クーデター計画とは? わかりやすく解説

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クーデター計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「クーデター計画」の解説

ポツダム宣言受諾方針決定したものの、伝達され宣言の内容では天皇の地位については不明確であったので、8月10日日本政府は「天皇統治大権変更する要求含まれていないという了解の下に受諾する」という回答を連合国通知している。日本側の通知に対して連合国から8月12日に「バーンズ回答」がなされたが、その回答は「降伏の時より、天皇及び日本国政府国家統治権限降伏条項実施の為其の必要と認む処置執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった外務省は"subject to"を「制限の下に置かれる」だと緩め解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と訳して阿南伝えた陸軍青年将校国体護持は危ういと考えて阿南に「ポツダム宣言受諾阻止すべきです。もし阻止できなければ大臣切腹すべきです」と詰め寄ったが、阿南は口を真一文字に結んだまま何も言わなかったという。 8月12日夕方阿南久々に三鷹市下連雀にあった私邸帰った阿南終戦となれば自決しようと決意しており、家族別れを告げるための帰宅であったが、家族団欒というわけにもいかず、阿南帰宅して早々に外相松岡洋右訪問してきた。松岡陸軍青年将校たちから要請され徹底抗戦のための自分首班とする軍事政権樹立提案をしたが、阿南拒否している。その後陸軍省軍務局青年将校2人来訪し阿南ポツダム宣言受諾反対説いた阿南夜中まで青年将校付き合い家族語り合う暇もなかった。翌8月13日未明には護衛をつれた元首相東條来訪した東條が来たときには既に阿南就寝しており、応対した女中その旨伝えられる黙って帰った女中から東條が来たと聞いた綾子慌てて東條追いかけて、ようやく三鷹駅辺り追いつき自宅に来るように言ったが、東條は「阿南さんがお休みになっているならよろしいですと言ってそのまま帰ってしまった。東條は、自分松岡青年将校らから担ぎ出されてクーデター計画に賛成していると阿南誤解されないように、自分は「承詔必謹」を貫くと阿南直接伝え、また全陸軍がそうあるべきであると説きに来たのであるが、東條帰宅する家族に「阿南はきっとわかってくれる」と話したという。 阿南8月13日参内し先日の「陸軍大臣布告」について昭和天皇説明した昭和天皇無断布告作成した青年将校処罰要求したが、阿南としては珍しく「若い将校はあんなものなのです。軍はあれでよいのです」と反論し青年将校擁護したこのあと阿南国体護持天皇の地位存続について懸念持っている直接訴えたが、天皇かすかに笑み浮かべながら、いつものように阿南に「あなん」と呼びかけると、「心配してくれるのは嬉しいが、もう心配するな、朕には確証がある」と答えている。阿南天皇「確証」と言う言葉聞いて安心することはできなかった。 明確な昭和天皇意思表示があったにも関わらず13日朝9時から開始され最高戦争指導会議紛糾した阿南梅津豊田は、連合国神聖な天皇の地位確実に保障されるよう再照会をかけるべきで、場合によっては死中に活を求めて一戦条件を少しでも有利にすべきとの主張をしたが、東郷は再照会交渉決裂意味する断固反対し、米内苛立たしげに「もう決定済みではないか。それをいまさら蒸し返すのは、陛下のご意志に逆らうことになる」と言い放った両者の話を聞いていた首相鈴木は「軍部はどうも、回答言語解釈際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力ひっくり返そうとしているように思えます」と阿南らを非難し阿南敬愛する鈴木叱責もあってすっかりと気落ちしてしまった。 最高戦争指導会議では結論出ず午後3時から開始され閣議議論持ち越された。気落ちしていた阿南であったが、閣議でも「連合国明確な回答与えなければ決戦やむなし」とする再照会主張し安倍源基内務大臣松阪廣政司法大臣阿南賛成したが、他の12名の閣僚東郷即時受諾論を支持した一通り閣僚意見聞いた鈴木は「再三再四回答文を読んだが、アメリカ悪意書いたものではないことがわかった」「陛下この際和平停戦せよとのことであり、よって無条件受諾すべきである」と自分意見述べたのち、「本日閣議ありのまま申し上げ明日午後に聖断仰ぎ奉る所存であります」と再び昭和天皇聖断委ねることとした。 陸軍青年将校クーデター計画しているという噂は鈴木の耳にも届いており、阿南青年将校たちの圧力屈して陸軍大臣辞任する懸念もあり、鈴木東郷結論急いでいた。阿南そのこと察知しており、陸軍一触即発状況にあった阿南閣議のあと、意を決して総理室に向かい鈴木面談申し出た鈴木快く迎えたが、阿南が「総理御前会議をひらくまで、もう2日待っていただけませんか」と要請してきたのに対して、「時期は今です。この機会はずしてはなりません。どうかあしからず」と毅然として拒絶している。阿南はさらに何か言おうとしたが、諦めたという表情で、慇懃な態度邪魔したことを詫びて総理室を去った一緒にいた小林堯太軍医大尉鈴木に「総理待てものなら待ってあげてはどうですか」と言ったが、鈴木は「時機を逸せば、ソビエト軍北海道まで侵攻してきてドイツのように分割されてしまう」と断った阿南心中察した小林は「阿南さんは死にますね」と言うと鈴木は眼を伏せながら「うむ、気の毒だが」とつぶやいたという。 陸軍軍務局幕僚中心とする強硬派青年将校は、11日頃から和平派閣僚逮捕近衛師団用いて宮城占拠するクーデター計画を練っていた。13日閣議から帰ってきた阿南は、首謀者軍事課荒尾らからこの計画書を見せられたが、ついに来るべきものが来たという思い何回見直した。しかし、計画賛成とも反対とも言うことはなかった。荒尾らは懸命に阿南説得しようとしたが、阿南は「天皇意志反してはならぬ」として煮え切らない態度終始したので、なおも荒尾らは熱心に説き阿南首謀者のなかに義弟竹下中佐や、ほかにも井田正孝中佐椎崎二郎中佐畑中健二少佐など、日頃から信頼している者が多かったこともあって、最後に譲歩して参謀総長梅津とも協議して結論を出すと荒尾らに約束した。しかし、指揮官的な立場荒尾には「クーデター訴えては、国民協力はえられない、本土決戦など至難のことだろう」と真意漏らしている。 陸軍強硬派青年将校たちの不満は海軍米内にも向けられており、「海軍腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣身辺安全だと思うな」という脅迫嫌がらせかわからないよう流言阿南の耳にも届いていた。そこで阿南東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐米内身辺警護命じたが、海軍の中では「憲兵護衛断れ、あの牧羊犬がいつ化けるかわからない」という申し伝えがあるほど憲兵信用しておらず、米内はこの申し出断っている。

