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鶴岡一人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/14 07:48 UTC 版)

鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市五番町(現:西中央)出身[1]プロ野球選手内野手)・監督野球解説者。戦後の1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。

愛称は鶴岡親分またはツルさん。初代ミスターホークスドン鶴岡とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。




  1. ^ a b 鶴岡は日本経済新聞社の連載『私の履歴書』でも「私は大正五年七月二十七日、呉市東二河通六丁目で生まれた」(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』(日本経済新聞社、2007年)に収録、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 ― つるおか かずと |日本経済新聞出版社))と書いている他、『御堂筋の凱歌』(奥付)や、『わしの野球』(206頁)といった鶴岡の自著全てで「広島県呉市生まれ」と書いている。またボーイズリーグの公式ホームページでも「呉市の生まれ」と話している(鶴岡一人記念大会 | 財団法人日本少年野球連盟 | ボーイズリーグ)。一部の文献に「山口県出身」、あるいは「山口県大島郡生まれ」などと書かれた物があるが、これは誤り。山口県大島は両親の出身地(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』12、13頁)ではあるが、鶴岡一人自身は広島県呉市の生まれ育ち。
  2. ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P51 - 52。この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。
  3. ^ a b c d 永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年、38-47、110頁
  4. ^ それまでも「大学出身」の選手がプロ入りしたこともあったが、大半は中退。卒業した者もいったんは実業団を経由していた。大学卒業と同時に入団した者は一人もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。
  5. ^ a b c 井上章一『阪神タイガースの正体』、太田出版、2001年、200-204頁
  6. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、62頁
  7. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、71頁
  8. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、74頁
  9. ^ 鶴岡一人が養子となり「山本一人」であった時 サインは「山本」と書いていたか
  10. ^ 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、10、74頁
  11. ^ 別所毅彦『剛球唸る!』ベースボール・マガジン社、55頁
  12. ^ 別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、106頁
  13. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(6)』ベースボール・マガジン社、1987年、144頁、145頁
  14. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、96、130頁
  15. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、96頁
  16. ^ 野村克也『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78、106頁
  17. ^ 『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』日本少年野球連盟、2000年8月、p42
  18. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、20、93、96頁
  19. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、106頁
  20. ^ これに関して大沢は著書『球道無頼』(講談社、1996年)において独自の判断で動いたと記している。また、スポニチアネックスの記事でも同様の見解を述べているほか、同記事ではメモの指示したシフトと大沢の動きが異なることも指摘されている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ)。
  21. ^ 杉浦忠『僕の愛した野球』、海鳥社、1995年、122-126頁
  22. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、102頁
  23. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、102頁
  24. ^ 別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、75頁-78頁
  25. ^ 『プロ野球史再発掘(6)』112頁-114頁
  26. ^ 【1960年代の3選手】山本 一義(やまもと・かずよし)(71) - 中国新聞
  27. ^ CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回-
  28. ^ 阿部牧郎『われらのプロ野球』1996年、中央公論社、133頁
  29. ^ 永井正義『勇者たち=人物阪急球団史=』1978年、現代企画室、255頁-258頁
  30. ^ キャピー原田『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』ベースボール・マガジン社、1980年、71頁、72頁
  31. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、80、81頁
  32. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、95頁
  33. ^ 「がめつい」という言葉はもともと関西にはなく、菊田一夫が執筆して1959年に初演された戯曲『がめつい奴』での造語とされる(同項目参照)。また、鶴岡の著書において「グラウンドにゼニが落ちている」という言葉は、監督在任中に刊行した『南海ホークスとともに』(1962年)では前面に出ていないという指摘がある(『南海ホークスがあったころ』P180)。鶴岡は監督退任後の1969年に『ゼニになる野球』という著書(永井正義との共著)を刊行した。
  34. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、10、94頁
  35. ^ 「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、106頁
  36. ^ 野村克也『あぁ、監督』、96-99頁
  37. ^ これより以前の1975年オフにも、「公私混同」は球団内で問題となり、当時の球団社長が大沢啓二に非公式に監督就任を打診していたという。(スポニチアネックス・大沢啓二、第1回-13・日本ハム監督就任
  38. ^ 監督通算試合が2995試合となって、この部門では鶴岡を越えた2008年7月9日の発言(スポーツニッポン、2008年7月10日面)
  39. ^ ただ、『ベースボールマガジン』1999年夏号に掲載された蔭山和夫急死時についての記事では、鶴岡は野村を蔭山に次ぐ第2候補とし、選手兼任も止む無しと考えていたとの記述があった。また、『南海ホークスがあったころ』にも鶴岡は野村を飯田徳治の後任として考えていたが、就任時期が早まったと記述されている。
  40. ^ Sports Graphic Number 722、2009年2月19日、31-32頁
  41. ^ 同様の記述(スポーツニッポン、2008年7月10日、4面)。
  42. ^ 文藝春秋 2009年11月号、308頁
  43. ^ 野村の著書『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78頁に似た内容の記述
  44. ^ 『南海ホークスがあったころ』P78,80 - 81


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