となり、2ヵ月後元の曜日と時間帯に戻り、1994年10月にいったん木曜日深夜25:40 - 26:35に移動し(これは東京タワーのアンテナのメンテナンスのため月・火が早終了のためだった)、1995年4月には関西と同じ曜日で35分遅れの金曜深夜26:15 -27:10に移動し(ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった)、番組終了まで続いた(ただし、最終回に限っては放送日の都合上、日本テレビでの放送が読売テレビよりも先行されたため、日本テレビでは最終回前週分は未放送)。

地方局での放送も深夜時間帯で、地方によっては途中でネットが打ち切られたり、逆に開始された局もあり、中には東海地区の中京テレビなど、途中で一度打ち切られた後しばらくしてからネットを再開した地域もあった。放送曜日・放送時間は地域によりバラバラであったが、石川県テレビ金沢に限ってなぜか土曜日の朝 9:30 - 10:25に放送されていた時代があった(開局当初はNTV同様月曜日深夜 25:10 - 26:05の放送であった)。(※以上の時間表記は全てJST

この番組は、読売テレビのディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「笑福亭鶴瓶さんで番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、1987年3月に特番で『鶴瓶上岡・激突夜話』(つるべ・かみおか げきとつやわ)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。

タイトルが示すとおり、鶴瓶と上岡の2人が、60分間トークのみを放送する番組。最近の時事問題から2人の身近な話題に至るまでシナリオなし、ぶっつけ本番の毒舌トークを展開させる。放送禁止用語も多く飛び出した。

収録は第1回 - 第65回放送分(1988年7月8日)まではよみうりテレビ旧社屋で行われ、新社屋移転後の第66回放送分(1988年7月15日)からは主によみうりテレビ本社第2スタジオ(収容限界人数約300名)を使用。新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容限界人数約600名)を使用していた。第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されていた。ただし1988年秋 - 90年秋は第2スタジオを夕方の帯番組『ざまぁKANKAN!』が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用した。第216回放送分(1991年7月12日)には、新橋演舞場で収録が行われたこともある(鶴瓶がそこで上演されていた松竹新喜劇に出演していたことによるもの)。

公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、観覧希望者がスタジオの収容限界人数を大幅に上回るファンが集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた(観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた)。ただし、後に出演者の両名のスケジュールの都合により2本分のまとめ撮りとすることが徐々に増え、朝から並んで順番を待つことが出来ない社会人などの救済措置を兼ねて2本目は事前にはがき申込みをして抽選に当選した視聴者にだけ公開するパターンが定着して行った。

よみうりテレビ旧社屋で収録が行われていた時代、観客は基本的にカメラの後方で観覧することになっていた(1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く)。そのため、番組のエンディングの際に、鶴瓶・上岡両名が通称「鶴瓶ダンス」をしながら番組セットからカメラの方へ飛び出したり(1987年7月14日放送分)、「浜寺の水練学校」をテーマにした即興漫才が行われた際に、鶴瓶がオチとして「後は任したー!」と叫びながらカメラの方へ泳ぐようにしてフレームアウト(1988年7月8日放送分)というような演出がたびたび行われていた。新社屋移転後は、観客が番組セットの目の前に座って観覧するようになったため、前述のようなことは一切無くなった(例外として、第176回と第370回放送で無観客による収録が行われた際には、昔を懐かしむ形で前述の行為を再現していた)。

また、番組開始当初は郵政省(現・日本郵政グループ)が「郵便局」のクレジットで1社提供していたことから、番組の最終コーナーではゆうパックを使った「ふるさと小包プレゼント」を開催していたことがあり、そこで視聴者の感想文に答えていた(のちに郵政省筆頭の複数協賛スポンサーとなってからも続いたが、郵政省はその後スポンサーを降板したため「ふるさと小包プレゼント」は廃止となるが、感想文紹介は行われ続けた)。

番組企画・イベント

番組のイベントとして、大阪・梅田のダイヤモンドプラザで開催した「パペポシアター」(1988年3月21日 - 27日)、大阪城ホールで2回(1989年10月3日・1992年5月13日)、日本武道館(1992年5月25日。武道館でこういったトーク・イベントは初だった)・ニューヨークでトーク・イベント(1996年9月28日)を開催した。

さらに1990年3月25日、番組で「2人が相撲をとったらどちらが勝つ?」という話から「嵐の春場所」と称し長居公園でイベントを開催し2万人を集め、客の押し合いで5人が怪我するというハプニングもあった(このときの新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた)。なお、この時の勝敗は収録で東京に行った上岡の代理で弟子のテントが、鶴瓶に5回とも倒されている(この「長居パニック」は、後の武道館イベントにつながる)。同日に行われた大相撲大阪場所の千秋楽よりも人が入ったという(大相撲の約1万人に対し、当イベントは約2万人もの観客が来場した。番組中の公表による数値)。

また、番宣ポスターを制作したことがある。鶴瓶・上岡両名が上半身は燕尾服姿も下半身丸出し(当然モザイク処理されている)で写っており、糸井重里が考案した『見てるあんたも同罪じゃ。』というキャッチコピーがつけられたシロモノであった。(当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている)番組最後で葉書が読まれた視聴者にプレゼントされたが、中には「こんなもの受け取れません」と番組に送り返した視聴者もいたが、強制的に再び番組から送り返された(らしい)。パペポシアターの時も、ポスターを録っている。上岡は、(上下)タキシード。鶴瓶は、上だけタキシード。ただあの部分は、前張りを張っていた。が、ポスターが完成したら、その部分が白くボヤケ、鶴瓶にポスターにサインを頼むとその部分にサインをしていた。

パペポシアターに関しては、1988年6月10日に開催3日目のトーク(合計90分)を収録した音源が50ページ冊子付きのカセットブックとして東芝EMIから発売された。