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クーデター計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)

ベニート・ムッソリーニ」の記事における「クーデター計画」の解説

詳細は「ファシスト・イタリア体制終焉イタリア語版)」を参照 思慮浅く愚かですらあったベルギー出身王太子妃マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョによる陰謀含めて多く無意味無力な休戦計画練られたが、実際に実行力伴ったものは二つしかなかった。国家ファシスト党休戦派による計画と、陸軍国王による計画である。彼らは「ムッソリーニ独裁返上」と「イタリア単独講和支持する」という点では一致していたが、その動機は全く違っていた。 国家ファシスト党休戦派はイタロ・バルボに次ぐ親英派ファシストであったコーポラティズム評議会議長ディーノ・グランディ積極的に動き王党派とも連絡取って休戦計画一本化図っている。他に外務大臣ガレアッツォ・チャーノ元文大臣ジュゼッペ・ボッタイチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキイタリア語版議員ファシスト党の親英派・反独派が主に同調した。彼らはドイツ主導戦争反対していたのであり、ファシズム運動から離脱する考えはなかった。例外的にグランディファシスト党政権廃止やむなしとしていたが、それでもムッソリーニ個人への忠誠心揺らいでいなかった。動議についてムッソリーニ統治権返上することで、サヴォイア家戦争責任について全面的に参与せざるを得ない状態にすることが目的であるとも語っている。 サヴォイア家第一次世界大戦教訓からロマノフ家のような末路迎えることを危惧してファシスト党後盾として行動していたが、今やホーエンツォレルン家ハプスブルク家のような失脚に至る可能性の方が現実化しており、敗戦による王政廃止恐れていた。軍部開戦前からの軍備不足が大戦後期には顕著になり、海軍至って燃料不足敵軍シチリア上陸に対してすら出撃できないであったエマヌエーレ3世1943年1月ムッソリーニ自身宰相から勇退させることを検討し始めハスキー作戦後の同年7月宮内大臣アックァローネへそのこと告げている。ムッソリーニ並んで統帥権大元帥)を持つエマヌエーレ3世が、ハスキー作戦前の時点で「ドイツとの同盟破棄検討すべき」とする覚書残していることも背景となり、軍部連合国との休戦動いた実務的にはヴィットーリオ・アンブロジオ統合参謀本部総長とジュゼッペ・カステラーノ(英語版統合参謀本部次長進めたが、後盾としてピエトロ・バドリオ元帥エミーリオ・デ・ボーノ元帥、エンリコ・カヴィグリア(イタリア語版元帥陸軍長老達が関与していた。サヴォイア家軍部クーデター後民政移管ではなく軍事独裁予定し依然として影響力を持つであろうムッソリーニ身柄拘束する意向持っていた。一方で実直なムッソリーニ気難しい性格であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から信頼得た数少ない人物であり、諸外国でもドイツアドルフ・ヒトラーイギリスチャーチルからも交渉値する人物見られていた。こうした点からムッソリーニ退任させることはむしろ混乱拡大させる可能性高く引き続きムッソリーニ指導者に連合国との休戦ドイツの対ソ講和働きかけるべきとの意見根強くフェルトレでの独伊会談まで慎重に検討続けていた。 軍部国家ファシスト党の親独派であるロベルト・ファリナッチ党書記長ウーゴ・カヴァッレーロ陸軍元帥らは継戦向けた別の計画準備しており、情勢混沌としていた。 ともかくもグランディ議院議長ファシズム大評議会ムッソリーニ独裁返上求め準備始めたが、決議案密かに行われた謀議陰謀などの類ではなく公にされた議案であり、ムッソリーニに対してグランディ別件での会談時に告げている。従ってその気になれば強権発動して大評議会招集拒否することや、反対派粛清することは容易であったとみられるそもそも評議会あくまでも諮問機関であって直接的な法的権限存在せず議決象徴的な意味合いしかなく、さらに召集評議員選出党指導者専権事項だった。ムッソリーニ本当に重要なのはサヴォイア家後見であり、またドイツ連合軍の動向であると考えていた。

