クーデター計画
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ポツダム宣言受諾の方針は決定したものの、伝達された宣言の内容では天皇の地位については不明確であったので、8月10日、日本政府は「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解の下に受諾する」という回答を連合国に通知している。日本側の通知に対して連合国から8月12日に「バーンズ回答」がなされたが、その回答は「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった。外務省は"subject to"を「制限の下に置かれる」だと緩めの解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と訳して阿南に伝えた。陸軍の青年将校は国体の護持は危ういと考えて阿南に「ポツダム宣言の受諾を阻止すべきです。もし阻止できなければ、大臣は切腹すべきです」と詰め寄ったが、阿南は口を真一文字に結んだまま何も言わなかったという。 8月12日の夕方、阿南は久々に三鷹市下連雀にあった私邸に帰った。阿南は終戦となれば自決しようと決意しており、家族に別れを告げるための帰宅であったが、家族団欒というわけにもいかず、阿南が帰宅して早々に元外相の松岡洋右が訪問してきた。松岡は陸軍青年将校たちから要請され、徹底抗戦のための自分を首班とする軍事政権樹立の提案をしたが、阿南は拒否している。その後に陸軍省軍務局の青年将校が2人来訪し、阿南にポツダム宣言受諾反対を説いた。阿南は夜中まで青年将校に付き合い、家族と語り合う暇もなかった。翌8月13日未明には護衛をつれた元首相の東條が来訪した。東條が来たときには既に阿南は就寝しており、応対した女中にその旨伝えられると黙って帰った。女中から東條が来たと聞いた妻綾子が慌てて東條を追いかけて、ようやく三鷹駅辺りで追いつき自宅に来るように言ったが、東條は「阿南さんがお休みになっているならよろしいです」と言ってそのまま帰ってしまった。東條は、自分が松岡や青年将校らから担ぎ出されてクーデター計画に賛成していると阿南に誤解されないように、自分は「承詔必謹」を貫くと阿南に直接伝え、また全陸軍がそうあるべきであると説きに来たのであるが、東條は帰宅すると家族に「阿南はきっとわかってくれる」と話したという。 阿南は8月13日に参内し、先日の「陸軍大臣布告」について昭和天皇に説明した。昭和天皇は無断で布告を作成した青年将校の処罰を要求したが、阿南としては珍しく「若い将校はあんなものなのです。軍はあれでよいのです」と反論し青年将校を擁護した。このあと阿南は国体護持と天皇の地位存続について懸念を持っていると直接訴えたが、天皇はかすかに笑みを浮かべながら、いつものように阿南に「あなん」と呼びかけると、「心配してくれるのは嬉しいが、もう心配するな、朕には確証がある」と答えている。阿南は天皇の「確証」と言う言葉を聞いても安心することはできなかった。 明確な昭和天皇の意思表示があったにも関わらず、13日朝9時から開始された最高戦争指導会議は紛糾した。阿南と梅津と豊田は、連合国に神聖な天皇の地位は確実に保障されるよう再照会をかけるべきで、場合によっては死中に活を求めて一戦し条件を少しでも有利にすべきとの主張をしたが、東郷は再照会は交渉の決裂を意味すると断固反対し、米内は苛立たしげに「もう決定済みではないか。それをいまさら蒸し返すのは、陛下のご意志に逆らうことになる」と言い放った。両者の話を聞いていた首相の鈴木は「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように思えます」と阿南らを非難し、阿南は敬愛する鈴木の叱責もあってすっかりと気落ちしてしまった。 最高戦争指導会議では結論は出ず、午後3時から開始された閣議に議論は持ち越された。気落ちしていた阿南であったが、閣議でも「連合国が明確な回答を与えなければ決戦もやむなし」とする再照会を主張し、安倍源基内務大臣と松阪廣政司法大臣は阿南に賛成したが、他の12名の閣僚は東郷の即時受諾論を支持した。一通り全閣僚の意見を聞いた鈴木は「再三再四、回答文を読んだが、アメリカが悪意で書いたものではないことがわかった」「陛下もこの際和平停戦せよとのことであり、よって無条件で受諾すべきである」と自分の意見を述べたのち、「本日の閣議のありのままを申し上げ、明日午後に聖断を仰ぎ奉る所存であります」と再び昭和天皇の聖断に委ねることとした。 陸軍の青年将校がクーデターを計画しているという噂は鈴木の耳にも届いており、阿南が青年将校たちの圧力に屈して陸軍大臣を辞任する懸念もあり、鈴木と東郷は結論を急いでいた。阿南もそのことは察知しており、陸軍は一触即発の状況にあった。阿南は閣議のあと、意を決して総理室に向かい鈴木に面談を申し出た。鈴木は快く迎えたが、阿南が「総理、御前会議をひらくまで、もう2日待っていただけませんか」と要請してきたのに対して、「時期は今です。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」と毅然として拒絶している。阿南はさらに何か言おうとしたが、諦めたという表情で、慇懃な態度で邪魔したことを詫びて総理室を去った。一緒にいた小林堯太軍医大尉が鈴木に「総理、待てるものなら待ってあげてはどうですか」と言ったが、鈴木は「時機を逸せば、ソビエト軍が北海道まで侵攻してきてドイツのように分割されてしまう」と断った。阿南の心中を察した小林は「阿南さんは死にますね」と言うと、鈴木は眼を伏せながら「うむ、気の毒だが」とつぶやいたという。 陸軍軍務局幕僚を中心とする強硬派青年将校は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画を練っていた。13日の閣議から帰ってきた阿南は、首謀者の軍事課長荒尾らからこの計画書を見せられたが、ついに来るべきものが来たという思いで何回も見直した。しかし、計画に賛成とも反対とも言うことはなかった。荒尾らは懸命に阿南を説得しようとしたが、阿南は「天皇の意志に反してはならぬ」として煮え切らない態度に終始したので、なおも荒尾らは熱心に説き、阿南は首謀者のなかに義弟の竹下中佐や、ほかにも井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐など、日頃から信頼している者が多かったこともあって、最後には譲歩して、参謀総長の梅津とも協議して結論を出すと荒尾らに約束した。しかし、指揮官的な立場の荒尾には「クーデターに訴えては、国民の協力はえられない、本土決戦など至難のことだろう」と真意を漏らしている。 陸軍の強硬派青年将校たちの不満は海軍の米内にも向けられており、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うな」という脅迫か嫌がらせかわからないような流言が阿南の耳にも届いていた。そこで阿南は東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐に米内の身辺警護を命じたが、海軍の中では「憲兵の護衛は断れ、あの牧羊犬がいつ狼に化けるかわからない」という申し伝えがあるほど憲兵を信用しておらず、米内はこの申し出を断っている。