公開録画が原則の番組であったが、収録当日のトラブルや意図的な理由などで観客を入れずに放送した回が5回あった。

1回目(1990年9月21日放送)
収録時に近畿地方を台風が直撃したため、収録直前に観客を帰らせた。
2回目(1990年10月19日放送)
観客なしの放送が新鮮であったため、もう一度やってみたいという鶴瓶・上岡の申し出による。なお、この回では特別に、普段ではコマーシャルのためにカットされる部分のトークが放送された。
3回目(1994年8月26日放送)
2本撮りの予定であった日に鶴瓶が食中毒で倒れて出演できなくなり、上岡が1人で出演して1時間喋った回があった。この影響で、その日は1本しか収録が出来ず、その翌々週も2本撮りのスケジュールが組まれていたため、翌々週が3本撮りに変更された。しかし3本目の収録が夜遅くになるため、家に帰れなくなる人が出てしまう恐れがあるという問題が発生し、3本目の収録が無観客で行われることとなった。なお、この放送のオープニングトークで、上岡がちょっとしたことで笑う番組スタッフに対し、「我慢するとか、遠慮するとか、空気を考えるとか、周りのムードを読むっちゅうことがでけんのか、お前には!」と本気で激怒した。スタッフの笑い声が入るような、いわゆる「内輪だけの笑い」は、視聴者が見ていて一番不快で面白くないというのが理由であった。
4回目(1995年1月27日放送)
阪神・淡路大震災の影響によるもの。俗に言う「怒りのパペポ」。27日放送分(23日収録)は阪神・淡路大震災直後で「笑わすことができない」ということで二人だけの収録となった。以下に示す二人が発した主な発言の通り、被災者(鶴瓶)として、またはテレビを見ていたもの(上岡)として、後手に回り人間的かつ柔軟な対応ができないタテ割り行政や、人間としての資質を疑うような言動をするマスメディア(特にテレビメディア)への怒りをあらわにした。なお、オープニングテーマもエンディングテーマも流れず、放映の最後にはよみうりテレビの親局である日本テレビ制作の『24時間テレビ』への批判まで出た。
5回目(1997年4月4日放送)
500回を記念して生放送で行われた。この放送の終盤で上岡が鶴瓶をそそのかし、生放送であるにもかかわらず放送禁止用語(関西弁で女性器の意味を表す俗語)を鶴瓶が言ってしまったところで提供に入り、生放送が終了した。ただし日本テレビを始め同時ネットされていない局では上からピー音でかぶせられていた。翌々週の放送(翌週の放送分は500回記念生放送前に収録されたため)で鶴瓶はその発言に対し謝罪した。

なお、通常の放送ではオープニングから最初のCMまでの間とCM明けの座りトークの冒頭約2分間、そしてエンディングの場面でBGMが挿入されるが、無観客の回に限り全編BGMなし(1,2,4回目)、またはオープニングのみ挿入(3,5回目)という形で放送された。

主なスタッフ

構成
  • 疋田哲夫
  • 鹿児島俊光(番組初期)
  • 藤本多賀雄(番組後期)
プロデューサー(1993年1月まで1人、1993年2月より2人体制)
  • 岡島英次(番組開始 - 90年7月)
  • 池田智(1990年8月 - 1992年9月・1993年2月 - 1996年7月)
  • 白岩久弥(1992年10月 - 番組終了まで)
  • 西村良雄(1996年7月 - 1997年2月)
  • 松下泰紀(1997年2月 - 番組終了まで)
ディレクター(1991年1月まで及び1993年1 - 3月は1人、1991年2月 - 1992年12月及び1993年4月以降は2人体制)
  • 白岩久弥(番組開始 - 1992年12月、1993年4月 - 1996年4月。1991年2月よりチーフディレクター。1992年10月以降はプロデューサーを兼務)
  • 武野一起(1991年2月 - 1993年3月。番組開始から1991年1月まではADとしてエンドロールに表記されていた)
  • 高津英泰(1993年4月 - 番組終了まで。1996年5月よりチーフディレクター)
  • 内海博久(1996年5月 - 1997年6月)
  • 西川義嗣(1997年7月 - 番組終了まで)

テーマ曲とセット

テーマ曲は番組開始~提供までの立ちトークの間とエンドロール時に使用。立ちトークがいつ終わるかわからないため、エンドレスに加工して使用していた。選曲はすべて白岩プロデューサーが行い、番組の雰囲気に合う最新洋楽ナンバーを中心に選曲されていたが、一部例外として邦楽の英語詞ヴァージョンや、CD化されて再発売されたクラシックヒットナンバーの中から選曲されたケースもあった。