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クーデター計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:27 UTC 版)

甲申政変」の記事における「クーデター計画」の解説

1883年6月金玉均自身にとって3回目日本訪問の途についた前回訪日会見した日本政府高官は、朝鮮国王委任状があれば借款応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊帰国に際して大蔵大輔吉田清成かさねてそのこと金玉均伝言していた。 しかし、高宗からあたえられ300万円国債借り入れ委任状持参して来日した金玉均対す日本政府の対応冷たかった300万円当時朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本予算約5,000万円からして巨額なものであったメレンドルフ妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義緊縮財政進めているなか、財政力乏しく政情不安定な朝鮮対しそのような巨額な投資をおこなうべき理由乏しかった金玉均は、日本についで、フランスアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した1884年5月金玉均失意のうちに朝鮮帰国した朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力猛威をふるい、朝鮮国重臣たちはそれに追随し開化派活動はいっそうせばめられていた。清とフランス緊張関係の高まりから、5月遼東半島移駐することとなった呉長慶かわって野心家袁世凱実権掌握し朝鮮王宮彼の挙動左右された。これに危機感覚えた金玉均らは国王高宗動かそう計画した高宗もまた閔氏専横心を痛め朝鮮将来に不安をいだいていたのである1884年6月ベトナム領有意図するフランスベトナムでの宗主権護持ようとする清国との間で清仏戦争勃発した。清越国付近のバクレでの両軍衝突引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国朝鮮駐留軍半数相当する約1,500名を内地移駐させた。独立党は、これを好機とらえた日本また、壬午軍乱以降無為にすごした失地回復好機とみて清国勢力後退歓迎した井上馨外務卿帰国中の弁理公使竹添進一郎訓令し、10月漢城帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金寄付国王持ち掛ける一方金玉均独立党に近づいた。 金玉均らは11月4日朴泳孝邸宅日本公使館島村久書記官招いて密談おこなった集まったのは、金玉均朴泳孝洪英植徐光範島村の5名であった。そこで金玉均島村クーデタ計画打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行勧めるほどであったという。かれら独立党3つのクーデタ計画案検討し同年12月開催予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティー乗じて実行にうつす案が採用された。金玉均11月7日日本公使館おとずれ、竹添公使クーデタ計画打ち明けそのとき竹添から支援の約束得ている。 金玉均漢城駐在イギリスアメリカ合衆国外交官にもクーデタ計画相談した。かれらは、金玉均のえがく理想共感し清国よりも日本を頼るべきことについても理解示したが、しかし、決行については清国軍事的優位認めて、これに反対した。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容伝えて伺いを立てた。高宗また、清の軍事力考えると不成功に終わるのではないかとの懸念伝えたが、金玉均はこれに食い下がりフランス連動して動けば充分に勝機はあると訴えた高宗は、これを諒とした。 しかし、クーデタ動員できる軍事力といえば日本公使館警備日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊150名と、陸軍戸山学校留学して帰国した10数名朝鮮人士官学生および新式軍隊一部にすぎなかった。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍対抗するのは無謀といってよかった

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