大日本武徳会とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 社会 > 団体 > 団体 > 大日本武徳会の意味・解説 

だいにほん‐ぶとくかい〔‐ブトククワイ〕【大日本武徳会】

読み方:だいにほんぶとくかい

明治28年(1895)平安奠都(てんと)1100年記念し古武道保存奨励目的結成され全国的武術団体第二次大戦解散


大日本武徳会

作者戸部新十郎

収載図書明治剣客伝―日本剣豪
出版社光文社
刊行年月1996.6
シリーズ名光文社文庫


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 09:17 UTC 版)

大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい、旧字体: 大日本武德會)は、戦前の日本において、武道の振興、教育顕彰を目的として活動していた財団法人1895年明治28年)4月17日、京都に公的組織としてに結成された。初代総裁に小松宮彰仁親王皇族陸軍大将)、会長に渡辺千秋京都府知事)、副会長に壬生基修平安神宮宮司)が就任した。同年に第1回の武徳祭と武術大会が行われ、1942年(昭和17年)太平洋戦争のため中止されるまで、恒例の行事として行われた。第二次世界大戦中の1942年昭和17年)からは、武道関係組織を統制する政府外郭団体となった。終戦後の1946年昭和21年)11月9日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令により強制解散処分を受け、1300余名の同会関係者が公職追放された。


注釈

  1. ^ 愛国婦人会では、府県支部長は府県知事夫人、郡支部長は郡長夫人、市町村支部長は市町村長夫人が当たった。
  2. ^ 1939年(昭和14年)12月23日に、国家主導による武道振興を目的として設置、その方策を審議した有識者会議。
  3. ^ 国民の体力に関し調査、審議し、意見を答申した有識者会議。1938年(昭和13年)に厚生大臣諮問機関「国民体力管理制度調査会」(官制:昭和13年[1938年]勅令第741号)を設置、後に国民体力審議会官制(昭和14年[1939年]勅令第497号により先の調査会を廃止、審議会を新設。
  4. ^ 会長・木村篤太郎(全日本剣道連盟会長)、副会長・嘉納履正(全日本柔道連盟会長)、千葉胤次(日本弓道連盟会長)。
  5. ^ 当時の会長・大島功

出典

  1. ^ 月刊剣道日本』1981年12月号 39頁。
  2. ^ 大日本武徳会員之章 - 厚岸町海事記念館、2019年9月19日閲覧。
  3. ^ 昭和21年11月9日内務省令第45号「財団法人大日本武徳会の解散等に関する件」』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2019年9月19日閲覧。
  4. ^ 交詢社 1915.
  5. ^ 時事通信社 1920.
  6. ^ 『空手道:その歴史と技法』嘉手苅、小山、和田, 2020年日本武道館(ベースボールマガジン社)
  7. ^ 月刊武道』2006年7月号に経緯が掲載される。
  8. ^ 小谷澄之ほか 編『嘉納治五郎大系』第1巻 講道館柔道、講道館 監修、本の友社、1988年、303頁「講道館と第日本武徳会との関係について」
  9. ^ 柔道大事典編集委員会 編『柔道大事典』嘉納行光ほか監修、アテネ書房、1999年、「大日本武徳会」の項。ISBN 4871522059
  10. ^ 藤堂良明『学校武道の歴史を辿る』日本武道館、2018年、第13章 大日本武徳会の設立と影響 2 大日本武徳会の柔道。ISBN 978-4-583-11195-7 C0075。
  11. ^ a b 庄子宗光『剣道百年』536-541頁、時事通信社
  12. ^ 月刊剣道日本』2002年4月号 87頁。


「大日本武徳会」の続きの解説一覧

大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/09 01:04 UTC 版)

園部秀雄」の記事における「大日本武徳会」の解説

1899年明治32年)、第4回武徳祭大演武会に唯一女性武道家として出場剣術家渡辺昇異種試合行い圧倒した後述)。 その後夫の運営する道場光武館」で薙刀術教え傍ら姫路師範学校大阪女子師範学校薙刀教師務める。 1918年大正7年)、剣道家高野佐三郎東京神田今川小路修道学院開き、その落成記念大会招かれる東京進出する契機となり、女子学習院指導を行う。 1926年大正15年)、大日本武徳会から薙刀術範士称号授与される1930年昭和5年)、宮中済寧館台覧試合山内禎子と共に直心影流薙刀術の形を演武する。 1936年昭和11年)、薙刀術道場修徳館」を開く。 1963年昭和36年9月19日死去享年93

※この「大日本武徳会」の解説は、「園部秀雄」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「園部秀雄」の記事については、「園部秀雄」の概要を参照ください。


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 07:44 UTC 版)

