清河八郎
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清河 八郎(きよかわ はちろう、文政13年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、自らも虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。
注
出典
- ^ a b “「元気・まちネット」踏査同行記(1)出身地・清川を訪ねて”. 山形新聞 (2009年9月28日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ “「元気・まちネット」踏査同行記(2)“実像”伝える肖像画”. 山形新聞 (2009年9月29日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ “「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(上)文武の修業”. 山形新聞 (2010年12月14日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ 発行者・官英志『県の達人 111人データファイル』2002年、192頁。
- ^ “「元気・まちネット」踏査同行記(4)湯田川温泉”. 山形新聞 (2009年10月1日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ “「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(中)江戸で三度開塾”. 山形新聞 (2010年12月15日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ a b “「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(下)逃亡から浪士組結成へ”. 山形新聞 (2010年12月16日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ “「元気・まちネット」踏査後半同行記(5) 上山”. 山形新聞 (2010年6月27日). 2011年3月26日閲覧。
- ^ 『女士道』 - 国立国会図書館
- ^ 『女士道』第1回(11)清河八郎の首級を處分したる模様 20-21ページ
- ^ 女士道 冒頭
- ^ a b 『新編庄内人名辞典』263頁。
- ^ 『泥舟遺稿』
- ^ a b c 『史談会速記録』
- ^ 『清河八郎』大川周明著 昭和18年。
- 1 清河八郎とは
- 2 清河八郎の概要
- 3 清河神社・清河八郎記念館
清河八郎
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「アサギロ 〜浅葱狼〜」の記事における「清河八郎」の解説
沖田に助けを求め出会い、「虎尾の会」に沖田を誘い出そうとした男であり、北辰一刀流免許皆伝。中々の策略家であり、山岡鉄舟らを操り、壬生浪士組を乗っ取ろうとした男でもある。しかし、そんな清河の最後は、かつて恐れていた通称「一の男」山口一改め、斎藤一に、佐々木只三郎の前で刺され、呆気ない最後を遂げた。
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清河八郎(きよかわ はちろう)
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「SIDOOH/士道」の記事における「清河八郎(きよかわ はちろう)」の解説
浪士組の浪士取締役。庄内藩士。1863(文久3)年2月4日、江戸小石川の伝通院で尊皇攘夷を唱える諸国浪士達のテロに手を焼いていた幕府が献策を利用した人物。それは江戸で集めた浪士を京に送り込み不適浪士を制するもの。そして3月に上洛する将軍家茂の警護。人数50名手当て50両の募集について集まったのは300余名で、結局手当てを一人10両とし200余名が残った。同年2月8日、浪士組を率いて京都へと江戸を発った。しかし、朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した為、近藤ら一部が脱退してしまう。
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清河八郎
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北辰一刀流の剣士で竜馬の同門。文武両道で、学問と剣術を一人で教える清河塾を開設後、「佐幕の兵」という名目で実際は尊王攘夷の兵として浪士組を結成。結果的には新撰組の創始者となる。
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清河八郎(きよかわ はちろう)
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「新選組藤堂平助」の記事における「清河八郎(きよかわ はちろう)」の解説
倒幕の決意を秘めた尊攘志士。浪士組を結成し盟主となる。同門の平助とは伊東を介して知り合う。江戸にいる時から交流を持ち、平助を京に誘う。上洛後に袂を分かった平助に「いつか土方たちを裏切る日が来る」という予言を残し、不吉な影を落とす。
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清河八郎
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出羽国庄内藩出身の郷士。北辰一刀流の千葉道場で免許皆伝を得、昌平黌で学問を修めた後に神田於玉ヶ池で塾を開き、文武・弁才・方略すべてに優れる稀代の才人として広く知られた。将軍家茂の上洛に際して過激志士の横行を危惧していていた幕府に浪士による将軍護衛部隊の創設を上申し、自らが首班となる浪士組を結成する。
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清河八郎(きよかわ はちろう)
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「AZUMI (漫画)」の記事における「清河八郎(きよかわ はちろう)」の解説
浪士組の指導者。圭次郎が心酔していた人物。松平春嶽の内意を受けた三井が清河八郎の暗殺を決定したとき、猪一が志願して斬りにいったが、清河に返り討ちにされた。猪一の仇を討つためにも清河を自分で討つことにしたあずみは、清河を騙し討ちにしようとしていた佐々木只三郎を気絶させるとともに、清河に勝負を申し込んだ。清河は北辰一刀流の免許皆伝の剣豪であったが、あずみの敵ではなく、一瞬で喉と後ろ首を斬られて絶命した。佐々木たちの騙し討ち計画が成功したかのような切り口になっており、あずみは意識を取り戻して駆けつけてきた佐々木たちに手柄を譲って去っていった。
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清河八郎
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千葉周作門下の北辰一刀流剣術の達人。物語冒頭で万二郎と対決する。幕末きっての策士でありお玉が池に清河塾を開き、やがて浪士組を結成して上京する。
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