ベニート・ムッソリーニ
ベニート・ムッソリーニ
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「アドルフ・ヒトラー」の記事における「ベニート・ムッソリーニ」の解説
同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていたことで知られている。教師出身で豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。同盟国の要人を表彰するべくドイツ鷲勲章(ドイツ鷲騎士団)を自ら創設すると、その最高等級である「ダイヤモンド付ドイツ金鷲大十字勲章」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与している。ハンガリーのホルティ・ミクローシュ、ルーマニアのイオン・アントネスク、フィンランドのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムら他の枢軸国の元首・軍首脳への授与が他の等級に留まっていることとは明らかに対照的である。 こうした熱烈なヒトラーからの親愛とは裏腹にムッソリーニの側はヒトラーを「無学な新参者」と見下している向きがあった。「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をし、また北方人種論や反ユダヤ主義などの人種主義にも嫌悪感を抱いていた。初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評しており、むしろヒトラーと敵対するオーストリアのエンゲルベルト・ドルフースの方に好感情を抱いていた。しかし独伊両国が侵略政策で孤立し始めると急速に接近するようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛に応じるようになった。公式に開かれた独伊首脳会談だけで16回も行われ、歴訪についてもムッソリーニがドイツに一回、ヒトラーがイタリアに二回赴いて行っている。その中でもムッソリーニの第一次ドイツ歴訪でのヒトラーの歓待ぶりは良く知られているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配りを忘れなかった。 ヒトラーの第二次イタリア歴訪ではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊したが、最後に訪れたフィレンツェでヒトラーの古典芸術趣味を知っていたムッソリーニが街中の美術館を全て貸し切りにし、公式行事を全て後回しにしてヒトラーと芸術鑑賞をするというサプライズを用意した。ヒトラーの喜びようは尋常ではなく、ミケランジェロの絵画を陶酔した目で眺め、フィレンツェの街並を一望した時には笑いながら「とうとう、とうとう私はベックリンとフォイエルバッハが分かった!」と叫ぶ有様だった[要文献特定詳細情報]。ムッソリーニは想像を超えるヒトラーの上機嫌さはともかく、どの美術館でも最後に必ず「ボリシェヴィキが到来すれば、この世界全てが破壊される」と同じ台詞を口にするのには呆れた様子だった。ミケランジェロの聖家族を見た後にヒトラーが「ボリシェビキが来れば…」と言いつつ振り返ると、ムッソリーニは「全てが破壊される」と苦笑いしながらドイツ語で答えている。 第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、軍事的に従属するイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も主導権が入れ替わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると立場は完全に逆転した。一方でヒトラーの友情や尊敬の念は変わらず、イタリア社会共和国を建国する際、親独的な姿勢から当初予定されていたロベルト・ファリナッチがムッソリーニを批判する発言をしたことに激怒して決定を撤回している。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡ではなく紛れもない友であった。ムッソリーニがパルチザンに処刑された報告を聞いた際、ヒトラーは激しい動揺を示している。
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ベニート・ムッソリーニ
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「ファシズムの定義」の記事における「ベニート・ムッソリーニ」の解説
詳細は「ファシスト・マニフェスト」、「ザ・ドクトリン・オブ・ファシズム」、および「ベニート・ムッソリーニ」を参照 ベニート・ムッソリーニは以下の発言をした。 自由主義や民主主義は、20世紀が社会主義や自由主義や民主主義の世紀でなければならないとは意味していない。政治的な宣言は過ぎ去っていくが、国家は残る。私たちは、この世紀が権威者の世紀であり、「右」の潮流の世紀であり、ファシストの世紀であると信じる自由がある。もし19世紀が個人の世紀(自由主義は個人主義を暗示する)であったならば、私たちは20世紀は集団化(collective)の世紀であり、そして国家の世紀であると信じる自由がある。 ファシストの国家の概念は、全く包括的なものである。国家の外には人間的または精神的な価値は、存在できないか、僅かしか存在できない。この理解により、ファシズムは全体主義であり、統合された、全ての価値を含むひとつのユニットであるファシストの国家は、ひとりの人間の全ての生命や生活を、演奏し開発し強化する。 ファシズムはひとつの宗教的な概念であり、そこでは人は上位の法との内在的な関係でみられ、個人を超越しようとする客観的な意思を持ち、崇高な社会の意識的な構成要員に引き上げられる。このファシストの体制の宗教的な政治には誰でも存在できるが、例外はファシズムの政府システムや更には思想も同様であると気がつかない僅かなオプチュミストだけである。
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