小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 04:50 UTC 版)
彰仁親王(あきひとしんのう)は、伏見宮邦家親王の第8王子として弘化3年(1846年)に誕生。弘化5年(1848年)仁和寺御室を継ぎ、仁孝天皇の猶子となる。まもなく、出家して、楞厳定院御室・純仁と称し、一品に叙せられる。元治元年(1864年)、一身阿闍梨、勅会伝法灌頂を受けた。仁和寺門跡30世となったが、慶応2年(1867年)、勅命により復飾(還俗)した。 1883年(明治16年)には、仁和寺の復興のために仁和会を創立して総裁となった。また、日本赤十字社、大日本水産会、大日本武徳会、高野山興隆会などの総裁に就任した。久邇宮朝彦親王は兄、北白川宮能久親王は弟にあたる。王政復古にあたっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。 1870年(明治3年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷にちなんで小松宮に改称した。彰仁親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。1887年(明治20年)陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。 その他、経歴の一つとして、蝦夷地(北海道)の“開拓”に清水谷侍従と共に関わっている。この事の詳細は、公文書として『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達』に記述されている。彰仁親王の妃は、筑後久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。頼子も日本赤十字社では夫にならい、婦人会を設立した。日露戦争では、篤志婦人会総裁として活躍した。 彰仁親王には子女がなく、当初、弟の宮定麿王を養嗣子としていたが、1903年(明治36年)に定麿王が依仁親王として新たに東伏見宮家を創設。彰仁親王は1903年(明治36年)2月に薨去し、国葬とされた。1912年(明治45年)3月、上野恩賜公園内に銅像が建てられた。
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