六代目とは? わかりやすく解説

六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:04 UTC 版)

太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の記事における「六代目」の解説

爆走!ラブラブどん子 巨大化しているどん子をよけるゲーム十字ボタンの左か○ボタン(タタコンは面)で走りLRボタン(タタコンはふち)で左右に移動する。どん子に当たるとミスになるが、2回まで許される途中どん子は物を落としてきたり、タックル攻撃してくる。クリア・テクニカル・スピードの3種類のボーナスがある。総合評価全て「恋の(乗り物の名前)」と表記される。全3ステージで最後のステージでは何故か某クラシック(演奏収録されたことはあるが、本作はない)が流れ障害物落雷が加わる。最後まで行くと、どん子がキノコ(おそらくマリオ影響)を吐き出し元に戻る。その後巨大化している時の記憶なくなっているらしいはねつき大会 まきわってグー! 公式サイトミニゲームにもなっている。 開店!イカ焼き屋台 ミニミニゲームわいわい太鼓合戦」(「七代目」にもある)のモード1つ。名前の通りミニゲームより更に簡単な内容のものになっている種類イモ連打キャラの当てカードめくりくす玉割り4つ

※この「六代目」の解説は、「太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の解説の一部です。
「六代目」を含む「太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の記事については、「太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 00:32 UTC 版)

田中傳左衛門」の記事における「六代目」の解説

生年不詳 - 嘉永6年8月10日1853年9月12日)) 五代目門弟といわれる五代目血縁関係不明最初長吉三代目源助四代目佐太郎経て1842年43年頃に六代目傳左衛門襲名江戸後期から幕末貴重な史料・手記芝居囃子日記』を執筆した

※この「六代目」の解説は、「田中傳左衛門」の解説の一部です。
「六代目」を含む「田中傳左衛門」の記事については、「田中傳左衛門」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:43 UTC 版)

鶴澤三二」の記事における「六代目」の解説

鶴澤小熊鶴澤亀助(亀介) ⇒ 三代目鶴澤豊吉五代目鶴澤伝吉 ⇒ 六代目鶴澤三二 五代目鶴澤友次郎門弟。 『増補浄瑠璃大系図によれば西京出身で、幼名小熊といった。初出座等詳らかではないが、『義太夫年表近世篇』では嘉永7年1854年)閏7月博労町いなり境内北の門新席『五天竺』の番付鶴澤小熊とあり、竹本太夫弾いている。この房太夫は後に三代目竹本寿太夫となる人で、同芝居では、二代目津賀太夫竹本山城掾、二代目寿太夫三代目竹本津賀太夫大坂での襲名披露が行われている。同年10月因幡薬師境内箱根霊験躄仇討』「餞別の段」で房太夫三代目竹本寿太夫を弾く。このように竹本山城掾の一座出座していた。 翌安政2年1855年)京四条北大芝居太夫 竹本長登太夫伊賀越道中双六』他にて、小熊鶴澤亀介(亀助)と改名番付には二代目寿太夫三代目竹本津賀太夫、房太夫三代目竹本寿太夫とあることから、一連の山城掾、津賀太夫、寿太夫襲名披露の中で亀助へ改名した安政5年1858年)頃から四代目竹本濱太夫(後の四代目津賀太夫)を弾く。この後長く太夫弾いていたが、濱太夫もう一人を弾くこともあり、慶応2年1866年9月四条道場北の小家三勝 酒屋の段」で初代竹本殿母太夫(後の六代目綱太夫)を弾いている。 師匠二代目鶴澤豊吉(後の五代目鶴澤友次郎)が元治元年1864年12月四条北大芝居素浄瑠璃興行にて二代目豊吉改三代目鶴澤伝吉襲名した後、慶応2年1866年10月四条道場北ノ小家太夫 竹本山城掾『大江山酒吞童子』にて「頼光館の段」を語る豊竹三光斎を弾き、亀介改三代目鶴澤豊吉襲名三代目竹本津太夫(後の七代目太夫)を弾く鶴澤小熊もおり、後に師名の亀助を襲名する以降は、濱太夫ではなく豊竹三光斎を弾いている。 慶応3年1867年6月四条道場芝居木下蔭狭間合戦』の番付にも亀介事三代目鶴澤豊吉とあり、名代 宇治嘉太夫 太夫 六代目竹本染太夫大芝居にての襲名披露が行われた。座組山城掾、五代目太夫三代目津賀太夫、六代目竹本むら太夫(後の六代目政太夫)、三代目竹本津夫…他であり、師匠五代目次郎三味線筆頭となっている。同年以降三代目津賀太夫弾いている。明治改元以降山城掾の一座出座し、『義太夫年表明治篇』では道頓堀竹田芝居での出座確認できる明治5年1872年10月四条道場 宇治嘉太夫芝居にて三代目豊吉改五代目鶴澤伝吉襲名。『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 切」で三代目竹本津賀太夫弾いた。同芝居では小熊改め二代目鶴澤亀助、大筆太夫三代目竹本蟠龍軒等の襲名披露が行われている。六代目鶴澤三二襲名披露不詳だが、『増補浄瑠璃大系図によれば、「後四代目豊吉へ伝吉譲りて其身は元祖大名貰ひ又々改名して(六代目)鶴澤三二と成て出勤致す」とあり、弟弟子鶴澤次郎遅くとも明治6年1874年11月には四代目鶴澤豊吉襲名しており(同月道頓堀竹田芝居伊賀越え乗掛合羽』他に鶴澤豊吉の名前がある)、明治17年1884年4月弟弟子二代目友之助が五代目豊吉を襲名していることから、四代目鶴澤豊吉五代目鶴澤伝吉襲名同年までに行われたことになり、五代目伝吉の六代目鶴澤三二襲名披露も同様となる。 没年等は不詳

※この「六代目」の解説は、「鶴澤三二」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤三二」の記事については、「鶴澤三二」の概要を参照ください。