1代目セット時代(1987年4月 - 1989年3月)
正面背後にピンクの大砲を配置した、当番組の象徴ともいえるセット。関西ローカル時代に作られたもので、最もシンプルな雰囲気の造りであった。
2代目セット時代(1989年4月 - 1991年7月)
全国ネット化から半年後に、セットの模様替えを実施。1代目セットをベースに、「PAPEPO」の文字の電飾看板を配置するなどグレードアップしたもの。ピンクの大砲は舞台向かって左側奥に移設された。
  • HE AIN'T NO COMPETITION(BROTHER BEYOND)
  • IF I DON'T HAVE YOU(JASON DONOVAN)
  • CAN'T DENY A BROKEN HEART(ANNICA)
  • SECRET LOVE(ビージーズ
3代目セット時代(1991年8月 - 1993年5月)
全面模様替え。より大きな「PAPEPO」の文字の電飾や、背景ホリゾントに回転する「PAPEPO」の文字を映し出すライトを配置。茶色系配色を中心としたセットで、舞台背景全面に電飾を使用していた。
  • WHEN THE LIGHTS GO OUT(GERARDO)
  • GIVE ME JUST A LITTLE MORE TIME(MIC MURPHY)
  • ADDAMS GROOVE(ハマー
  • CHIC MYSTIQUE(シック
  • TAKE MY ADVICE(KIM SIMS)
  • GET LOVE~ENGLISH VERSION(横山輝一
  • FULL TERM LOVE~Club Mix Edit(MONIE LOVE)
4代目セット時代(1993年6月 - 1995年12月)
回転する「PAPEPO」の文字のライトを除いて、全面模様替え。巨大な本や文具、スタンドなどを模したセットが置かれた机の上、背景は橋や高層ビルの町並みをイメージして造られたセットが用意された。
  • TWENTY-FIVE HOURS A DAY(THE HOOTERS)
  • TUESDAY MORNING(THE POGUES)
  • I ONLY WANT TO BE WITH YOU(BLIDGETTE WILSON)※オープニングのみ
  • STAY(ETERNAL)※エンディングのみ
  • GIVE IT UP(CUT'N'MOVE)
  • SWEETS FOR MY SWEET(C.J.LEWIS)
  • DAYDREAM BELIEVER(THE MONKEES)
  • WON'T WALK AWAY(NELSON)
  • TOTAL ECRIPSE OF THE HEART~ボーナストラックREMIX(NICKY FRENCH)
  • I'LL BE THERE FOR YOU(THE REMBRANDTS)
5代目セット時代(1996年1月 - 1997年9月)
4代目セットをベースに、より派手な電飾を施したセット。机の上を模した舞台は変わらず、「TK」の文字の形をした電飾ミラー、アーチ状の建物、受話器を天井から吊り下げたピンク色の巨大な電話のセットなどを配置。PAPEPOの文字の形をした謎の生物6体がペンキを塗ったりこぼしたりしている様子などを表現していた。
  • DUB-I-DUB(Me&My
  • THE RIGHT TIME~ディスコバージョン(ザ・コアーズ
  • LAST NIGHT(C.J.LEWIS)
  • SOONER OR LATER(THE GRASS ROOTS)
  • RING A LING(TIGGY)
  • MY OH MY(アクア
6代目セット時代(1997年10月 - 1998年3月)
全面模様替え。これまでの派手な電飾路線から一転して、砂漠を背景にした西部風の落ち着いたイメージのセットに変更されたが、僅か半年後に番組が終了することとなった。番組終了の背景には、白岩プロデューサーが1998年4月付で吉本興業系番組制作会社のワイズビジョンへ出向することとなり、松竹芸能系番組である当番組の制作に関わることが実質不可能となったことが大きく影響したと考えられている。
  • UNTOUCHABLE(RIALTO)
  • WHAM BAM(THE SCARLET)

放送されたネット局

※1991年8月発売のテーマ曲のCDジャケットには「全国17局ネット」と書かれており、途中から開始したり打ち切られる放送局はあったものの、概ね15 - 20局でネットされていたと考えられる

LIVE PAPEPO 鶴+龍

「パペポTV」の制作に欠かせないスタッフであった白岩プロデューサーが吉本興業系の番組制作会社「ワイズビジョン」へ出向することとなったため「パペポTV」は1998年3月で一旦終了するが、3ヵ月後の同年7月7日から制作スタッフと収録体制を一新した新番組『LIVE PAPEPO 鶴+龍』と題し、30分番組として復活した。

放送時間は当初火曜深夜24:50 - 25:20で、1999年4月から『DO-YA』枠の土曜深夜24:55 - 25:25に枠移動した。関東・日本テレビでは「パペポTV」と同じ金曜深夜26:15 - 26:45の枠で放送された。なお、パペポTVをネットしていた局がすべてこちらもネットした訳ではなかった。

こちらはスタジオ収録ではなく、スタジオを飛び出して全国各地の観光地などでのゲリラ的収録を敢行した(ただ「いつ、どこで収録します」という告知は番組でなされていた)。収録会場は主に京阪神地区の中から選ばれ、1回で2本分(60分)収録するスタイルが基本となっていたが、数回に1回の割合で関東や中部など、番組が放送されているその他地域への遠征も行われていた。また、ごく稀に3週に分けて放送された回もあった。

関西地区以外のロケ地、遠征先
スタッフ
  • 構成 疋田哲夫 藤本多賀雄
  • ディレクター 前西和成 新宅淳 小金澤ゆき
  • プロデューサー 荻原武博 佐藤恭仁子
  • チーフプロデューサー 松下泰紀→松本芳久
  • 協力 リバーボトル
  • 制作協力 松竹芸能 上岡プロモーション

脚注

  1. ^ フジテレビの『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された。
読売テレビ 火曜深夜24時50分枠
前番組 番組名 次番組
不明
鶴瓶上岡パペポTV
不明
読売テレビ DO-YA
LIVE PAPEPO 鶴+龍
読売テレビ 笑福亭鶴瓶出演のバラエティ番組
不明
鶴瓶上岡パペポTV

LIVE PAPEPO 鶴+龍
最後の晩餐

鶴竜力三郎

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鶴竜 力三郎 Sumo pictogram.svg
Kakuryu 08 Sep.jpg
入場する鶴竜関
基礎情報
四股名 鶴竜 力三郎
本名 マンガルジャラビーン・アナンド
Мангалжалавын Ананд
愛称 アナンダ
生年月日 1985年8月10日(28歳)
出身 モンゴル国ウランバートル市
身長 186cm
体重 154kg
BMI 44.51
所属部屋 井筒部屋
成績
現在の番付 東横綱2枚目
最高位 第71代横綱
生涯戦歴 505勝379敗4休(73場所)
幕内戦歴 365勝276敗4休(43場所)
優勝 幕内最高優勝1回
三段目優勝1回
殊勲賞2回
技能賞7回
データ
初土俵 2001年11月場所
入幕 2006年11月場所
趣味 スポーツ観戦
備考
2014年2月24日現在

