第3代執権
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貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母である尼御台・北条政子は大江広元と協議をして、泰時と時房を御所に呼んで両名を執権に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。泰時は政子の後見の元、家督を相続して42歳で第3代執権となる。ただし、政子が泰時を任命したのは、当時「軍営御後見」と呼ばれていた将軍の後見役であり、泰時こそが執権制度の創設者で彼が初代の執権であったとする説もある(後述)。 伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀の方の兄の伊賀光宗も政子の死後間もなく許されて復帰している。義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時は「自分は執権の身ですから」として辞退したという(ただし、泰時は和田合戦や承久の乱の戦功で恩賞として得た所領があった上、父・義時もその時の恩賞で得た所領の一部を既に泰時に譲っていた)。伊賀氏の変の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。泰時は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。これが後の得宗・内管領の前身となる。 だが、伊賀氏の変については、伊賀の方謀反の風聞を泰時自身が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀の方が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀の方らが処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件で、泰時は政子の画策には乗らずに事態を沈静化させたとする説もある。 また、通説では泰時と時房が「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとったとされているが、現存する関東下知状や御教書の位署が政子が死去するまで泰時単独であるため、時房は伊賀氏の変の後に京都に戻り、実際に執権(連署)に任命されたのは政子の没後とする説がある。しかし、実際には翌嘉禄元年(1225年)の元日の埦飯を沙汰したのは時房であり、時房の京都帰還はそれ以降と言える。むしろ、それまで義時が務めていた元日の埦飯沙汰を時房が務めているという事実は、泰時と時房の間でどちらが幕政を主導するかで水面下の権力闘争があった可能性を指摘する説もある。 嘉禄元年(1225年)6月に有力幕臣・大江広元が没し、7月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。後ろ盾となり、泰時を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになった。 泰時は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した。叔父の時房を京都から呼び戻してそれぞれの嫡男である時氏と時盛を後継の六波羅探題とする。その後、泰時は御所新造計画(後述)を主導して政子・広元亡き後の幕政の主導者であることを示すと共に、時房とは妥協と協力体制を確立させ、こうして「両執権」と呼ばれる複数執権体制が確立され、やがて次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。泰時は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。なお、「執権」という役職は評定衆を取りまとめる責任者として、この時に初めて設置されたとする説もある(時政・義時は後になって『吾妻鏡』の編者が過去に遡らせて「執権」と表記したとする)。 3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は嘉禄2年(1226年)1月27日、正式に征夷大将軍となる。これに先立つ嘉禄元年12月20日、頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言した。この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。反面、これによって鎌倉殿=征夷大将軍は実権を奪われて名目上の存在になった。もっとも、鎌倉殿=征夷大将軍あっての執権であることは泰時自身が一番理解しており、評定衆の会議で決められた事は常に鎌倉殿=征夷大将軍に報告し、京都の例に倣って鎌倉大番役や四角四堺祭などを導入して、幕府の最高権威はあくまでも鎌倉殿=征夷大将軍であることを強調し続け、泰時本人が主従関係の模範になろうとした。 また、鎌倉の町に戸主や保などの京都と同じ都市制度を導入し、鎌倉の海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時だった。 一方、家庭内では嘉禄3年(1227年)6月18日に16歳の次男時実が家臣に殺害された。3年後の寛喜2年(1230年)6月18日には長男の時氏が病のため28歳で死去し、1ヶ月後の7月に三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は10日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。
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