パトロンとして
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馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。 文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。この青年は後に喜劇俳優・古川ロッパとして成功した。 長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。のちに妹は文藝春秋に入社するものの、肋膜炎を患い退社した。 1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。 このような菊池の言動を永井荷風は嫌悪し、日記『断腸亭日乗』の中で散々にこきおろしている。
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パトロンとして
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「カール・ヴィトゲンシュタイン」の記事における「パトロンとして」の解説
カール・ヴィトゲンシュタインは19世紀オーストリアにおける芸術家のパトロンとしても著名であった。法律家であり芸術にも造詣が深かった兄パウルの紹介により、彼の邸宅にはヨハネス・ブラームスやパブロ・カザルス、ヨーゼフ・レイバーなどの音楽家やウィーン分離派に属する画家、建築家が出入りしていた。ヨゼフ・マリア・オルブリッヒの設計によるセセッション館(分離派会館)はヴィトゲンシュタインの援助により建設されている。ヴィトゲンシュタインは事業においても芸術作品の興味についても反伝統主義的であった。親交を持った人物には、ヨーゼフ・ホフマン、フェリックス・メンデルスゾーン、オーギュスト・ロダン、コロマン・モーザー、ハインリヒ・ハイネなどがいる。カールの子供や甥、姪の住むアパートメントの室内装飾の多くはヨーゼフ・ホフマンが手がけており、グスタフ・クリムトには娘たちの肖像画を依頼している。
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