鶴竜 力三郎(かくりゅう りきさぶろう、1985年8月10日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で井筒部屋所属の現役大相撲力士。本名はマンガルジャラビーン・アナンド[1]モンゴル語キリル文字表記:Мангалжалавын Анандラテン文字転写Mangaljalavyn Anand)、愛称はアナンダ。身長186cm、体重154kg、血液型はA型、趣味はスポーツ観戦。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。第71代横綱。実際に生まれ育ったのはウランバートル市内だが、取組前の呼び出しでは父親の出身地であるスフバートルを自身の出身地としている[2]

四股名の「鶴」は部屋ゆかりの四股名「鶴ヶ嶺」から、「力三郎」は尊敬する井筒部屋の大先輩・寺尾が新十両場所だけ名乗っていたゆかりの四股名「源氏山」の下の名前に由来する。締め込みの色は青。

来歴

モンゴル時代

大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに滋しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生であったが、その裕福な家庭環境から、自宅でNHKの相撲中継も視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志し、花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。しかし諦念しきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の時田一弘会長宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、井筒親方(関脇逆鉾)に諮って井筒部屋に入門させ、2001年5月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った。

現役時代

井筒部屋に入門した2001年9月の時点では65kgしかなく、井筒は最初「床山にでもするか」と思ったという。だが3ヶ月で82キロまで増やし、新弟子検査に合格した鶴竜の笑顔を見て井筒は「こいつを育てなきゃ可哀想だ」と感じた。[3]入門当初から物覚えが良く、廻しの切り方は1度で覚え、日本語は来日1年で堪能になったという。また、納豆も平気で食べられるなど日本食にも初めから適応できていた。[4]同期生によると、相撲教習所時代には準備体操のランニングでいつも先頭を走るなど当初より向上心の高さが垣間見られたといい、同期の元幕内・隆の山は引退会見で「毎朝2人で先頭を走り、『寒いから早く走って中で暖まろうぜ』と片言の日本語で話していました」と当時の様子を述懐していた。[5][6] こうして着実に番付を上げて行ったが、魚が嫌いでなかなか体重が増えず、三段目の下位で苦労した時期もあった[4]。しかし、魚嫌いを克服してから徐々に体重も増え、三段目の上位でも勝ち越せるようになり、2004年7月場所に7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌9月場所は一気に幕下14枚目まで番付を上げた。[5]この場所は1勝6敗と跳ね返されたものの、千秋楽の夜に涙を流していたところに部屋付き行司の9代式守與之吉から「明日も四股を踏むくらいだったら怒られないよ」と耳打ちされ、場所後1週間の稽古休みとなる中で翌日からの與之吉言葉通り稽古場で大汗をかくほど四股を踏んで精進を図った。[5]そして同年11月場所から6場所連続勝ち越しを続け、2005年9月場所では幕下東5枚目で5勝2敗という微妙な成績ながら11月場所には十両に昇進した。しかし十両では軽量が災いしたか成績が伸びず、1場所で幕下に陥落した。翌2006年1月場所に東幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越し、十両に戻った3月場所は3勝6敗から6連勝して9勝6敗と関取として初の勝ち越しを果たした。その後は勝ち越しを続け、2006年9月場所では西十両筆頭で9勝を挙げて、翌11月場所には新入幕を果たした。

新入幕となった2006年11月場所では異例とも言える前頭東8枚目に番付を上げ、その後も勝ち越して西前頭2枚目まで番付を上げた。新十両以来二桁勝利は長らく無かったが、2008年1月場所では11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を獲得した。2008年9月場所から出身地を父の出身地であるスフバートルに変更した。西前頭筆頭で迎えた3月場所は7日目まで2勝5敗だったが、中日から8連勝で10勝5敗と二桁勝利を挙げて、3大関を破るなど2度目の技能賞を受賞した。翌5月場所は新三役小結)に昇進。この場所は、3月場所と同様に2勝5敗とかなり苦戦したが中日から7連勝して最終的に9勝6敗と勝ち越し、3月場所に引き続き2場所連続で3回目の技能賞を受賞した。翌7月場所は新関脇に昇進したものの5勝10敗と負け越して1場所で平幕へ陥落した。翌9月場所では11勝4敗と好成績を挙げて4度目の技能賞を受賞した。翌11月場所は西関脇に復帰したものの、7勝8敗と負け越した。

2010年

平幕に陥落した後も2場所連続で負け越すなど調子を取り戻せないでいたが、7月場所では初日から8連勝し、中日には大関・琴欧洲を破るなどの活躍を見せた。結果11勝4敗の好成績で3場所ぶりの勝ち越し、5場所ぶりの二桁勝利を記録し、5度目の技能賞を受賞した。

2011年

5月技量審査場所では西小結の位置で、13勝2敗で優勝した白鵬(第69代横綱)に次ぐ成績の12勝3敗という自身最高の成績を挙げて6度目の技能賞を受賞した[7]。翌7月場所では3大関を破る活躍を見せて西関脇(2枚目)の位置で10勝5敗と、三役で2場所連続の二桁勝利を挙げた。次の9月場所は東関脇(2枚目)の地位で、東関脇の琴奨菊と共に初の大関獲りを目指したが、不調で7日目で早くも4敗を喫してしまう[8] 。終盤4連勝して勝ち越したが9勝6敗に終わった。