六代目 (1980年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:17 UTC 版)

リンカーン・コンチネンタル」の記事における「六代目 (1980年)」の解説

リンカーン・タウンカー」および「リンカーン・コンチネンタル・マークVI」も参照 連邦政府燃費基準CAFE)の導入間近に迫っており、1970年代大型車がフォード・モーター・カンパニーにとって財政的な脅威となる可能性があったため、1979年にはフォードマーキュリーのフルサイズセダンの大規模なダウンサイジング英語版)を実施したもう一つ大規模なモデルチェンジでは、リンカーン・コンチネンタル新たに導入されマーク・シリーズとしては初め先代モデルよりも小型化されたコンチネンタルマークVI英語版)のカウンターパートモデルとなったキャデラックに遅れる事3年ダウンサイズしたものの、コンチネンタル再設計によりリンカーンフォード史上最高の前年比燃費向上38%)を達成した車体重量大幅な削減加え4速オーバードライブ・トランスミッションの導入により、リンカーン競合他社凌駕して1979年CAFE評価最悪だったブランドから、販売されているフルサイズ車の中で最も燃費良いブランド転身した当時フォード販売した車の中で最も技術的に進んだ車のひとつである1980年コンチネンタルは、標準的な4速オートマチックオーバードライブトランスミッション、コンピューター制御エンジンマネージメント(EEC-III)付き電子燃料噴射デジタル計器パネル、トリップコンピューター(リアルタイム平均的な燃費走行距離計測)を導入した。この10年の間に、これらの機能多くは他の多くフォードやリンカーン・マーキュリーの車にも採用された。 6代目リンカーン・コンチネンタル1980年のみ販売された。リンカーンのモデルラインの飽和状態解消するため、6代目コンチネンタル1981年リンカーン・タウンカーとして再発売され、実質的に1989年モデルまで続いた1980年ヴェルサイユ英語版)が生産中止6代目コンチネンタルがタウンカーとなった後、コンチネンタルの名称は1982年モデルからミッドサイズセグメントを担う様変更された(コンチネンタル1981年モデル存在しない)。1982年コンチネンタル正式にヴェルサイユ後継車明言される事はなかったが、キャデラック・セビル対抗馬となったマークVI1983年モデル終了と共に生産終了しマークVII置き換えられた。

※この「六代目 (1980年)」の解説は、「リンカーン・コンチネンタル」の解説の一部です。
「六代目 (1980年)」を含む「リンカーン・コンチネンタル」の記事については、「リンカーン・コンチネンタル」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:36 UTC 版)

鶴澤伝吉」の記事における「六代目」の解説

詳細不明京都鳥辺山本寿寺に「六代目鶴澤傳吉」の墓碑がある。墓碑右側面には「明治三十六年四月建立」とある。七代目伝吉没年である明治32年1899年)よりも後にこの六代目伝吉墓碑建立されており、代数混乱見られる墓碑左側面には「芝村内」と彫られている。

※この「六代目」の解説は、「鶴澤伝吉」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤伝吉」の記事については、「鶴澤伝吉」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 05:56 UTC 版)

竹沢弥七」の記事における「六代目」の解説

六代目 竹澤 彌七生没年不詳) はじめ五代目門下瀧澤一、のち竹澤経て文久2年1862年)に六代目を襲名

※この「六代目」の解説は、「竹沢弥七」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹沢弥七」の記事については、「竹沢弥七」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:04 UTC 版)

竹本紋太夫」の記事における「六代目」の解説

三代目竹本濱太夫 → 六代目竹本紋太夫 四代目三代目竹本綱太夫)の門弟屋号京屋。 『増補浄瑠璃大系図』に「三綱門弟にて師に付添芝居出勤有共委敷は追て調て出すなり、後紋太夫」とある。 嘉永元年1848年刊行見立番付「浄瑠理太夫三味線師第細見記」に「竹本紋太夫故人太夫門人始浜太夫云門(紋)太夫卜改古今古功之達者三都の達もの親仁の人ト称今麻布芋洗坂ニ住」とある。

※この「六代目」の解説は、「竹本紋太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本紋太夫」の記事については、「竹本紋太夫」の概要を参照ください。


六代目(五代目とも)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:04 UTC 版)

竹本濱太夫」の記事における「六代目(五代目とも)」の解説

竹本の子太夫 → 六代目竹本濱太夫五代目とも) → 五代目竹本津太夫 五代目の子息。 五代目竹本津太夫参照

※この「六代目(五代目とも)」の解説は、「竹本濱太夫」の解説の一部です。
「六代目(五代目とも)」を含む「竹本濱太夫」の記事については、「竹本濱太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:06 UTC 版)

竹本むら太夫」の記事における「六代目」の解説

文政7年1824年)?- 明治19年1886年8月5日 竹本太夫竹本阿蘇太夫 → 六代目竹本むら太夫四代目竹本太夫 → 六代目竹本政太夫 竹本山城掾の門弟本名森近慶応2年1866年9月四条道場北の小家博多織 車ノ段」にて阿蘇太夫事六代目竹本むら太夫襲名明治7年1874年2月松島文楽座木下蔭狭間合戦』「駒木山城中の段 切」にてむら太夫四代目竹本太夫襲名。 「四代竹本太夫)ハ始メ園太夫より阿蘇太夫 次ニ六代目むら太夫より 重太夫四代改名 死去ノ頃ニ六世政太夫襲名 一度モ此名跡ニテハ芝居メズ死ス 墓ダケニ六代目政太夫トアル」「六代目竹本政太夫トアル芝居ニテ披露ナク 名跡相続シ直死去セリ 俗名森近」と、豊竹山城少掾書き残しているように、襲名披露や六代目政太夫としての出演歴はなく、襲名直ち死去したことがわかる。 『偲ぶ俤』にも「大阪市天王寺生玉町長圓寺太夫森近 竹本政太夫 晃院法重翁憲禅定門 明治十九八月五日 行年六十二歳」とある。

※この「六代目」の解説は、「竹本むら太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本むら太夫」の記事については、「竹本むら太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 15:55 UTC 版)

竹本織太夫」の記事における「六代目」の解説

詳細六代目竹本織太夫参照昭和50年1975年4月1日 - 大阪市出身当代。「令和の織太夫初代豊竹咲甫太夫六代目竹本織太夫 本名 坪井英雄祖父二代目鶴澤道八大伯父四代目鶴澤清六伯父鶴澤清治、弟は鶴澤清馗、長男二代目豊竹咲甫太夫次男鶴澤清斗、門弟竹本織子太夫がいる。 NHK Eテレの子供向け番組にほんごであそぼ』に、2005年よりレギュラー出演している。 2000年4月より大阪市立高津小学校にて「高津子ども文楽」の“先生”務める。 2018年平成30年八代目竹本綱太夫五十回忌追善摂州合邦辻合邦住家の段で六代目竹本織太夫襲名

※この「六代目」の解説は、「竹本織太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本織太夫」の記事については、「竹本織太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 10:18 UTC 版)

花柳芳次郎」の記事における「六代目」の解説

五代目芳次郎の妹の孫・花柳創右1992年-)。2007年花柳芳次郎 (6代目)襲名2016年五代目花柳壽輔となる。

※この「六代目」の解説は、「花柳芳次郎」の解説の一部です。
「六代目」を含む「花柳芳次郎」の記事については、「花柳芳次郎」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:05 UTC 版)

玉屋庄兵衛」の記事における「六代目」の解説

本名高科正芳。旧尾張藩士の家系生まれ山車前棚人形多く手がけた。昭和5年1930年6月没。

※この「六代目」の解説は、「玉屋庄兵衛」の解説の一部です。
「六代目」を含む「玉屋庄兵衛」の記事については、「玉屋庄兵衛」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:09 UTC 版)

吉住小三郎」の記事における「六代目」の解説

六代目 吉住 小三郎昭和6年1931年11月6日 - 平成18年2006年6月18日東京生まれ五代目長男本名吉住隆雄。昭和29年1954年東京芸術大学邦楽科を卒業の後、昭和31年1956年)に同大学で研究科修了この間昭和30年1955年祖父吉住慈恭学び吉住小三治郎を名乗って同年9月長唄研精会初舞台昭和52年1977年)に長唄十人会結成昭和58年1983年1月父の死去を受けて六代目吉住小三郎襲名翌年長唄協会常任理事就任平成18年2006年)がん性胸膜炎死去作曲に「平賀源内」などがある。

※この「六代目」の解説は、「吉住小三郎」の解説の一部です。
「六代目」を含む「吉住小三郎」の記事については、「吉住小三郎」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 15:22 UTC 版)

竹本氏太夫」の記事における「六代目」の解説

竹本太夫 ⇒ 六代目竹本氏太夫竹本長枝(長恵)太夫 三代目竹本長門太夫門弟。 『増補浄瑠璃大系図』は「伊勢古市竹屋親方と云て有扇屋利兵衛の倅也」と記す。 弘化2年1845年2月道頓堀竹田芝居太夫竹本長登太夫『仮名手本忠臣蔵』で「大序 ヶ岡の段」を語り初舞台。師三代目長門太夫一座しない4月同座太夫竹本氏太夫芝居出座。『箱根霊験躄仇討』「大序」『けいせい倭荘子』「大切 けい事」を語る。 弘化3年1846年8月伊勢歌舞伎年代記』「八月 古市」のに「初世有滝屋事竹本太夫」とあり、伊勢素人大物であったことがわかる。同年見立番付では東前頭。 竹本太夫であるが、先代同門の後に五代目豊竹湊太夫襲名する初代竹本音羽太夫名乗っており(改名録に「理太夫竹本音羽太夫」とある。また通称音羽湊という)、嘉永2年1849年正月道頓堀竹田芝居五代目豊竹湊太夫襲名披露狂言である『由良湊千軒長者』「三荘太夫住家の段」で中を竹本太夫、切を音羽太夫五代目豊竹湊太夫勤めている。 嘉永4年1851年)師三代目長門太夫従い江戸へ下る。5月茅場町薬師境内ひらがな盛衰記』では「笹引の段」を語る。以降三代目長門太夫一座出座する。 嘉永7年安政元年1854年道頓堀竹田芝居太夫竹本長登太夫で『近江源氏先陣館』「木津ノ守の段 口」『明烏六花曙』「揚屋の段 口」を語る。三代目越路太夫旧蔵のこの芝居番付の理太夫の上に「理太夫スゴ六の名人」と記されている。『増補浄瑠璃大系図』にも「此人通称神田利八と云て囲碁東京和先生門人にて五段に進む双六日本名人成りと云也」とある。 天保の改革による宮芝居禁止により稲荷境内立ち退いていた文楽芝居が、安政3年1856年9月いなり社内復帰し、既に文楽座第一櫓下となっていた師三代目長登太夫と共に出座以降文楽芝居出座安政5年1858年正月7月稲荷社内東小家太夫竹本長登太夫義経千本桜』で「嵯峨野庵の段 中」「築地の段 跡」を語るはずであったが、1月5日一説には6日共)「嵯峨野庵の段」の稽古中に出火し芝居小屋類焼したため、芝居行われずその後京で芝居を打つが、7月稲荷社内東小家復帰し、『里見八犬伝』「滝田城の段」を語り、理太夫事六代目竹本氏太夫襲名以降文楽芝居出座。役は端場が立端場が続く。 安政7年万延元年1860年7月稲荷社東芝居『近江源氏先陣館』「四斗兵衛住家の段 中」『苅萱桑門筑紫𨏍』「奥院の段」を六代目氏太夫として語ったのを最後に、続く9月同座より竹本長枝(長恵)太夫改名。『道中亀山噺』「八つ橋の段 中」を竹本恵太夫として語った10月同座番付より竹本長枝太夫となっている。 文久2年1862年正月いなり社内小家大江山酒吞童子』「八瀬里の段 切」で和国太夫二代目竹本音羽太夫襲名が行われ、同段を長枝太夫語っている。 文久4年元治元年1864年10月いなり東小家出世太平記』「松永切腹の段 切」で切場を語る。同芝居で『心中天網島』「新地茶屋の段 中」も語る。 元治2年慶応元年1865年5月いなり東小家で『彦山権現誓助剣』が立ち、長枝太夫は「六助住家の段 中」を語る予定であったが、「須磨の浦の段 奥」を語る三代目竹本津賀太夫休演したため長枝太夫替る予定稽古をしていたが、人形吉川才治から反対があったため、長枝太夫立腹し長枝太夫休演。「須磨の浦の段 奥」「六助住家の段 中」もどちらも二代目越路太夫語り好評博した慶応3年1867年8月14日没。生涯多くを師三代目竹本長門太夫紋下勤めた文楽芝居通した同年8月稲荷社東芝居『大手酒吞童子』「羅生門の段」が最後出座か。翌9月同座ひらかな盛衰記』「梶原屋敷の段 中」『花上野誉碑』「志渡寺の段 次」の番付出ていたが、語ることはなかった。 「役割出し病気にて左程にもなかりし人間命数限り有し急に重り養生不叶終に旧八月十四日黄泉に赴かれたり 西成郡北野村自香寺石碑を建る 慶応三年丁卯八月十四日 法名長誉理照禅定門」と『増補浄瑠璃大系図』にある。

※この「六代目」の解説は、「竹本氏太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本氏太夫」の記事については、「竹本氏太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 08:13 UTC 版)

常磐津文字太夫」の記事における「六代目」の解説

嘉永4年1851年) - 昭和5年1930年2月15日常磐津十四世家元。佐六文中(常磐津十一世家元・六代目小文字太夫・常岡佐六)妻である常岡ツネ養子本名・常岡丑五郎。前名八代目常磐津小文字太夫。後の二代目豊後大掾常磐津浪花太夫名乗っていたが、派内融和訴えた十二代守田勘弥・六代目岸澤式佐推薦によって、佐六文中妻ツネ十三世家元太夫文中)の養子となり、1888年八代目小文字太夫襲名1889年には第一期歌舞伎座において専属起用されることが決まる。九代目市川團十郎により制定され新歌舞伎十八番や活暦物、松羽目物など数多く初演し、常磐津節近代歌舞伎社会定着させた功労者。「音声少々低けれども天晴常磐津純粋の節語り由」「豊後節廻し得も云われぬ妙味」「小音であるが技巧優れていた」など評価高く色気要する段物などを得意とし、小音ではあったが一説では名人林中よりも巧みであったとされる黒田清隆内閣総理大臣招聘に応じて御邸にて仮名手本忠臣蔵七段目一段語ったところ大変喜ばれたという。東京音楽学校(現東京藝術大学)の嘱託となり、初代文字太夫からの出演記録常磐種」の再興常磐津節五線譜化に協力した1926年に甥子九代目小文字太夫七代目文字太夫譲り自身二代目豊後大掾となる。還暦過ぎたころには歌舞伎出勤門弟任せ各種演奏会出演し続け素浄瑠璃としての常磐津節魅力一般社会広く浸透させた。1927年第1次常磐津協会創立時には六代目岸澤古式とともに相談役となり、常磐津家元三味線方岸澤家和睦尽力した掛軸肖像画は、七代目常磐津小文字太夫(のちの初代常磐津林中)の掛軸とともに鏑木清方作。 代表曲:「戻橋」「女鳴神」「三保の松」「大森彦七」「竹生島」「千歳の影」「楠公

※この「六代目」の解説は、「常磐津文字太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「常磐津文字太夫」の記事については、「常磐津文字太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 15:18 UTC 版)

竹本岡太夫」の記事における「六代目」の解説

安政3年1856年2月15日 - 大正7年1918年10月8日豊竹太夫竹本織栄太夫竹本太夫 → 六代目豊竹岡太夫 四代目門弟である六代目竹本綱太夫門弟本名仁木三郎定紋抱き柏隅立て四つ目。 『東京義太夫評判記』には、「十七歳の時より斯道志し明治8年に呂太夫の門に入て、宮太夫称し各所出席、同十年六代目綱太夫門弟となり、三月師と倶に上京。織栄太夫改名翌年八月帰坂し、同十三八月再び上京して太夫となり、同廿一年三月より真打の看牌を揭ぐ」とある。 大阪市西区南堀江出身明治29年1896年9月六代目豊竹岡太夫襲名明治30年1897年神保町 新声館『妹背山婦女庭訓』「吉野川の段 定高」にても襲名披露が行わている。 識太夫時代門弟に識子太夫がおり、後に五代目竹本太夫襲名している。

※この「六代目」の解説は、「竹本岡太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本岡太夫」の記事については、「竹本岡太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 15:10 UTC 版)

鶴澤清七」の記事における「六代目」の解説

嘉永5年7月14日1852年8月28日) - 大正9年1920年7月29日本名前田鹿之助鶴澤勝作 ⇒ 三代目鶴澤綱造 ⇒ 四代目鶴澤右衛門 ⇒ 六代目鶴澤清七 五代目門弟二代目綱造(堂島)の息子本名前田鹿之助嘉永5年1852年7月14日生まれ出生地大阪市北区曽根崎新地2丁目。 「五代清七門弟にて文久二年戌八月文楽芝居にて朝顔話此時初て出座致し夫より続て出勤致せしが明治二年巳五月より退座して東京へ引越彼地に暮す夫より長らく逗留明治十四年帰坂致し直様松島文楽座にて大江山此時より改名出勤す」と『増補浄瑠璃大系図』にある。 文久2年1862年)いなり社内東ノ小家生写朝顔話』他の番付に「鶴澤勝さく」の名がある三味線筆頭初代豊澤團平。筆下に初代豊澤新左衛門。上2枚目に師三代目右衛門がいる。以降文楽芝居出座する。 明治2年1869年)いなり東芝居『伽羅先代萩』他で文楽芝居退座し、東京向かった明治14年1881年正月松島文楽座大江山酒吞童子』他で帰阪し、父の名鶴澤綱造を三代目として名乗る明治19年1886年2月松島文楽座祇園祭礼信仰記』他で三代目綱造改四代目鶴澤右衛門襲名。この時下2枚目に位置している。師三代目右衛門前年五代目清七襲名していた。明治32年1899年引退し、六代目鶴澤清七襲名する四代目五代目、六代目と鶴澤清七名跡一線退いた後に襲名される名跡となっている。六代目清七襲名後は、東京稽古を楽しみ余生送った大正9年1920年7月29日没。享年69歳戒名:道覚智圓信士大阪市北区野崎町蓮華寺子息四代目鶴澤綱造がいるが、綱造のまま生涯終えた為、遺族鶴澤清七名跡当時鶴澤清六家の当主である坪井澤一(二代目鶴澤道八)に預けた

※この「六代目」の解説は、「鶴澤清七」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤清七」の記事については、「鶴澤清七」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:36 UTC 版)

鶴澤豊吉」の記事における「六代目」の解説

鶴澤音次郎 ⇒ 六代目鶴澤豊吉 本名今西音治郎。文久2年1862年12月生まれ明治7年1874年10月堀江芝居太夫竹本四郎番付鶴澤音次郎がいる。翌11月同座では中央の四代目豊吉(七代目伝吉)の右隣となっている。 明治8年1875年1月同座まで番付名がある明治14年1881年6月新町高嶋太夫竹本四郎芝居初代綾瀬太夫相三味線である鶴澤豊造(三味線筆頭)を従え東京に下る。その東京下り音次郎従ったその後東京で六代目鶴澤豊吉襲名した明治27年1894年神田神保町新声館の杮落し公演番付の上2枚目に鶴澤豊吉がいる。筆頭鶴澤豊造。明治28年1895年2月新声館では『伊賀越道中双六』「岡崎の段」で初代綾瀬太夫弾いている。以降も、綾瀬太夫弾いていることが『東京人形浄瑠璃』で確認できる明治41年1908年12月27日没。47歳墓所蒲田大雲寺法名:豊誉鶴林栄信士。 明治33年1900年1月28日70歳没した鶴澤豊造も蒲田大雲寺墓所がある。 鶴澤豊造は三代目清七弟子にして、初代広助(三代目弥七)の門弟豊澤右衛門の倅。初名を鶴澤萬吉という。弘化5年嘉永元年1848年2月道頓堀太夫芝居太夫竹本綱太夫万吉鶴澤豊造を襲名初代綾瀬太夫相三味線で、初代綾瀬太夫従い東京へ下った

※この「六代目」の解説は、「鶴澤豊吉」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤豊吉」の記事については、「鶴澤豊吉」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 14:13 UTC 版)

