一胴七度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 08:51 UTC 版)
一胴七度(いちのどうしちど)は、戦国時代伊勢国桑名(後の三重県桑名市)の刀工・千子村正作の打刀。関白豊臣秀次の愛刀[1][2]。
注釈
- ^ この截断銘が(後世の試刀家のではなく)秀次自身によるとするのは、福永酔剣[1]および田畑徳鴦[2]に拠った。この種の截断銘が最も流行るのは江戸初期の試刀家の山野加右衛門永久の時代から[3]だが、それより前に永久の師である中川左平太重良が試し斬りによる截断銘を創始したとも言われ[3](谷衛友弟子だから秀次と近い世代か)、また偽銘研究・試斬史研究で知られる福永酔剣は、表銘の真贋を特に問題視していない[1]。
- ^ 今村長賀の鑑定の原文「弐尺三寸三分半/表ノ方地に延アリ/ボウシ返り下所に九(く)る(きす?)/は前に乱の谷臨ト欠出シタリ/ムネヲスル/ウラニ前關白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之ト金象眼アリ/表に一胴七度ト金象眼入」(二尺三寸三分半/表の方地沸あり/鋩子返り下所に来る(疵?)/刃先に乱れの谷のぞむと駆け出したり/棟を磨る/裏に「前関白秀次公ヨリ武藤長門守拝領之」と金象嵌あり/表に「一胴七度」と金象嵌入り)」
出典
- ^ a b c 福永 1970.
- ^ a b c d e f g 田畑 1989, pp. 552–553.
- ^ a b 小笠原 1969, p. 136.
- ^ a b 今村 1927, 13丁ウ(当該箇所へのリンク)
- ^ a b c 太田 1943, p. 47(当該箇所へのリンク)
- ^ 福永 1993, 2巻, pp. 117–119.
- ^ 福永 1993, 1巻, p. 90.
- ^ 水心子 1926, pp. 63–64(当該箇所へのリンク)
- ^ 西日本新聞 2013.
- ^ a b 小和田 2002, 5章4節.
- ^ 小瀬 1646, 第22巻(当該箇所へのリンク)
- ^ a b c d e 太田 1943, pp. 78–79(当該箇所へのリンク)
- ^ 小和田 2002, 6章1節.
- ^ 京橋経済新聞 2017.
- ^ 根岸 & 鈴木棠三(編注) 1972, p. 387.
- ^ 根岸 & 鈴木棠三(編注) 1972, pp. 118–119.
- ^ a b c 徳島県立文書館 2017.
一胴七度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
詳細は「一胴七度」を参照 一胴七度(いちのどうしちど)は、村正の作になる打刀で、関白豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)の愛刀と伝わる。今村長賀『今村押形』所載。秀次自らがこの村正を振るい、難度の高い「一の胴」の部位(江戸時代後期の「乳割」の部位)での人体一刀両断の試し斬りを七回も成功させたことから、表に金象嵌で「一胴七度」の銘が施された。秀次切腹後、執政の武藤長門守(秀次の側室おさなの方の父)が拝領したので、秀次を偲んだ長門守によって裏に所持銘「前關白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之」(前関白秀次公より武藤長門守、これを拝領す)が金象嵌で施された。
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