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クーデター計画
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「クーデター計画」の解説
詳細は「ファシスト・イタリア体制の終焉(イタリア語版)」を参照 思慮が浅く愚かですらあったベルギー出身の王太子妃マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョによる陰謀を含めて、多くの無意味で無力な休戦計画が練られたが、実際に実行力を伴ったものは二つしかなかった。国家ファシスト党の休戦派による計画と、陸軍と国王による計画である。彼らは「ムッソリーニの独裁権返上」と「イタリアの単独講和を支持する」という点では一致していたが、その動機は全く違っていた。 国家ファシスト党の休戦派はイタロ・バルボに次ぐ親英派ファシストであったコーポラティズム評議会議長ディーノ・グランディが積極的に動き、王党派とも連絡を取って休戦計画の一本化を図っている。他に外務大臣ガレアッツォ・チャーノ、元文化大臣ジュゼッペ・ボッタイ、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(イタリア語版)議員らファシスト党の親英派・反独派が主に同調した。彼らはドイツ主導の戦争に反対していたのであり、ファシズム運動から離脱する考えはなかった。例外的にグランディはファシスト党政権の廃止もやむなしとしていたが、それでもムッソリーニ個人への忠誠心は揺らいでいなかった。動議についてムッソリーニが統治権を返上することで、サヴォイア家が戦争責任について全面的に参与せざるを得ない状態にすることが目的であるとも語っている。 サヴォイア家は第一次世界大戦の教訓からロマノフ家のような末路を迎えることを危惧してファシスト党の後盾として行動していたが、今やホーエンツォレルン家やハプスブルク家のような失脚に至る可能性の方が現実化しており、敗戦による王政廃止を恐れていた。軍部は開戦前からの軍備不足が大戦後期には顕著になり、海軍に至っては燃料不足で敵軍のシチリア上陸に対してすら出撃できない程であった。エマヌエーレ3世は1943年1月にムッソリーニを自身の宰相から勇退させることを検討し始め、ハスキー作戦後の同年7月に宮内大臣アックァローネへそのことを告げている。ムッソリーニと並んで統帥権(大元帥)を持つエマヌエーレ3世が、ハスキー作戦前の時点で「ドイツとの同盟破棄を検討すべき」とする覚書を残していることも背景となり、軍部は連合国との休戦へ動いた。 実務的にはヴィットーリオ・アンブロジオ統合参謀本部総長とジュゼッペ・カステラーノ(英語版)統合参謀本部次長が進めたが、後盾としてピエトロ・バドリオ元帥、エミーリオ・デ・ボーノ元帥、エンリコ・カヴィグリア(イタリア語版)元帥ら陸軍の長老達が関与していた。サヴォイア家と軍部はクーデター後は民政移管ではなく軍事独裁を予定し、依然として影響力を持つであろうムッソリーニの身柄も拘束する意向を持っていた。一方で実直なムッソリーニは気難しい性格であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から信頼を得た数少ない人物であり、諸外国でもドイツのアドルフ・ヒトラーやイギリスのチャーチルからも交渉に値する人物と見られていた。こうした点からムッソリーニを退任させることはむしろ混乱を拡大させる可能性が高く、引き続きムッソリーニを指導者に連合国との休戦やドイツの対ソ講和を働きかけるべきとの意見も根強く、フェルトレでの独伊会談まで慎重に検討を続けていた。 軍部・国家ファシスト党の親独派であるロベルト・ファリナッチ元党書記長とウーゴ・カヴァッレーロ陸軍元帥らは継戦に向けた別の計画を準備しており、情勢は混沌としていた。 ともかくもグランディ議院議長はファシズム大評議会でムッソリーニの独裁権返上を求める準備を始めたが、決議案は密かに行われた謀議や陰謀などの類ではなく公にされた議案であり、ムッソリーニに対してもグランディが別件での会談時に告げている。従ってその気になれば強権を発動して大評議会の招集を拒否することや、反対派を粛清することは容易であったとみられる。そもそも評議会はあくまでも諮問機関であって直接的な法的権限は存在せず、議決は象徴的な意味合いしかなく、さらに召集や評議員の選出は党指導者の専権事項だった。ムッソリーニは本当に重要なのはサヴォイア家の後見であり、またドイツと連合軍の動向であると考えていた。
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クーデター計画
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1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた。 しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義が緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった。金玉均は、日本についで、フランスやアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した。 1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである。 1884年6月、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた。独立党は、これを好機ととらえた。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた。 金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている。 金玉均は漢城駐在のイギリスとアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた。高宗は、これを諒とした。 しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった。
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