天文の乱とは? わかりやすく解説

天文の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 23:52 UTC 版)

天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、伊達氏当主・伊達稙宗嫡男晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。


注釈

  1. ^ 小林清治は、当時の伊達領の範囲を『棟役日記』に記載された陸奥の伊達信夫刈田柴田名取伊具宇多の各郡と出羽の長井郡および、『段銭古帳』で追加された志田郡松山庄・宮城郡の高城保・黒川郡の大松沢・行方郡の草野までと推定している。ただし、『段銭古帳』には懸田俊宗の所領である伊達郡懸田・川俣などが含まれていないことから、伊達氏はこれら各郡庄の郷村を全面的に領有し得たわけではなかったとしている[1]

出典

  1. ^ 『福島県史』 第一、1969年、810-811頁。 
  2. ^ 長谷川 2019, pp. 104–117.
  3. ^ 長谷川 2019, pp. 124–125.
  4. ^ 黒嶋 2019, pp. 69・89.
  5. ^ 黒嶋 2019, pp. 79–90.


「天文の乱」の続きの解説一覧

天文の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 18:44 UTC 版)

大崎義宣」の記事における「天文の乱」の解説

天文11年1542年6月、稙宗・晴宗父子が争う天文の乱が始ると、義宣は実父の稙宗にくみしたが、義父義直は晴宗側に立った天文12年1543年5月までに宮城郡南部国分領に入り国分宿敵である留守氏対抗した6月16日に義宣は、名取郡高館福田玄蕃留守氏属す村岡助に、稙宗に味方したことを認め励ます書状送った留守氏家臣切り崩しかかったということである。7月12日には稙宗が、義宣が軍事行動起こしたことを名取郡秋保則盛に伝え刈田郡柴田郡計略相談するよう指示する書状送った。稙宗は13日には柿沼広永にも同趣旨の書を送った8月10日に稙宗は山岸宗成と山岸勝定にも同趣旨の書状送り戦闘状態が続いていたことが知られる。そして9月12日には支倉忠常の本拠である柴田郡長谷倉におり、少なくとも翌年1月までその地に在陣した大崎領から南に離れた伊達勢力圏北東部で、稙宗党をまとめるべく活動したようである。 義宣は大崎領内では東端にあたる不動堂拠点とし、天文13年1544年)に攻め寄せてきた大崎義直の軍と対陣した不動堂には天文16年17年1547年1548年)にも義直軍が寄せてきた。結局大崎領の中で義宣はほとんど足場築けなかったようである

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「天文の乱」を含む「大崎義宣」の記事については、「大崎義宣」の概要を参照ください。

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