書家としてとは? わかりやすく解説

書家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 02:42 UTC 版)

巖谷一六」の記事における「書家として」の解説

はやくから能書家として知られ日下部鳴鶴中林梧竹と並ぶ明治の三筆一人称される初め中沢雪城師事して菱湖流学んだが、明治政府出仕後は旧習脱して顔真卿の書を基盤とした雄渾書風へと転じている。さらに1880年明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法学び独自の書風確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地旅行し多数揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多く石碑文字書いており、現在も全国250基以上の碑が残っている。 また、甲賀市水口歴史民俗資料館甲賀市水口町水口)に「巖谷一六小波記念室」があり、近年明治4年から12年にかけての自筆日記や、没後編纂された『一六遺稿未収録漢詩文稿が収蔵されそれぞれ翻刻公刊された。

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書家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 06:11 UTC 版)

寂蓮」の記事における「書家として」の解説

書家としても名があり、現存する書跡には以下のものがある。 一品経和歌懐紙 熊野懐紙 平安時代から鎌倉時代初期古筆類は、伝称筆者は多いものの確実なもの少ない中で、この2つ書跡はともに署名があり、筆者確実な自筆詠草である。

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蘇軾」の記事における「書家として」の解説

書家としても著名で、米芾黄庭堅蔡襄とともに宋の四大家称される蘇軾ははじめ二王王羲之王献之)を学び、後に顔真卿・楊凝式・李邕学んだ代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年1082年47歳のとき、自詠の詩2首を書いた会心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節清明節前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙行書17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化出している。落款はないが、黄庭堅傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:11 UTC 版)

野村素介」の記事における「書家として」の解説

晩年は素軒の号で書家として活躍日本書道幹事長書道奨励会会頭選書奨励会審査長などを務めた行書を得意とし各地筆跡残されている。石碑多くを手がけ、京都霊山護国神社木戸神道碑、上宇野令香園毛利神道碑といった勅撰碑のほか、全国40基ほどを確認できる。 同じ長州出身書家杉聴雨長三洲合わせて長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人数え文献もあるが「明治の三筆と言えば日下部鳴鶴中林梧竹巖谷一六の3人を数えるのが一般的

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 07:17 UTC 版)

柴秋邨」の記事における「書家として」の解説

阿波頼山陽」とも「幕末阿波三筆」とも称される秋邨は、四書五経など中国古典学んでいたが、自作漢詩数多く作り、それを何度も書にしている。その書は和様特質にあふれ、明朗親しみやすく、華やかさがあり詩情豊かで精彩満ち春風駘蕩の雅風を漂わせている。当時よりその書は評価高く多く人々求められた。酒を好んだ秋邨には、酒席求められ書いた余酔の書」も多く残っている。 絶筆と言われる書は「列蒼茫晩 餘明一碧天飛鳥山影春田」で、「連なる木々夕闇包まれ暮れていく。消え残った春霞一筋の川のように明るさ残している。青空自由に飛んでいたたちもどこかに去り山影は、のどかな春の田臥すように暗い影投げかけている。」という意味の五言絶句である。自然界事象を鋭い感性で確りとらえた秋邨らしいスケール大き作品であるが、一方で庚午事変により血気盛んな若い阿波藩士達が数多く処刑処罰されていく時世痛恨の思い案ずる秋邨の心情込められており、胸に迫るものがある。この書は、阿波で最高の書として朝日新聞昭和40年代紹介された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:01 UTC 版)

古谷蒼韻」の記事における「書家として」の解説

1961年日展特選1981年日展内閣総理大臣賞1985年万葉・秋雑歌」で日本芸術院賞日展顧問日本書芸最高顧問読売書法最高顧問京都書道作家協会会長。蒼遼会を主宰1993年京都市文化功労者2006年日本芸術院会員2010年文化功労者2018年8月25日午前6時55分、肺炎のため、京都市内病院で、死去。満94歳没。叙従四位旭日中綬章追贈

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 01:32 UTC 版)

小穴喜一」の記事における「書家として」の解説

書道造詣深く、はじめ木除草堂、後に堂と号した若き日山口蒼輪にも書を教えたほか、1914年大正3年10月井口良一青沼尚、小里頼永石川源司、志賀正人三村寿八郎、牧伊三郎藤岡亀三郎、武野光江20余名同志と書研究のため文硯会を興し各派書道について研究し松本盆地松本安曇野地域)における書道界寄与した大王わさび農場内にある初代深澤勇市の頌徳記念碑小穴喜一の筆。 中国渡航して書の研究をしており小穴文庫には中国収集された資料少なからず含まれている。 書道の他にも小穴左衛門号して弓道をし、謡曲易学囲碁にも造詣深かった昭和13年刊行松本近郊囲碁鑑の番付には行司1人として掲載されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:52 UTC 版)

