アーガー・モハンマド・シャー
アーガー・モハンマド・シャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)
「ガージャール朝」の記事における「アーガー・モハンマド・シャー」の解説
アーカー・ムハンマド・ハーンはテヘランに戻り、1796年、シャーとして戴冠、アーガー・モハンマド・シャーを名乗った(以降、現代ペルシア音で記す)。続いて北東のホラーサーン方面に目を転じてマシュハドを確保、さらに名目的に命脈を保っていたアフシャール朝を滅ぼし、ほぼサファヴィー朝の領域を確保するに至った。 1796年夏、ロシアがグルジア遠征軍を起こしたが(en:Persian Expedition of 1796)、エカチェリーナ2世の死去に伴って中止された。アーガー・モハンマド・シャーは翌年春、ブハラ遠征に代えてグルジア安定のためにテヘランを出発したが、その途上1797年6月19日、暗殺された。グルジア問題は以降ガージャール朝歴代の懸案としてロシアとの対立をもたらし、やがてロシア・ペルシア戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争・第二次ロシア・ペルシア戦争)を招くことになる。
※この「アーガー・モハンマド・シャー」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「アーガー・モハンマド・シャー」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- アーガー・モハンマド・シャーのページへのリンク