2012年

1月場所10日目には、初顔合わせの2007年9月場所から20連敗を喫していた横綱白鵬に寄り切りでついに初勝利、同場所は10勝5敗で初の殊勲賞を獲得、三役で2場所連続で二桁勝利を挙げたことで2度目の大関獲りとなった[9]。3月場所は、初日から7連勝し、中日で大関・稀勢の里に敗れ初黒星となったが、翌9日目で前場所に引き続き白鵬に快勝して勝ち越し[10]。その後14日目まで鶴竜が13勝1敗で単独トップ、12勝2敗の白鵬と優勝を争っていた。千秋楽本割で勝てば鶴竜の幕内初優勝だったが、平幕(西前頭6枚目)の豪栄道に敗れ2敗に後退。さらに13勝2敗同士の優勝決定戦では、本割で勝っていた横綱白鵬に上手投げで敗れ惜しくも優勝を逃してしまったが、殊勲賞と技能賞をダブル受賞。また14日目、琴欧洲戦の白星で直前3場所の勝ち星が大関昇進の目安となる33勝(10勝-10勝-13勝)となったため、翌5月場所の新大関が確定的になった[11]。なお「6大関」となるのは職業相撲が始まったとされる室町時代以降、大相撲界では史上初の出来事である。2012年3月28日、満場一致で鶴竜の大関昇進が決定[12]昇進伝達式での口上は「これからも稽古に精進し、お客さまに喜んでもらえるような相撲が取れるよう努力します」であった[13]。なお、昇進を伝える使者として1月場所後の改選で新理事に昇進した雷親方(元前頭筆頭・春日富士)と一門の勝負審判として部屋の先輩にあたる錣山親方(元関脇・寺尾)が井筒部屋に派遣され昇進を伝えた[14]

新大関となった5月場所は中日まで1敗であったが、8勝7敗に終わった。7月場所は4連敗を喫したものの、14日目に豪栄道の休場により不戦勝で勝ち越しを決め、千秋楽に琴奨菊を下手投げで下し9勝6敗で終えた。9月場所は12日目まで2敗を維持していたが、13日目に白鵬、14日目に日馬富士(第70代横綱)に連敗して優勝争いから脱落。千秋楽は7連敗中だった稀勢の里に勝利して11勝4敗、大関昇進後初の二桁勝利を挙げた[15]

2013年

1月場所は終盤に4連敗し8勝7敗に終わった。2月の日本大相撲トーナメントでは決勝で豊ノ島を破り、初優勝を果たした[16]。3月場所は8勝7敗、3場所連続で一桁勝ち星に終わった。5月場所は初日から8連勝で大関昇進後で初の中日勝ち越しを決めたが[17]、9日目に琴奨菊に敗れ初黒星。その後の横綱、大関戦に全敗で10勝5敗。7月場所は10勝5敗と大関昇進後で自身初の連続二桁勝利を挙げた。9月場所は7日目まで6勝1敗としたものの、中日以降は連敗が続き、9勝6敗に終わった。11月場所は2日目から連敗し、その後は11日目まで2敗だったが、終盤4連敗で9勝6敗に終わった。

2014年

1月場所は初日に同学年の隠岐の海に敗れたが、2日目から白星を重ねて13勝1敗、千秋楽に14戦全勝の白鵬との直接対決に臨んだ。本割では白鵬を寄り倒しで破ったが、優勝決定戦では白鵬に敗れ初優勝はならなかった。それでも北の湖理事長は「決定戦までいったし、優勝に準じる」と、本割で白鵬を破って14勝1敗の優勝同点の成績を評価し、翌3月場所を綱取り場所とする見解を示唆。目安については「最低でも13勝。(最近は)2桁勝利に届いておらず、高いレベルでの優勝が必要」と話した[18]

春場所では3日目にこれまで2連敗の隠岐の海に押し出しで敗れ1敗となるが[19]、その後は連勝を重ね12日目に横綱の日馬富士を送り出しで破り、14日目に1敗で並んでいた横綱の白鵬を破り単独トップに立つと[20]、千秋楽で琴奨菊を寄り切りで破り、14勝1敗で初優勝を決めた[21]。場所後、理事長の北の湖は鶴竜の横綱昇進を横綱審議委員会へ諮問することを決め[22]、同月24日に開かれた同委員会で満場一致で推薦され[23]、同月26日に開かれた夏場所番付編成会議と臨時理事会において正式に第71代横綱への昇進が決定した。外国人力士としては史上6人目、モンゴル人としては史上4人目の横綱となった。時津風一門からの横綱昇進者は実に52年6ヶ月ぶりである。横綱伝達式では「謹んでお受けします。これから、より一層稽古に精進し、横綱の名を汚さぬよう、一生懸命努力します」と口上を述べている[24]

なお横綱土俵入りは雲龍型を選択、指導は貴乃花親方(第65代横綱・一代年寄)が行った[25]。本来は同部屋もしくは同一門の師匠が指導するのが通例であるが、時津風一門の横綱は柏戸剛引退から鶴竜の昇進までの45年間に渡って不在で、その全員が物故者であるために貴乃花親方が代わりに指導役を務めている。なお、この土俵入りの指導者系譜をさかのぼって行くと、鶴竜 -貴乃花 -2代若乃花 -初代若乃花 -12代立田川時津風理事長の命による)となり、他の一門に伝えられていた土俵入りをルーツである時津風一門に戻すという、歴史的意義を生む伝承となった。

5月場所初日、本場所で初めて雲龍型の横綱土俵入りを披露。なお本場所での雲龍型土俵入りは、2010年1月場所後に引退した朝青龍明徳(第68代横綱)以来25場所ぶり。さらに「3横綱」は、2001年1月場所(曙・貴乃花・武蔵丸。同場所の千秋楽後曙が現役引退)以来80場所ぶりとなる。 8日目の取り組みでは、その日まで全敗だった宝富士が立ち合いで真っすぐ立ったところを、立ち会い変化し右へ回ってまわしを触れた程度の上手投げ。全敗の平幕に対し横綱らしくない相撲内容に、満員札止めの館内からブーイングが向けられた。ブーイングの中、懸賞を手にし土俵を後にした本人は物憂げな表情で「これも勉強。次にこういった状況で自分の相撲が取れれば変わっていく」と自分に言い聞かせるように話したという。[26] 12日目の結びの一番で、行司軍配は豪栄道に上がっていたが、勝ち残りで東の土俵下に座っていた白鵬が、行司の判定に異議があるとして物言いをつけた。協議の結果、豪栄道がはたき込んだ際にまげをつかんだとして、鶴竜が反則勝ちを得た。横綱が反則で勝ったのは史上初で、幕内の取組で土俵下に控えていた力士が物言いをつけたのは18年ぶり。この場所は結局9勝6敗に終わり、鶴竜を好評(後述)する横審の内山斉委員長もこの結果には「横綱として初めての場所で緊張は分かるが、6敗は多すぎる。いただけない」と苦言を呈した。[27]

