尼子経久(あまご つねひさ) 1458~1541
◇父:尼子刑部少輔清定 室:吉川伊豆守経基女 子:尼子政久、国久、興久
出雲守護代尼子氏当主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。
尼子経久
尼子経久(あまご つねひさ)
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「毛利元就 誓いの三矢」の記事における「尼子経久(あまご つねひさ)」の解説
尼子家当主。山陰の有力大名。11ヶ国(石見・出雲・伯耆・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨・隠岐・因幡)の太守と呼ばれた。
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