内藤高治」の記事における「大日本武徳会」の解説

明治32年1899年3月京都に大日本武徳会の本部武徳殿竣工武徳会教授陣強化をはかり、奥村左近太三橋鑑一郎内藤高治佐々木正宜小関教政の5名を指名した内藤武徳会常議員正位からの「ミチノタメキタレ」という電報に魂をゆさぶられ、同年9月東京築いた地盤一切なげうって大日本武徳会本部奉職した。 武術教員養成所(のち武道専門学校改称)の剣道主任教授務め、後の剣道十段持田盛二斎村五郎などを育てた明治34年1901年5月第6回武徳祭大演武会で高野佐三郎対戦し1対1引き分けた審判務めた三橋鑑一郎は、「あとにも先にも、あれ以上の試合見たとがない」と、名勝負後々まで述懐した。 明治44年1911年)、大日本帝国剣道形制定主査委員任じられる剣道の競技化を嫌い、切り返し掛かり稽古基本徹底して指導したこのため昭和天覧試合開催強く反対したが、宮内省官僚西園寺八郎から勅命であると言われやむなく従った。「これで日本剣道滅びた」と嘆じ、開催直前昭和4年1929年4月9日脳出血急死した

※この「大日本武徳会」の解説は、「内藤高治」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「内藤高治」の記事については、「内藤高治」の概要を参照ください。


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:12 UTC 版)

高橋赳太郎」の記事における「大日本武徳会」の解説

1896年明治29年)、大日本武徳会から当時最高の表彰である精錬証授与される1911年明治44年)、高野川崎と共に大日本帝国剣道形制定委員選ばれる1919年大正8年)、大日本武徳会から剣道範士号を授与される1924年大正13年)、宮内省皇宮警察部主催の済寧館台覧試合門奈正対戦する互いに一度も技を出せず、引き分けとなった。技を超えた達人同士試合評される1929年昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会審判員務める。 1940年昭和15年)、死去享年81

※この「大日本武徳会」の解説は、「高橋赳太郎」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「高橋赳太郎」の記事については、「高橋赳太郎」の概要を参照ください。


(現)大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:42 UTC 版)

剣道の段級位制」の記事における「(現)大日本武徳会」の解説

(現)大日本武徳会は、十段位を制定している。

※この「(現)大日本武徳会」の解説は、「剣道の段級位制」の解説の一部です。
「(現)大日本武徳会」を含む「剣道の段級位制」の記事については、「剣道の段級位制」の概要を参照ください。


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:44 UTC 版)

剣道」の記事における「大日本武徳会」の解説

明治28年1895年)、平安遷都1100年記念日清戦争勝利によって日本武術奨励気運高まり、大日本武徳会が結成された。総裁小松宮彰仁親王皇族陸軍大将)、会長渡辺千秋京都府知事)、副会長壬生基修平安神宮宮司)が就任した同年第1回武徳祭大演武会(現在の全日本剣道演武大会)が開かれ優秀な剣術家精錬証授与された。 大日本武徳会は、流派超越した統合組織として毎年の大演武会の開催、各府県支部設立武徳殿造営武術教員養成所(後の武道専門学校)の設立段位称号範士教士錬士)の授与試合審判規則制定など、現在まで続く剣道制度確立し太平洋戦争敗戦まで剣道総本山役割果たした

※この「大日本武徳会」の解説は、「剣道」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「剣道」の記事については、「剣道」の概要を参照ください。


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:42 UTC 版)

柴江運八郎」の記事における「大日本武徳会」の解説

その後長崎県東彼杵郡帰郷し剣術指導する1897年明治30年)、大日本武徳会から精錬証を、1903年明治36年)、第1回剣道範士号を授与される1906年明治39年)、渡辺昇らと協議して大日本武徳会剣術形制定1911年明治44年)、大日本帝国剣道形制定委員選ばれる

※この「大日本武徳会」の解説は、「柴江運八郎」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「柴江運八郎」の記事については、「柴江運八郎」の概要を参照ください。


大日本武徳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:36 UTC 版)

井上平太」の記事における「大日本武徳会」の解説

1899年明治32年5月、大日本武徳会の武徳祭に馬術演武指導招かれたという。1921年大正10年5月武徳祭大演武剣道高齢者の部に73歳出場し神道無念流坂部小郎63歳対戦する。このとき防具を身に着け試合臨み周囲驚かせた。素面小手試合出場した心境はついに語らなかったという。1922年大正11年)、禅僧澤木興道大徹堂坐禅修行した

※この「大日本武徳会」の解説は、「井上平太」の解説の一部です。
「大日本武徳会」を含む「井上平太」の記事については、「井上平太」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大日本武徳会」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



大日本武徳会と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大日本武徳会」の関連用語

大日本武徳会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大日本武徳会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大日本武徳会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの園部秀雄 (改訂履歴)、内藤高治 (改訂履歴)、高橋赳太郎 (改訂履歴)、剣道の段級位制 (改訂履歴)、剣道 (改訂履歴)、柴江運八郎 (改訂履歴)、井上平太 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS