河州
河州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 03:59 UTC 版)
左宗棠の次の目標は蘭州の西に位置し、甘粛省とチベットの通路であり回民が多く居住している河州(現在の臨夏市)であった。河州は馬占鰲の回民軍によって守られていた。馬占鰲はジャフリーヤではなく現実的なフフィーヤであった。そのため1872年に左宗棠の誘いに応じて投降し、拠点を譲渡して清軍に編入された。そのため河州の回民は左宗棠の回民分散移住政策(洗回)を逃れて、共同体を保つことができた。 河州の回民軍を加えた左宗棠は河西回廊を西に進もうとしたが、左方の安全を確保するために西寧の確保を優先した。西寧には大きな回民の共同体があり、陝西省からの多くの難民を保護していた。3ヶ月の戦いののち、西寧は左軍の指揮官劉錦棠の手に落ち、回民軍の指導者馬桂源は捕えられ、数千人が殺害された。
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