戦争責任について
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近衞は兼ねて1921年(大正10年)の演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。 近衞は『世界文化』に、「手記~平和への努力」を発表し、「支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と主張した。併せて自身が軍部の独走を阻止できなかったことは遺憾である、と釈明した。 しかし近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判されている。親交のあった重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。 また福田和也は、伊藤博文から小泉純一郎までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、そのあまりの無責任さがゆえに近衞に歴代総理の中での最低の評価点を与えている。 政治学者の猪木正道も、近衛と広田弘毅の無責任振りを批判しており、著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している。 朝日新聞において12月20日から『近衛公手記』が11回に渡り掲載された。開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が語られている。これを読んだ昭和天皇は「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている。 元陸軍少尉の山本七平は、「近衛の言い訳」を次のように完全否定した。 しばしば、言われるのが、旧憲法では『第十一条 天皇は陸海軍を統帥す 第十二条 天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む』しかなく、政府はこれにタッチできない、という前提で『統帥権の問題は政府には全然発言権がなく』と近衛は言っている。果たしてそうだろうか。明治憲法には『統帥権』という言葉はない。統帥とは、元来は軍の指揮権であり、いずれの国であれ、これは独立した一機関が持っている。簡単に言えば、首相は勝手に軍を動かすことは出来ない。しかし軍も勝手に動くことは出来ない。というのは少なくとも近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないからである。 具体的に言えば、参謀本部が作戦を立案するのに政府は介入できない。しかしその作戦を実施に移そうとするなら、政府が軍事費を支出しないかぎり不可能である。動員するにも、兵員を輸送するにも、軍需品を調達するにも、すべて予算を内閣が承認し、これを議会が審議して可決しない以上、不可能である。 日華事変で近衛は『不拡大方針』を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。このことを彼自身、どう考えていたのか。政府は予算を通じて統帥部を制御できるし、そうする権限と義務があるとは考えなかったのであろうか。 チャーチルは『戦争責任は戦費を支出した者にある』という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。もちろんこのことは、この権限を持つ政府と議会の責任ということである(中略)。 近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。 — 山本七平『裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか』祥伝社、2004年。
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