人物・エピソード

合い口

いずれも2014年3月場所終了現在。
  • 白鵬に対しては4勝30敗(優勝決定戦を含めると32敗)と大の苦手としている。21回目の対戦で初めて勝ったが、これが鶴竜にとって対横綱戦初勝利となった。
  • 稀勢の里に対しても11勝24敗と大きく負け越している。2011年7月場所から2012年7月場所まで7連敗、2013年1月場所から11月場所まで6連敗している。
  • 日馬富士にも11勝22敗と倍の差をつけられている。一時期8連敗するなど圧倒的な差をつけられていたが、2011年11月場所から2012年5月場所まで4連勝し、少しずつ差を縮めつつある。
  • 琴奨菊には14勝16敗と拮抗している。その他、引退した朝青龍には7戦全敗、琴光喜には4勝10敗、千代大海には3勝6敗、把瑠都には12勝13敗とそれぞれ負け越している。ただし、魁皇琴欧洲に対してはそれぞれ10勝6敗、18勝12敗と勝ち越している。
  • 格下では安美錦を13勝14敗とやや苦手としている。初顔から6連敗を喫したが、2012年以降の成績は鶴竜の方が勝ち越している。栃煌山には17勝15敗と拮抗、妙義龍には6勝6敗と互角。
  • 隠岐の海には7勝4敗と勝ち越しているが、現在3連敗中である。鶴竜は2014年1月場所と3月場所で14勝1敗の好成績を残したが、いずれの黒星も隠岐の海がつけた。特に1月場所では白鵬との優勝決定戦で初優勝を逃しただけに、この黒星が大いに響いた。

人物

  • 控えめな性格で感情を表に出すことが少なく[28]穏やかで礼儀正しい。関取の多くが後援会や部屋が用意したタクシーや車で会場入りするなか、鶴竜は一人で歩いてくることもある[29]
  • 一方で負けず嫌いな一面も多々見られる。2012年5月場所千秋楽、勝てばその時点で優勝となる豪栄道戦で敗れた際には直後の支度部屋では悔しさのあまり風呂場で珍しくうめき声を上げた。心が整わないまま臨んだ白鵬との優勝決定戦でも敗れたことで平常心の大切さを思い知らされたという。[30]2014年1月場所の優勝決定戦で白鵬に敗れた際にも「これで悔しくなければ辞めた方がいい」と語気を強めて語ったことがある。[31]
  • 日本語はテレビ番組とカラオケを通じて覚えた。また、英語ロシア語も話せる[32]
  • 自分の取り組みをVTRで見ては反省点をノートに書き出し、課題を決めて稽古に取り組む[33]
  • 生真面目な性格ゆえに、大関昇進直後にまだ十両が稽古している午前9時前に稽古場に登場し、大関以上の申し合いまで1時間以上も待った。「自分のタイミングで(申し合いに)入っていけない。今まで通りにやっていきたいけど…。待つ時間が長い。準備運動をして待っている間に体が冷えて気持ちも落ち着いてしまう。(準備運動を)遅めにするとかしないといけない」と語っている[34]
  • 平成以降に昇進した横綱8人が全て2場所連続優勝を果たしたのに対し、鶴竜の場合は結果的に綱取り場所となった2014年3月場所が初優勝だった。また、昇進3場所前に該当する2013年11月場所は9勝6敗であり、2014年3月場所終了現在において年6場所制定着以降において直前3場所前が1ケタ白星であったにもかかわらず連覇無しで綱取りを果たした唯一の力士となっている。それでも2014年3月場所後の横綱審議委員会は無風で、10分余りのスピード推薦。決め手となったのは鶴竜の真面目な人柄とひた向きな姿勢であった。横審では一つも注文が出されず、各委員からは鶴竜の人間性を絶賛する声が続出した。宮田亮平委員は鶴竜を「頭が良い。言葉、礼儀作法がしっかりしている」と褒め、高村正彦委員は「日本人以上に日本人らしい力士だ」と高く評価。大島寅夫委員は「行儀も良いし、よく考えた相撲を取る。品格のある横綱になると思う」と期待していた。[35]
  • 2014年5月9日に東京都墨田区の野見宿禰神社で奉納土俵入りを披露した際に最後の塵手水を忘れる失態を犯してしまった。奉納土俵入りでの失敗は近年では稀なことであり、これには師匠の井筒も「なんだかんだいって緊張してるんだろうね。心配になっちゃう。本場所ではやめてほしいよ」と苦笑いだった。[36]

その他

  • 若手時代に『ボンボン』『金持ち』と呼ばれることには腹が立っていたそうで、後に朝日新聞の記事で「向こうで大学の先生といっても、給料はよくない。バスケをやっていたのに、バッシュを買えなかった」と反論しており、実家のマンションも1LDKで自室は無かったという[3]
  • 横綱ともなれば移動にタクシーや自動車を使うことが当たり前である中、昇進以降も日常生活では自転車の使用を好んでおり、現在も自宅から数分かけて自転車で部屋まで通うという。[37]
  • 師匠の現役時代のしこ名「逆鉾」を襲名するという話もあったが、「鶴竜」が定着したこともあり立ち消えとなった[38]
  • 横綱審議委員会の委員長である内山斉は鶴竜を評価しており、事あるごとに「かなり長く綱を張るのではないか?」と発言している。
  • 角界屈指のサッカー通であり、自身が立てた2014 FIFAワールドカップ日本代表メンバーの予想はほぼ的中したという。[39]

