第3代執権とは? わかりやすく解説

第3代執権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:08 UTC 版)

北条泰時」の記事における「第3代執権」の解説

貞応3年1224年6月、父・義時急死したため、鎌倉に戻ると継母伊賀の方実子の政次期執権擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母である尼御台北条政子大江広元協議をして、泰時と時房を御所呼んで両名執権任命し伊賀の方らを謀反人として処罰した泰時政子後見の元、家督相続し42歳で第3代執権となる。ただし、政子泰時任命したのは、当時軍営御後見」と呼ばれていた将軍後見役であり、泰時こそが執権制度の創設者で彼が初代執権であったとする説もある(後述)。 伊賀の方幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政事件へ荷担疑われた有力御家人三浦義村不問付せられ、流罪となった伊賀の方の兄の伊賀光宗政子死後間もなく許され復帰している。義時遺領配分に際して泰時弟妹多く与え自分ごく僅かな分しか取らなかった。政子はこれに反対して取り分多くし、弟たち統制させようとしたが、泰時は「自分執権の身ですから」として辞退したという(ただし、泰時和田合戦承久の乱戦功恩賞として得た所領があった上、父・義時その時恩賞得た所領一部を既に泰時譲っていた)。伊賀氏の変寛大な措置弟妹への融和策は当時泰時立場弱さ家督相続人ではなかったのに突然家督相続したことによる自身政治基盤脆弱さ北条氏幕府における権力不安定さ現れでもあった。泰時新たに北条氏嫡流家の家政司る家令」を置き、信任厚い家臣尾藤景綱任命し、他の一族異な嫡流家の立場明らかにした。これが後の得宗内管領前身となる。 だが、伊賀氏の変については、伊賀の方謀反風聞泰時自身否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀の方謀反企てたとは一度明言しておらず、政子伊賀の方らが処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿北条氏代替わりによる自らの影響力低下恐れた政子が、義時後室伊賀の方実家である伊賀氏強引に潰すためにでっち上げ事件で、泰時政子画策には乗らず事態沈静化させたとする説もある。 また、通説では泰時と時房が「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとったとされているが、現存する関東下知状御教書位署政子死去するまで泰時単独であるため、時房は伊賀氏の変の後に京都戻り実際に執権連署)に任命されたのは政子没後とする説がある。しかし、実際には翌嘉禄元年1225年)の元日埦飯沙汰したのは時房であり、時房の京都帰還それ以降と言える。むしろ、それまで義時務めていた元日埦飯沙汰を時房が務めているという事実は、泰時と時房の間でどちらが幕政主導するかで水面下権力闘争があった可能性指摘する説もある。 嘉禄元年1225年6月に有力幕臣大江広元没し7月には政子世を去って幕府続けて大要人を失った後ろ盾となり、泰時補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子干渉という束縛から解放され泰時は独自の方針政治家としての力を発揮できるようになった泰時難局にあたり頼朝から政子にいたる専制体制代わり集団指導制、合議政治打ち出した叔父の時房を京都から呼び戻してそれぞれの嫡男である時氏と時盛後継六波羅探題とする。その後泰時御所新造計画後述)を主導して政子広元亡き後幕政主導者であることを示すと共に、時房とは妥協協力体制確立させ、こうして「両執権」と呼ばれる複数執権体制確立され、やがて次位のものは後に「連署」と呼ばれるうになる泰時続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆選んで政所出仕させ、これに執権2人加えた13人の「評定会議新設して幕府最高機関とし、政策人事決定訴訟採決法令立法などを行った。なお、「執権」という役職評定衆取りまとめる責任者として、この時に初め設置されたとする説もある(時政義時後になって『吾妻鏡』編者過去に遡らせて「執権」と表記たとする)。 3代将軍源実朝暗殺後新たな鎌倉殿として京から迎えられ8歳となっていた三寅元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経嘉禄2年1226年1月27日正式に征夷大将軍となる。これに先立つ嘉禄元年12月20日頼朝以来大倉にあった幕府御所代わり鶴岡八幡宮の南、若宮大路東側である宇都宮辻子幕府新造する。頼経がここに移転し、その翌日評定衆による最初評議が行われ、以後はすべて賞罰泰時自身決定する旨を宣言した。この幕府移転規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転図り合議的な執権政治発足させる象徴的な出来事だった。反面、これによって鎌倉殿征夷大将軍実権奪われ名目上存在になった。もっとも、鎌倉殿征夷大将軍あっての執権であることは泰時自身が一番理解しており、評定衆会議決められた事は常に鎌倉殿征夷大将軍報告し京都の例に倣って鎌倉大番役四角四堺祭などを導入して幕府最高権威はあくまでも鎌倉殿征夷大将軍であることを強調し続け泰時本人主従関係模範になろうとした。 また、鎌倉の町に戸主や保などの京都と同じ都市制度導入し鎌倉海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時だった。 一方家庭内では嘉禄3年1227年6月18日16歳次男時実家臣殺害された。3年後寛喜2年1230年6月18日には長男の時氏が病のため28歳死去し1ヶ月後の7月三浦泰村嫁いだ娘が出産するも子は10日余り亡くなり、娘自身産後の肥立ち悪く8月4日25歳死去するなど、立て続け不幸に見舞われた。

※この「第3代執権」の解説は、「北条泰時」の解説の一部です。
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