北辰一刀流
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北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)は、江戸時代後期に千葉周作成政(屠龍)が創始した剣術と薙刀術の流派。
- ^ 一般財団法人 水戸東武館 北辰一刀流について
- ^ 北辰一刀流 玄武館 歴史と沿革/人物伝
- ^ 歴史群像シリーズ『日本の剣術』117頁、学習研究社
- ^ 日本古武道協会 北辰一刀流剣術
- ^ “北辰一刀流 本部 公式サイト - 江戸の剣聖千葉周作成政により創始された古流武術 北辰一刀流兵法本部道場の公式サイトです”. 北辰一刀流 本部 公式サイト. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “水戸「東武館」”. www.kurobane.biz. 2023年1月22日閲覧。
- ^ “水戸「東武館」”. www.kurobane.biz. 2023年1月22日閲覧。
- 1 北辰一刀流とは
- 2 北辰一刀流の概要
- 3 概要
- 4 稽古方法
- 5 参考資料
北辰一刀流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:33 UTC 版)
周作5歳のころ、故あって父は周作だけ連れて気仙沼を出奔し、縁あった宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。周作は、ここで地元の剣士・千葉吉之丞から北辰夢想流を学んだ。15,6歳の時に、父と共に松戸に移り、小野派一刀流中西派の浅利義信に入門した。浅利家から、一刀流中西道場に通い、中西子正(浅利義信の師匠)、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、後に浅利義信の婿となって、浅利又一良と名乗った。 所詮竹刀稽古の剣術の為、鎌倉、戦国時代の実践的な剣術と比べると圧倒的に弱く、その為皆伝もしやすい。 周作は、一刀流組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻(浅利の養女)を連れて独立して、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合法して、北辰一刀流を創始した。このことは免状に明記されている。 馬庭念流江戸進出の際、最終的に馬庭念流との決闘をするが、千葉周作は敗北。周作は伊香保神社へ額を奉納する事伊香保神社掲額事件で復讐を試みるが馬庭念流との抗争となり、北辰一刀流は撤退を余儀なくされるが、北辰一刀流と周作の名は上がった。 文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、剣術最大の流派となった。 周作の門下から幕末の重要人物が多数輩出された。主な人物としては、浪士組を作った清河八郎、江戸無血開場の立役者山岡鉄舟、新選組の山南敬助、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、日本最初の独和辞典を刊行した日比谷健次郎などが挙げられる。海保帆平、森要蔵、庄司弁吉、稲垣定之助、塚田孔平らは優れた剣客として名を上げた。 天保10年(1839年)、徳川斉昭の招きを受けて、水戸藩剣術師範となり、12年には馬廻役として100石の扶持を受けた。次男の栄次郎と三男の道三郎もそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。 塚田孔平が、水戸弘道館にて、相澤正志斎、戸田銀次郎、藤田東湖らと親交、天狗党の乱に関ったため、水戸藩では、一時、北辰一刀流を禁止した。 維新後は、千葉栄次郎門下の下江秀太郎が警視庁剣術世話係、水戸の内藤高治、門奈正が大日本武徳会教授となるなど、多くの剣士が活躍して、日本剣道の発展に尽くした。
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