主な成績

2014年5月場所終了現在

通算成績

  • 通算成績:528勝386敗4休(75場所)
  • 幕内成績:388勝283敗4休(45場所)
  • 横綱成績:9勝6敗(1場所)
  • 大関成績:119勝61敗(12場所)
  • 三役在位:13場所(関脇8場所、小結5場所)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:1回(2014年3月場所)
  • 三段目優勝:1回(2004年7月場所)

三賞・金星

  • 三賞:9回
    • 殊勲賞:2回(2012年1月場所、2012年3月場所)
    • 技能賞:7回(2008年1月場所、2009年3月場所、2009年5月場所、2009年9月場所、2010年7月場所、2011年5月技量審査場所、2012年3月場所)
  • 金星:なし

場所別成績

           

鶴竜力三郎[40]


一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2001年
(平成13年)
x x x x x (前相撲)
2002年
(平成14年)
西 序ノ口 #32
5–2
 
西 序二段 #97
4–3
 
東 序二段 #74
5–2
 
西 序二段 #32
6–1
 
東 三段目 #70
5–2
 
西 三段目 #40
1–6
 
2003年
(平成15年)
西 三段目 #76
2–5
 
東 序二段 #4
4–3
 
東 三段目 #87
3–4
 
東 序二段 #5
5–2
 
西 三段目 #70
3–4
 
西 三段目 #86
6–1
 
2004年
(平成16年)
東 三段目 #25
4–3
 
西 三段目 #13
4–3
 
東 三段目 #3
3–4
 
西 三段目 #17
優勝
7–0
西 幕下 #14
1–6
 
西 幕下 #35
4–3
 
2005年
(平成17年)
西 幕下 #27
4–3
 
西 幕下 #21
5–2
 
西 幕下 #12
4–3
 
西 幕下 #7
4–3
 
東 幕下 #5
5–2
 
西 十両 #14
5–10
 
2006年
(平成18年)
東 幕下 #3
5–2
 
西 十両 #11
9–6
 
西 十両 #8
9–6
 
東 十両 #4
9–6
 
西 十両 #1
9–6
 
西 前頭 #8
8–7
 
2007年
(平成19年)
東 前頭 #8
6–9
 
西 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 #5
6–9
 
東 前頭 #8
9–6
 
西 前頭 #2
7–8
 
東 前頭 #3
4–11
 
2008年
(平成20年)
東 前頭 #8
11–4
西 前頭 #1
6–9
 
西 前頭 #3
5–10
 
西 前頭 #7
8–7
 
東 前頭 #5
7–8
 
東 前頭 #6
5–6–4[41]
 
2009年
(平成21年)
西 前頭 #8
9–6
 
西 前頭 #1
10–5
東 小結
9–6
東 関脇
5–10
 
西 前頭 #3
11–4
西 関脇
7–8
 
2010年
(平成22年)
西 小結
7–8
 
東 前頭 #1
6–9
 
東 前頭 #3
6–9
 
西 前頭 #6
11–4
西 小結
9–6
 
西 関脇
7–8
 
2011年
(平成23年)
西 小結
8–7
 
八百長問題
により中止
東 小結
12–3
西 関脇 #2
10–5
 
東 関脇 #2
9–6
 
西 関脇
10–5
 
2012年
(平成24年)
東 関脇
10–5
東 関脇
13–2[42]
西 大関 #3
8–7
 
西 大関 #3
9–6
 
西 大関 #3
11–4
 
東 大関 #1
9–6
 
2013年
(平成25年)
西 大関 #1
8–7
 
東 大関 #2
8–7
 
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #2
10–5
 
西 大関 #1
9–6
 
東 大関 #2
9–6
 
2014年
(平成26年)
西 大関 #1
14–1[42]
 
東 大関 #1
14–1
 
東 横綱 #2
9–6
 
東 横綱 #2
11–4
 
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
朝青龍 0 7 朝赤龍 5 5 安壮富士 0 1 安美錦 13 14
阿覧 12 1 3 0 岩木山 5(1) 2 潮丸 0 1
皇司 1 0 隠岐の海 7 4 魁皇 10 6 魁聖 5 0
海鵬 1 0 臥牙丸 5 0 垣添 5 3 春日王 1 4
春日錦 1 1 片山 1 0 稀勢の里 11 24 北太樹 4 0
旭天鵬 14 3 豪栄道 17(1) 8 黒海 6 2 琴欧洲 18 12
琴奨菊 14 16 琴光喜 4 10(1) 里山 1 0 霜鳳 1 1
十文字 1 0 翔天狼 1 0 高見盛 2 5 髙安 5 2
豪風 15 0 玉春日 3 1 玉乃島 2 3 玉鷲 4 1
千代大海 3 6 千代大龍 4 0 千代白鵬 0 2 出島 4 2
時津海 2 1 時天空 9 4 德瀬川 0 1 土佐ノ海 4 0
土佐豊 3 1 栃煌山 17 15 栃ノ心 12 1 栃乃洋 5 2
栃乃花 2 1 栃乃若 3 0 豊桜 0 1 豊ノ島 14 8
豊響 5 2 白馬 1 0 白鵬 4 30 白露山 1 1
把瑠都 12 13 日馬富士 11 22 武州山 2 0 普天王 4 1
豊真将 11 8 北勝力 4 0 将司 3 0 雅山 6 2
妙義龍 6 6 猛虎浪 1 0 嘉風 4 1 露鵬 1 1
若麒麟 1 0 若荒雄 2 1 若の里 6 4 若ノ鵬 0 2