高木聖鶴」の記事における「書家として」の解説

書家として日本中国古筆名筆研究し美しく気品ある仮名追求、独自の書風打ち立て斯界発展大きな貢献をしてきた。1950年日展初入選。1975年からは日本書芸理事1984年からは読売書法会理事に就くなど、日本の書の発展大い貢献した。▼岡山拠点朝陽(あさひ)書道会を創設した内田鶴雲師事の師が仮名書大御所安東聖空であったことから、聖空譲りの「元永本古今集」の書風をしっかり身につけた後、「一条摂政集」「高野切」「針切」「香紙切」など古筆分け入り王朝の雅を手中に収めた。▼現代仮名書代表するまでになりえたのは、一方で戦後仮名書家たちが追い求めた大字仮名にも新境地開いたからである。 — 読売新聞社読売人物データベース 2006年平成18年)、文化功労者選ばれた際には「かな書は文字としての意味を伝えるだけでなく絵画のような造形美探求するもの。墨と筆の日本の文化です。書は私のすべて。後世にいい作品をのこすため全力投球する」と述べた晩年になって日本美術展覧会顧問をはじめ、日本書芸院の最高顧問や、読売書法会の最高顧問など、多く団体役職務めた2017年2月岡山県倉敷市病院にて死去した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:41 UTC 版)

空海」の記事における「書家として」の解説

この節には、JIS X 0213:2004規定されている文字崔子玉座右銘の「崔瑗」の2文字目は王偏に爰)が含まれています(詳細)。 書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ殊に王羲之顔真卿書風影響を受け、また篆書隷書楷書行書草書飛白すべての体をよくした日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流称され不世出能書家である。真跡としては次のものがある。 聾瞽指帰ろうこしいき) 『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し入唐前、延暦16年24歳頃の書といわれる。書はやや硬い筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。金剛峯寺国宝。『聾瞽指帰』から『三教指帰』への改訂について三教指帰#「聾瞽指帰」から「三教指帰」へを参照のこと。 灌頂歴名かんじょうれきめい) 弘仁3年から弘仁4年にかけて、空海高雄山寺金剛胎蔵両界灌頂授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺国宝風信帖ふうしんじょう詳細は「風信帖」を参照 国宝指定名称は『弘法大師尺牘せきとく)』。空海最澄送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで風信帖』と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次所望により、天正20年献上したことが巻末奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として『灌頂歴名とともに絶品とされる年号不詳であるが、弘仁3年頃とされている。1通目は、9月11日付で「風信書」の書き出し書風謹厳である。2通目は、9月13日付で「忽披枉書」の書き出し書風精気があり、また情緒もある。3通目は、9月5日付で「忽恵書礼」の書き出し流麗な草書体である。全体王羲之の体である。東寺崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうめい/ざうめい) 後漢の崔瑗の『座右銘100字を草書2、3字ずつ、数十行に書いたのである。もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は『大字切』(だいじぎれ)と称している。 空海を含む讃岐佐伯氏は、書と深く関わり持っていた一族であった考えられている。空海門人で同じ佐伯氏出身である実慧若い頃に同じ一族思われる讃岐国多度郡出身佐伯麻呂らに儒学学んだとされているが、実は酒麻呂空海実弟であり、彼とその一族平安時代前期において、長期渡って書博士地位占めていた事が『日本三代実録』に記されている。

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賀知章」の記事における「書家として」の解説

現存する書蹟に以下のものがある。 『孝経孝経全文草書書いたもので、賀知章署名はないが、末尾に「建隆二年(961年)冬重粘表賀監墨蹟」と小楷書かれていて、古来賀知章真蹟伝えられる江戸時代中期日本舶載され、近衛家熙収蔵するところとなり、久しく近衛家にあったが、明治はじめに皇室献納されて御物となった(現在は三の丸尚蔵館)。書風王羲之風の重量感があり、切れ味も鋭い。概して用筆勁利、しかも秀麗洒脱である。 『隔日不面帖』 『東陽帖』 『敬和帖』

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岡田晃弥」の記事における「書家として」の解説

1990年当時ローマ教皇・ヨハネ・パウロ二世接見し手島右卿の書を献上する

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 22:26 UTC 版)

藤原基俊」の記事における「書家として」の解説

書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。 多賀和漢朗詠集写本断簡。現在70ほどが残る。下巻末にあたる部分断簡(陽明文庫)に、本文同筆で「永久四年(1116年孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。このように年代筆者明記され書跡は、現存するおびただしい平安時代遺品中でも稀である。 山名新撰朗詠集

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