竹本綱太夫」の記事における「六代目」の解説

天保11年1840年) - 明治16年1883年9月24日竹本小定太夫初代豊竹太夫初代竹本殿母太夫二代目竹本織太夫 → 六代目竹本綱太夫 本名斎藤太市通称左官の綱太夫、織太夫の綱太夫江戸生まれ嘉永4年1851年三代目竹本長門太夫入門し竹本小定太夫名乗る五代目竹本弥太夫著『弥太夫日記』に同年江戸で出座記されている。嘉永6年1853年師長太夫伴われ来阪し、修行をするも、江戸へ戻り太夫辞め左官屋となる。再び太夫となるために、四代目豊竹岡太夫門弟となり、初代豊竹太夫名乗り江戸にて前語り始める。 元治元年1864年)再び来阪し、竹本山城掾(二代目竹本津賀太夫)の門弟となり、初代竹本殿母太夫名乗る。殿母太夫としての初出座は、紋下師匠山城掾が勤め一座同年正月和泉式部北向の素浄瑠璃公演で、「お駒 才三 鈴ヶ森」(『恋娘昔八丈』「鈴ヶ森の段」)を鶴澤清次三味線語っている。鈴ヶ森美声太夫が得意とする語り物であるから、既に美声太夫として売っていたもの思われるこの後、「酒屋」「中将姫」等、綱太夫ゆかりの出し物勤めている。慶応元年1865年3月四条道場北ノ小家にて「お染 久まつ 質店」(『染め模様妹背門松』「質店の段」)、『義臣伝読切講釈』「植木屋の段」の掛け合い弥七勤め信州路より再び江戸へ下る。 慶応2年1866年4月江戸結城座菅原伝授手習鑑』にて、「車引きの段」「佐田村の段 口」を語る竹本織太夫の名が番付にあり、江戸にて二代目竹本織太夫襲名していたことがわかる。この公演結城座米沢町再開公演であり、同公演の他の番付では「所作事 傀儡師手振品玉」にも織太夫の名前がある。 しかし、同年9月四条道場北の小家にて「三勝 酒屋の段」を語る竹本殿母太夫の名があり、上方では殿母太夫での出座となった。翌10月同座大江山酒吞童子』では「保昌屋敷の段」「大切 鬼ヶ城の段」の掛け合い坂田金時勤めている。一方同年11月江戸結城座伽羅先代萩』「御殿の段 口」『粂仙人吉野桜鳴神』を勤め竹本織太夫があり、急ぎ江戸へ下ったのか、そもそも京・大坂の殿母太夫江戸の織太夫同一人物かどうか疑問が残るものの、この公演次の出座は、殿母太夫として、翌慶応3年1867年2月四条道場北ノ小家の『妹背山婦女庭訓』「蝦夷館の段」であり、前年11月江戸で公演からの移動も可能である。 織太夫・綱太夫名跡後継者である八代目太夫著書でんでん虫』にて「慶応初めに二代目太夫をついでおられます」と記している。 2月の京での公演の後は、4月5月名古屋巡業に殿母太夫として参加し5月若宮境内で『鎌倉三代記』「三浦別の段」『嫗山姥』「廓話の段」を語っている。 これ以降義太夫年表 近世篇』では殿母太夫や織太夫出座確認できないことから、全国各地回っていたもの思われる。 『増補浄瑠璃大系図』や『義太夫年表 明治篇によれば明治3年1870年)に西京二代目竹本織太夫襲名し明治5年1872年)に大阪下ったとあり、明治初期には上京していたことや、京・大坂でも二代目竹本織太夫襲名認められたことがわかる。 豊竹山城少掾は「元治二年二月四条南芝居出勤追々評判宜敷 堺ノ芝居ニテ先代萩竹之間ヲ語リ好人各所出勤其後 京都ニ戻ツテ竹本織太夫と再改名ス」と記している。 明治5年1872年9月堀江芝居『仮名手本忠臣蔵』にて大阪出座し、「七段目 一力茶屋場の段」の九太夫と「の井別荘の段」を勤める。この「の井別荘の段」は後に『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷の段」と呼ばれる演目であり、この時が初演である。翌10月西京四条道場 宇治嘉太夫座にても上演している。 この後大阪での出座続け明治6年1873年9月道頓堀竹田芝居にて『佐倉曙義民物語』「牢屋拷問の段」を語り古今絶品ニテ大当リ」と評された。この『佐倉曙』「牢屋」については、二代目豊竹古靱太夫豊竹山城少掾 )が織太夫時代床本買い求めた際に、「その許殿へ候上者出語り及び不申床内にても決し語り間敷候 借主竹本織太夫貸主浅野常次郎殿」との三十両の証文挟み込まれいたそうで、質入れできるほど織太夫の「牢屋」には価値があった。大評判を取る2年前の明治4年1871年)のことである。次に、古靱太夫が六代目綱太夫時代の「牢屋」の床本求めると、「給銀は二杯半」と綱太夫直筆があった。「二杯半」とは「給銀十五割増し(+150%)」とのことである。また、明治9年1876年4月土佐高知へ巡業行った際には「牢屋」を語るにあたり、餘賂(本給銀とは別の別の謝礼金)として三十五両を受けた。その高知小屋木戸通常16銭のところ、20銭、30銭とプレミアム付き、客をすし詰めにしたそうである。六代目綱太夫人気の凄まじさを物語る。 明治7年1874年4月道頓堀竹田芝居『仮名手本忠臣蔵』七段目祇園一力茶屋の段」にて端役亭主の役を割り振られ大い憤慨するも、「離れ座敷へ灯をともせ仲居ども」の「仲居ども」に新し工夫加え特有の仇な美声相まって満場を唸らせ、忽ち評判となり、以後この六代目綱太夫のように語るようになり、今日至っている。確かに茶屋場亭主は軽い役であるが、同公演での織太夫本役は得意の『明烏六つ花曙』「吉原揚屋の段」(明烏)である。 明治8年1875年2月道頓堀竹田芝居『三拾三間堂棟木由来』「平太住家の段 切」を初代豊澤新左衛門三味線二代目竹本織太夫語り復活している。これは『国立劇場上演資料集378〉』の「上演記録によれば文久3年1863年)いなり社内小家卅三間堂棟由来』「平太住家の段 切」を四代目豊竹湊太夫語って以来12年ぶりの上であったキングレコード版八世竹本綱太夫大全集」の解説に「万延元年1860年)に三世豊竹巴太夫(六代目竹本咲太夫)が没すると、この作品(『三十三間堂棟由来』「平太住家の段」)の上演はとぎれてしまう。