剣術
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注釈
出典
- ^ 剣術
- ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、148ページ。
- ^ 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社メチエ、25頁。
- ^ a b c 牧秀彦 2005.
- ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、99ページ。
- ^ 近藤好和『弓矢と刀剣』吉川弘文館、121ページ。
- ^ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永の内乱史研究』講談社学術文庫、75ページ。
- ^ 近藤好和『弓矢と刀剣』平凡社新書、138ページ。
- ^ 五味文彦「現代語訳 吾妻鏡」28ページ
- ^ 得能一男『日本刀図鑑 保存版』光芸出版、23頁
- ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、99ページ
- ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、66ページ
- ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、148・149ページ
- ^ 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社撰書メチエ。
- ^ 「弓・鉄炮・鑓・長刀・皆是武家の道具なれば、いづれも兵法の道也」『五輪書 地之巻』
- ^ 今村嘉雄『図説日本剣豪史』
- ^ 柳生厳長『剣道八講』
- ^ 富永堅吾『剣道五百年史』新當流極意剣図巻、飯篠長威入道門葉方波見正秀が1569年(永禄12年)にその弟子野堂喜六に与えた唯授一人の伝授書
- ^ 今村嘉雄『図説日本剣豪史』による
- ^ 「日豊風雲録」2010年3月 日豊中世歴史研究会
- ^ 是本信義 2003.
- ^ 長尾進「近世・近代における剣術・剣道の変質過程に関する研究-面技の重視と技術の変容-」『明治大学人文科学研究所紀要』第40巻、明治大学人文科学研究所、1996年、251-263頁、ISSN 0543-3894、NAID 120001440160。
- ^ 長尾進「水戸藩における試合剣術に関する一考察-『公覧始末撃剣』の分析を通して-」『明治大学教養論集』第289巻、明治大学教養論集刊行会、1996年3月、1-20頁、ISSN 0389-6005、NAID 120001441184。
- ^ 木下秀明「「撃剣」「剣術」から「剣道」への移行に関する史的考察」『体育學研究』第51巻第1号、社団法人日本体育学会、2006年1月10日、33-48頁、doi:10.5432/jjpehss.51.33、NAID 110004026947。
- ^ 是本信義 2003, p. 112.
- ^ 是本信義 2003, p. 226.
剣術家
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文政12年9月27日(1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。 天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。 安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行う。 安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている。 これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる。 安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった。 同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている。
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