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2014年3月場所終了現在、現役力士

関連項目

脚注

  1. ^ インドの僧侶・アナンダに本名が由来している。
    鶴竜が体験 イスラム教そーなんだ nikkansports.com 2013年8月24日9時37分 紙面から
  2. ^ モンゴル国では、フビライ帝の時代以前から、自身の名前に「○○ドルジ(朶而只)」等と「○○という父親の息子」という表現を使うことが見られるなど出自には父親の系統が重視され、父の出身地を重視する慣行から、おしなべて多くのモンゴル出身力士は父親の出身地を自分自身の本籍地として表現する傾向がある。
  3. ^ a b 2012年3月25日(日)朝日新聞朝刊紙面より
  4. ^ a b 鶴竜、熱意実った 入門志願し手紙…苦労乗り越え大関へ 大相撲 産経新聞 3月27日(火)7時55分配信
  5. ^ a b c 素直にこつこつ-鶴竜の努力、実を結ぶ MSN産経ニュース 2014.3.24 08:04
  6. ^ コラム「猫だまし」 同期生との思い出 MSN産経ニュース 2014.7.25 18:09
  7. ^ 鶴竜12勝で技能賞 次場所は大関獲りへの足場固め スポニチ 2011年5月23日 06:00
  8. ^ 鶴竜、大関昇進絶望的「1番でも自分の相撲を…」 スポニチ 2011年9月18日 06:00
  9. ^ 来場所大関獲りへ!殊勲賞の鶴竜「無心で…」 スポニチ 2012年1月23日 06:00
  10. ^ 鶴竜 2場所連続白鵬に土!昇進へ望みつなぐ スポニチ 2012年3月20日 06:00
  11. ^ 鶴竜13勝目まず大関“クリア”千秋楽勝って初Vだ スポニチ 2012年3月25日 06:00
  12. ^ 大相撲:鶴竜の大関昇進を正式決定 初の6大関 相撲協会 毎日新聞 2012年03月28日 09時27分配信
  13. ^ 鶴竜、異色口上「お客さま喜ばせる相撲を」デイリースポーツオンライン 2012年3月29日配信
  14. ^ 伝達式使者に鶴竜の兄弟子 師匠の実弟、元関脇寺尾が決定 スポニチ 2012年3月25日 21:25
  15. ^ 猛省の稀勢、満足の鶴竜 スポニチ 2012年9月23日 20:49配信
  16. ^ 大関鶴竜が初優勝、白鵬連覇ならず 大相撲トーナメント スポニチ 2013年2月10日 18:36配信
  17. ^ 鶴竜大関昇進後初ストレート給金/夏場所 日刊スポーツ 2013年5月19日 20時26分配信
  18. ^ 鶴竜、春場所で綱とりへ=大相撲 時事通信 2014年1月26日 19:24配信
  19. ^ 鶴竜綱獲りピンチ 「後手後手」で隠岐の海に3連敗スポーツニッポン2014年3月12日配信
  20. ^ 鶴竜 白鵬撃破!勝って初V&綱昇進 突攻W王手スポーツニッポン2014年3月23日配信
  21. ^ 鶴竜 2横綱下して堂々の初V「コツコツやってきたことが結果に」スポーツニッポン2014年3月23日配信
  22. ^ 北の湖理事長、横審に鶴竜の昇進諮問へ スポーツニッポン2014年3月23日配信
  23. ^ 鶴竜、第71代横綱に 横審が全会一致で推薦スポーツニッポン2014年3月24日配信
  24. ^ 第71代横綱鶴竜が誕生「一生懸命努力します」と口上スポーツニッポン2014年3月26日配信
  25. ^ 鶴竜土俵入り、貴乃花親方が指導「のみ込み早かった」朝日新聞2014年3月27日配信
  26. ^ 全敗の相手に変化相撲…鶴竜大ブーイング東スポWeb 2014年5月19日6時00分
  27. ^ (短信)横綱審議委員会 稀勢綱とり、厳しい見方 日本経済新聞 2014/5/27付
  28. ^ 大相撲:控えめの鶴竜 195キロの碧山を豪快に転がす|2014年01月20日 21時12分|毎日新聞
  29. ^ 鶴竜モンゴル4人目の大関に元宝塚娘役との縁談が急浮上|2012.03.29 12:01|週刊文春WEB
  30. ^ 鶴竜笑った 100人目賜杯で決めた 両親の前で「三度目の正直」 Sponichi Annex 2014年3月24日 05:30
  31. ^ 鶴竜、初V 「綱確実」 大一番も冷静に MSN産経ニュース 2014.3.23 21:35
  32. ^ 日本語で手紙 大相撲入り/鶴竜メモ 日刊スポーツ2014年3月24日
  33. ^ 鶴竜に見る男の生き方|経営者倶楽部
  34. ^ まじめ大関・鶴竜「内容めちゃくちゃ」|2012年04月30日 12時00分|東スポWeb
  35. ^ 10分余りのスピード推薦 鶴竜の真面目な人柄が決め手 横審 大相撲 iza 産經デジタル 2014.3.24 21:12
  36. ^ 【夏場所】新横綱・鶴竜「アッ」奉納土俵入り所作“ど忘れ” 2014年5月10日6時0分 スポーツ報知
  37. ^ 鶴竜庶民派 チャリンコ通勤続ける nikkansports.com 2014年4月6日9時45分 紙面から
  38. ^ 「モンゴルのインテリ鶴竜4連勝/秋場所」日刊スポーツ2009年9月17日紙面から
  39. ^ サッカー通の鶴竜、W杯代表は予想通り DAIRY SPORTS ONLINE 2014年5月13日
  40. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年9月24日閲覧。
  41. ^ 右膝内側側副靱帯損傷により11日目から途中休場
  42. ^ a b 白鵬と優勝決定戦

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