たまたま明治八年1875年二月大阪竹田芝居で(二代目竹本織太夫(のち六世綱太夫)が語ったところ、大好評博した全身彫り物をしている江戸っ子の織太夫は、すでに「城木屋」や「明烏」で大阪市民をやんやといわせていたが、いままた『卅三間堂』の好演観客沸き立ったようだ。三月京都十一月は再び竹田、翌九年一月大阪天満十月大江橋というように、各地盛んに上演していく。こんにち卅三間堂』が綱太夫といわれるのは、このような事情によるのであろう随所残っている花やかなふし回しが、その片鱗伝えている。」と、倉田喜弘記している。(明治8年1875年2月道頓堀竹田芝居二代目竹本織太夫初代豊澤新左衛門の上演は、三世豊竹巴太夫(六代目竹本咲太夫以来20年ぶりとあるが、前述通り四代目豊竹湊太夫語って以来12年ぶりである) 同様に二代目野澤喜左衛門は、「『三十三間堂棟由来』「平太住家の段」は二代目竹本織太夫時代初代豊澤新左衛門組んで流行させたもので、書きおろされてから長い間廃滅していましたが、法善寺津太夫さんのもう一代前の綱太夫(※六代目)が新左衛門さんとのコンビ流行し出したもので、勇み肌の綱太夫いなせな声の「和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島、三に下り、四に塩釜よ、ヨーイ、ヨーイ、ヨイトナ」と木遣り音頭がうけたそうです。わかの浦の「わか」の所が現在も綱太夫語った通りにナマッて語られますし、また「切り崩され枯柳」も下におとして節尻の音調も、その特色残してます。摂津大掾も綱太夫生きている間は、これは織さんが語り生かされものだから遠慮された程のもので、この話は美談だと思ってます。」と語っており、「」は(六代目)綱太夫場であるというコンセンサスがあることが伺える。 また、六代目綱太夫没後明治41年1908年4月堀江座にて二代目竹本春子太夫二代目豊澤新左衛門と「」を勤めにあたり、六代目綱太夫相三味線勤め、六代目綱太夫愛蔵院本丸本)を所蔵していた八代目竹澤弥七に「」を習い行った際のエピソード当時劇評記されている。「彼れ(二代目竹本春子太夫)は此『』を語るに就て、京都にいる弥七師匠故人太夫相三味線)に交渉し、其結果師の薫陶を受け、熱心に故人太夫の型を学んで一流発展せしめた其功や偉大なりと云うも敢て過言ではあるまい兎に角京都通いをしてまで学んで床にかけると云う溢るるその熱心は実に感服なもので将来斯道大家となるべき余裕はまさにあるのである弥七師匠其の熱心に感じて故人太夫愛蔵院本即ち故人弥七師へ遺物としたる本を贈呈せられたそうで、春子太夫一種の感に打たれて、その遺物院本大切に蔵しているが、斯道に取って虎の巻であろう、絹表紙の綴本でサビれたものだ、有難浄書中々奇麗だ、恐らく当今浄書家も斯程書くこと出来まい。その奥書に『維明治八年乙亥一月上旬、新写之』『竹本織太夫改メ六代目竹本綱太夫四代目竹本織太夫譲受』としてあるから、六代目の綱太夫から四代目の織太夫(註:四代目太夫八代目太夫ではなく堀江座主木津吉兵衛代数外竹本織太夫。)が即ち七代目の織太夫(註:ママ)と改名した時代に写書したのである。尚当時芝居番付附録式に綴ってある。それを一覧するに。 明治八年亥の三月吉日より 京都四条南に於て狂言 三十三間堂竹本織太夫 亥の二月吉日より 竹田芝居にて 切狂言竹本織太夫 明治年子十月 大江橋席にて 中狂言竹本織太夫 としてあるから、此時は未だ太夫であったのである、此時『』は既に十八番となり好評嘖々として遂に後世』は綱太夫物と囃われ歴史付き語物となっているが、要する前記した如く』の語手として名声天下轟きしは即ち織太夫時代で、都合三回の芝居に於て名を揚げし人であるから太夫の綱太夫名家であった相違あるまい茲に誌して読者参考供するのである。さて歴史付き太夫式の『』を語る春子太夫のは前記経歴であるから従来演ずる『やなき』とは其節調が異っているようだ先ずマクラの『妻はー』と云うマワシがすんで『木伐る音やこたへけん』で強く押シ。『お柳身内の』で軽くスカス『潔よい名を上てたも』この『イサギヨイ』で強く腹を聞かし、『たもヤア』の所即ち角太夫節故人太夫にて、この『ヤア』は角太夫発明なり)であるが、春子丈は此の『ヤアゝゝゝゝ』を普通のよりは余程重きを置いて語っている。平太郎も力を籠め充分ハラ語っていたが中々味いがあった。例の信田の古云々陰気語り。『斬り』を渋く崩され枯柳』で軽く後の『何とて形を残すーべーき』の処拍手大喝采、『我が子力草アー』の林清節三味線の譜)の処が最も佳く。和田四郎大舞台にて『眼は何の因果ぞと』の辺りは筒一ぱいの語口、例の木やり音頭で『一に権現、二に玉津島』この津島至極軽妙であったが、段切りになって些し急調になって余裕なく、耳障りのようであったが、是はどう云うものか。要する此の『やなぎ』は大成功大に呼物であった三味線新左衛門撥音さえて、あざやかであった毎時好評であるは目出たしヽヽ(「浪花名物 浄瑠璃雑誌」第67号、明治41年6月)」 明治9年1876年9月大江橋席『夏祭浪花鑑』「九郎兵衛住家の段(田島町団七内の段)」にて六代目竹本綱太夫襲名以来竹本織太夫竹本綱太夫の前名となっている。この九郎兵衛住家の段(団七内の段)は、三代目太夫四代目太夫が得意としてきた綱太夫場である。 襲名にあたり浮世絵師玉園に描かせた摺物襲名披露狂言である『夏祭浪花鑑』「九郎兵衛住家の段(田島町団七内の段)」に因んだ団七縞徳兵衛縞の改名襲名)の挨拶状作成している。摺物には、文楽座紋下五代目竹本春太夫と六代目綱太夫師匠にして大江橋席の紋下竹本山城藤原兼房二代目竹本津賀太夫)が名を寄せている。これは、文楽座大江橋席の双方紋下からのお祝いというよりも、五代目太夫山城掾は四代目竹本綱太夫同門であることから、師名である竹本綱太夫の六代目が、春太夫にとっては甥弟子山城掾にとっては直弟子から誕生したことを祝ってのことである。 