『耳嚢』
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播磨国姫路藩中(現・兵庫県姫路市)に村田弥左衛門という者がおり、16、7歳になる娘がいた。この娘が乱心した者のようにあれこれ口に出し、何かに恨みがあるような発言をしたため、加持祈祷をしたが効果が現れなかった。狐狸の類であろうと考えた弥左衛門は、娘にしきりに尋ねるが、「私が狐狸であろうはずがない」ときっぱり否定された。「娘の祖母が私を情けなく殺した恨みから家を祟るのだ」といい、娘を殺し、血筋を絶やすと口に出した。いかなる恨みかと尋ねると、この家に飼われていた馬だったが、老いたために乗馬の役にも立たず、草を踏むこともできなくなったことを祖母に話され、仕方がないから野に放ち、捨てろと指示され、厩橋の天狗谷という所に捨てられ、ついに餓死してしまったということを語った。役立つ時は愛したのに、役立たなくなった途端に、このような不仁をする、と不満を口にし、そしてこの恨みを報いるのだといった。そこであれこれ利害を説き、追善供養をしたので、娘の病気は治ったという。
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『耳嚢』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
のちに気さくな人柄の南町奉行として江戸の人気者になる根岸鎮衛は、随筆『耳嚢』第2巻で、村正の妖刀伝説を紹介している(根岸自身は「村政」と表記している)。なお、この巻は、佐渡奉行在任中の天明6年(1786年)頃に書かれたようである。 まず、「村正が御当家(徳川家)での使用を禁止されたのは『三河物語』や『三河後風土記』に詳しく、世間にも知られているところだが」と前置きした上で、鎮衛自身は読んだことがないらしく、それらを蔵書に持っている知人からのまた聞きで、前述の#『三河後風土記』の有楽斎の説話を記している。しかし、原本では関ヶ原の戦いの直後(1600年)だったのが、鎮衛の話では難波御陣(1614-1615年)かあるいはそれ以前と曖昧になっており、長孝や勝成は話題に出ず、有楽斎が名称不明の武士の首を家康の前に持参したことになっている。また、有楽斎が村正だと答えた後、家康の「(破棄する)必要は全くない」と言う台詞は省かれて、家来が「村正は御当家に不吉である」と述べて、有楽斎が村正を破棄するシーンに繋がるので、あたかも家康自身が村正禁止を推進したかのような印象を与える。 さらに、「徳川家に仇なす刀」というイメージだけではなく、「御当家昵懇の者に限らず怪我致し候」と、広く災いをもたらす妖刀としての噂話があったことを記している。特に、 村正は正宗の弟子だった。 村正は名工だが性格は狂っていて、刀にもその狂気が乗り移っていた。 村正の末裔は最近まで存続していて、差添(短刀や脇差)、剃刀などを作っていたが、使う者がとかく怪我をするのでそれもやめてしまった。 村正の銘があると買い手に嫌がられるので、ある商人は村正の短刀の銘を正宗に改竄して売ろうとしたが、その妻が突然村正で自殺してしまった。商人は不気味に思って村正を廃棄してしまった。 などという話を載せている。 その上、鎮衛自身がこの噂話を信じていて、佐渡奉行在任中(1784–1787年)、召使いが中古の村正を買おうかどうか鎮衛に見せに来た時、それを見て、極めて見事で出来栄えは好ましいが、祟りがあるから絶対に買うべきではないと念を押して忠告したことを記すなど、周囲に妖刀伝説を広めていた。当時人気を博した『耳嚢』全10巻の中でも第1巻と第2巻は特に筆写されたことが多かったらしく、鎮衛は妖刀伝説の普及に一定の寄与をしたと見られる。
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