志賀親次
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志賀 親次(しが ちかつぐ/ちかよし[注釈 11])は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。南志賀家・志賀親守(その後養子などの関係により志賀親度が父になる)の子。豊後国岡城主。
注釈
- ^ 一説では 永禄11年(1568年)[1]
- ^ 『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。親次の父は実に長兄・親孝(親度)。親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
- ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると、凉泉院は清田鎮乗寿閑の妻。養母は大友宗麟の娘。志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。
- ^ 林宗頓、洗礼名はゴンサロ。『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)と結婚した。
- ^ 志賀親度子・松野左門(長岡殿)
- ^ 志賀親度長女
- ^ 志賀親度次女
- ^ 志賀親度子、吉岡鑑興と妙林尼夫婦の養子・吉岡統増
- ^ 生年は永禄9年(1566年)。洗礼名はマダレイナ。宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)と先夫・一条兼定の女・マダレイナ(ジュスタの連れ子として鎮忠の養女となる)とは別人)
- ^ 内蔵丞。のち志賀親成の養子。
- ^ 山口県宇部市にある志賀親次の墓にはそうルビされている。
- ^ 大友宗麟の葬儀には祖父を代理として出席させている。
- ^ 義統の嫡子・義乗が秀吉に謁見に行く際に随行した3名の重臣に選ばれている。また秀吉は親次を重臣筆頭の田原紹忍より上座に座らせて豊薩合戦における親次の功績を激賞し、さらに一行のうち義乗以外では親次のみを淀城での食事に招待した(紹忍らは外で待機させられた)
- ^ ルイス・フロイスは親次を徹底的に好意的に描いており、『日本史』の大友氏関連の記事は、大友氏改易後に志賀親次が仕官先を求めて上京したこと、そして“ドン・パウロ(親次)が元どおり領主に収まることは不可能と思われるものの、(中略)我らは彼が、他の地において老関白から俸禄が与えられるのではないかと期待している”という記述で締めくくられている。
- ^ 異説として、『大友興廃記』などでは他の人物が進言したとする。また、外山幹夫などは九州征伐で親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高く、親次が主体となって撤退を進言したとする説に異論を唱えている。
出典
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