ふじむら‐ふみお〔ふぢむらフミを〕【藤村富美男】
藤村富美男
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藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身[出典 1]の元プロ野球選手(内野手、外野手、投手)・コーチ・監督、解説者・評論家[出典 2]。
注釈
- ^ スポーツニッポン2012年12月18日付の藤村隆男を紹介した記事では「4男2女」と書かれている[29]。
- ^ 鶴岡の通った五番町小学校と藤村の通った二河小学校は、現在は統合されて呉中央小学校となっている[34]。
- ^ ただし、藤村自身は自らのライバルは鶴岡一人ひとりだけと語っていた[45]。
- ^ ちなみに、この記録更新は春夏通じての1試合最多奪三振記録、1963年の春の甲子園でPL学園の戸田善紀が記録した1試合21奪三振を抜いて、春夏通じて1試合最多奪三振記録となった。
- ^ 公式戦初登板を"プロ野球開幕戦"で完封、更に二桁奪三振を高卒(旧制中学卒)新人で挙げたのは藤村一人。打っても4打数3安打2打点。
- ^ 公式戦でない巨人軍との最初の試合(同年6月27日のオープン戦)も若林をリリーフして対巨人戦初勝利[51]。
- ^ 鶴岡一人によると、旧制中学や大学に教練の時間があり、授業に出てよい点を取っておかないと幹部候補生試験に落されたという[55]また、大貫妙子の父である大貫健一郎(1942年応召)も甲種不合格・乙種合格となった理由について「おまえは大学生のころ、軍事教練にほとんど出ておらん。後日考課に影響があると配属将校から注意があったはずだ。乙種に合格しただけでもありがたく思え」と中隊長から聞かされたと記している[56]。
- ^ この内容は大井広介の『タイガース史』からの引用。
- ^ 選手不足のため、阪神は産業軍との連合チーム「猛虎」として出場し、阪急軍・朝日軍の連合チーム「隼」と対戦する形でおこなわれた。第3戦は5回に警戒警報が発令されて中止となっている。大会は主に西日本に本拠を置くこれらのチームが自主的に開催したため、日本野球報国会の主催試合には含まれていない。
- ^ 翌年には笠原和夫が更に更新。
- ^ それまでの最多記録は1946年の山本一人の95。
- ^ 翌年に坪内道典が更新。
- ^ 前年の青田昇を抜く。
- ^ 前年の青田を抜く。
- ^ 前年の自身の記録を抜く。
- ^ 1938年秋の中島治康を超える。
- ^ いずれも翌年に小鶴誠が更に更新
- ^ 選手兼任監督では2014年シーズン終了時点で藤村が唯一の達成者。
- ^ 藤村排斥事件をスクープしたのはデイリースポーツとされ、引退してから藤村はデイリーの評論家にならなかった。ただし、藤村が現役に復帰した1958年には、「排斥事件」当時のデイリースポーツ担当記者に対して、藤村が神戸・三宮に出てくるたびに食事を誘う電話がかかってきて嬉しく感じたという元担当記者の証言が『デイリースポーツ50年史』(1998年)に掲載されている(同書P23)。高瀬一による「ミスター・フジさん」という囲み記事。青木一三は「藤村排斥事件を手引きしたのは何もかも私」と述べている[78]。
- ^ この内容は1960年代に『週刊ベースボール』に掲載された座談会の再録。
- ^ この試合で村山実がプロ初登板している。
- ^ このクロスプレーには巨人側が46分にわたって抗議したが、判定は覆らずサヨナラ勝ちとなった[83]。
- ^ 傘下の女子クラブチームの阪神タイガース Womenは別組織であることから、10を着用した選手がいる。
- ^ 唯一対戦歴のない球団はパ・リーグ所属の高橋(トンボ)ユニオンズだが、これは同球団が1954 - 1956の3年間しか存在せず、藤村はその間セ・リーグの大阪に在籍していたがゆえ対戦機会がなかったため。
- ^ 藤本はNPBにおいて選手経験が皆無のため、全て監督及びコーチとしての対戦。
- ^ 選手オンリーとしての歴代2位は日比野武の18球団。
- ^ 退場に至る経緯については文献によって細部に違いがある。松木謙治郎の『タイガースの生い立ち』(恒文社、1973年)では、藤村は「(杉村から)退場はいわれておらず、ただ風呂に入った方がよいといわれた」と松木に話したという[128]。また松木の『松木一等兵の沖縄捕虜記』(現代書館、2012年)の解説では、杉村は藤村に「君はもうお風呂に入りなさい」と退場宣言のつもりで言ったが、藤村は「風呂は試合が終わってからゆっくり入るわ」と次の打席に立ったため、杉村が改めて藤村に退場を宣言。怒り狂った藤村が杉村にパンチを浴びせたと書かれている[71]。一方、阪神の球団史である『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では杉村は藤村の暴行の際に「そんなことすると退場だぞ」と言ったが、それが退場を命じたものかどうかが不明確であったと記している(同書P237)。松木の著書にある「風呂」発言について、大和球士は杉村がこの言葉で退場を暗に促したのだという見解を述べている[129]。また、藤村の打順の際にベンチ裏にいた松木は、監督代行の金田正泰からは代打の相談を、藤村からは「退場ではないので打ちに行く」という言葉を受け、一瞬迷った末に藤村を打席に送った[出典 58]。つまり、藤村の独断だけで打席に立ったわけではない。
- ^ 「投げ飛ばした」とする文献もあるが、松木は自著で「腰投げや足払いをかけたが杉村は座り込み、投げ飛ばしていない」と記している[128]。
- ^ 『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「大阪球場事件」と記載。
- ^ この内容は1977年に『文藝春秋デラックス』の座談会で述べたものの引用。
- ^ 2008年、双葉社から出版された『阪神タイガース猛虎列伝―藤村富美男から藤川球児まで』は、藤村を“最初で最後のミスタータイガース”と紹介(P138)。
- ^ 1944年は背番号廃止のためなし
- ^ 傘下の女子野球チーム『阪神タイガース Women』では永久欠番を適用していないため、2023年時点では藤本莉央(内野手)が着用している。
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- 1 藤村富美男とは
- 2 藤村富美男の概要
- 3 人物
- 4 詳細情報
- 5 脚注
- 6 外部リンク
藤村富美男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 18:32 UTC 版)
本来、ミスタータイガースの呼称は藤村富美男に対して与えられたものである。 藤村は、1935年の球団創立時からチームに在籍しており、20年以上攻守にわたってチームの中心選手として活躍し、4度の優勝にも貢献。特に、1948年からはゴルフクラブを参考に「物干し竿」と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、闘志溢れるプレースタイルがファンから絶大な支持を得た。この時代、戦後の復興期にあって、藤村の人気は関西圏の野球ファンを一気に増加させ、タイガースを象徴する存在であるとして、「ミスタータイガース」との呼称が考案された。 当時を知るタイガースファンの中には、「ミスタータイガースに初代も二代目もなく、藤村富美男だけが『ミスタータイガース』である」として、藤村以外の選手をミスタータイガースと認めない者も多い。ファンだけでなく、共にタイガースでプレーした後輩の吉田義男、ライバルチームの主力選手であった青田昇らも、「ミスタータイガースは藤村だけである」と明言している。 なお、藤村以降の選手もミスタータイガースと呼ぶ場合には、藤村のことを「初代ミスタータイガース」と呼ぶ。
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