四代目竹本長門太夫は『増補浄瑠璃大系図』の六代目綱太夫に「初代太夫播磨少掾門弟初代太夫系譜の続の熊綱太夫より飴屋太夫三代なり四代吉兵衛太夫五代隼人太夫六代太市太夫是を号て綱太夫内と云なり」と記しており、竹本綱太夫名跡には芸統に混乱がなく、一門のみにて継承されてきたことを「綱太夫内」という言葉表現している。 同年11月道頓堀弁天座、初代鶴澤清六引退披露狂言義経千本桜』「花種吉野山の段」が五代目竹本春太夫初代豊澤團平、六代目竹本綱太夫初代豊澤新左衛門初代豊竹古靱太夫初代鶴澤清六一座看板並べて上演された際に、綱太夫紀伊の国)を歌い花街大流行した。「千本桜の春古靱綱ノ掛合 ばかされの所で荒法師が歌をうたう此時綱太夫師が紀伊の国をうたゐましてから色里各廓で紀伊の国大流行致しましたとの事を師匠の宅ノ御かみさん初代鶴澤清六の娘、七代目太夫伴侶鶴澤きく)からよく御噺しを聞きました」―豊竹山城少掾明治10年1877年1月元長屋敷小家花雲佐倉曙』「宗五郎住家の段 切」を語り竹本四綱翁(四代目太夫実父年忌のため、十八年ぶりに東京へ上る同年3月13日読売新聞に「大坂にて名高い義太夫がたりの織太夫と綱太夫三味せんひき新左衛門此ほど東京へ参り今月十六日より両国昼席へ出るとて、太棹好の連中首を伸して待て居ります。」 とある。織太夫と綱太夫記されているが、後の三代目太夫未だ「織の太夫」であるため、書き間違い思われるまた、同年12月7日東京曙新聞には、「竹本綱太夫幼年の折より大坂にて浄留里を稽古して近頃大に上達したれば、去々月久振にて府下戻り浅草新福井町へ始て看板を出すや否や早くも四方より聞伝ヽヽ浄留里興行依頼するに、十五日間にて百三十円より百五十円位の買切りなるに何所の席にても大当りならざるはなく、殊に此節尾張町仙へ出掛ますに場所柄丈け別して大当りにて毎晩々々客留めになり、なかヽヽ容易に聞くことは出来がたき程のよし。最早万事霜枯時節といひ寄席などは猶更のことなるに、かく繁昌するは全く稽古に骨を折し丈けなりと或人の咄しなり。浄留里の小技すら骨を折れば此通り天下国家経論する有用学問従事する輩の骨も折らず紫綬金章を佩んとするは、浄留里語りにも劣れるものといはざるべけんや。」 とあり、綱太夫人気のほどを伺わせる。 翌明治11年1878年7月愛宕二丁目芝居愛宕町大人形)の杮落し公演菅原伝授手習鑑』にて「車先の松王丸」「手習子やの段(寺子屋の段) 切」を勤めている。同年8月9日付け東京絵入新聞有名な浄瑠璃かたり竹本綱太夫大坂人形文楽座からの迎へが来たので、愛宕町大人形をしまひ次第帰坂するといふことですが、今度越路太夫と春太夫とが入れ替り東京へ登るとの評判。」 とあるように、綱太夫帰阪し、 同年10月堀江芝居八陣守護城』の番付に 「秩冷之砌に御座候得共御区中各々様方益御壯健御渡り被遊大寿至極に存候随而愚拙長年之間御当地にて御引立仁預り未熟不調法芸道を以て幸ひ仕り罷在候処去る丑年竹本四綱翁殿幷に愚父年忌なれば佛参ため十八年ぶりにて古郷なる東京表江登りしにはや二重近きとなれば竹馬の友さへ役果て江潭に遊び屈原にあらねとも語り合ふべき者なければ御当地愛染敷く朝にも夕べにも祈間念願届き此度師匠竹本四郎より至急の使ひに取不敢御地へ急ぐ駅路は車の綱に道を走らせの都の御贔屓の綱をたよりに山川の難所をいとはず再び御地帰り新参以前に替らず何れ茂様御贔屓の御余光を持まして何卒興行初日より永当々々と仰合御ひいき御引立之程偏に奉希上候 己上 月竹本綱太夫 敬白」 と、口上書きをし、大阪舞台復帰。「船の段 加藤正清」と「正清本城の段 切」を語ったこの頃「(明治11年四月頃綱太夫師匠竹本四郎一世一代引祝会ヲ催ストイウ噂ガ三月十三日朝野新聞二出ル」と『義太夫年表明治篇』にある。 明治12年1879年11月博労町稲荷北門定小屋菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段 切」を語るが、この公演中に、東京にて綱太夫死んだという噂が立ち、11月12日付の朝野新聞否定した。「大坂の綱太夫病中死んだ死んだ、と風聞されしを忌々しく思ひ最早全快したれば近々出京し名人太夫張り合ひ、花々しく興行すると云って居るとの事。」 これは、綱太夫自身が病に侵されていたということもあろうが、1年以上東京空けていた綱太夫対す東京御贔屓たちの恨み節でもあろう。この「寺子屋の段」が京・大坂の上方での最後の舞台となった。 翌明治13年1880年3月17日郵便報知新聞に「先頃より噂ありし竹本綱太夫三味線弾き豊澤新左衛門と共に再ひ上京し、昨十六日より昼は両国橋新柳亭へ出ます相替らぬ人気取り贔屓より贈りし幟は川風に翻へり余程の上景気。」とあり、東上し初代豊澤新左衛門東京出座していたことがわかる。そして、「死んだ死んだ」と囃し立て御贔屓久々の綱太夫に幟を送っている。 明治14年1881年3月市村座四代目助高屋高助が「日高川」を初代花柳壽輔振付人形振り演じた際に、六代目竹本綱太夫初代豊澤新左衛門演奏受け持ち33日間公演五百円給金を得る。この際浮世絵残っている。 明治15年1882年1月4日付いろは新聞先年府下愛顧を受大坂帰った道具方某の為に御霊社内の定席で切害され竹本(註:ママ)古靭太夫三味線であった鶴沢六兵衛は、帰坂後は徳太郎改名し一昨年師匠清六の名を継で鶴沢清六となり大坂で腕を鳴せて居たが、今度竹本綱太夫招き寄、汝身の合三味線にして去一日から柳橋新柳亭、薬師宮松京橋大六席に出勤するので何処大入だと、或義太夫好からデンデン伝信。」とあり、二代目鶴澤清六江戸自身相三味線として呼び寄せている。 明治16年1883年9月24日死去享年44歳戒名は竹薗院綱譽業徳義本居士。9月27日絵入朝野新聞に「生て復死す 竹本綱太夫が死だり蘇生たりしたことは一昨日記しましたが、同人蘇生りし後は少しづゝ心快き方に向ひ、粥の少し許りも食るやうになった処、遂に二十五日(註:ママ午後六時頃、享年四十四歳を一期として今度真実に死ました。」という記事がある。筆致ふざけているが、六代目綱太夫病状新聞記事になるほど、東京での六代目綱太夫存在感示している。 全身見事な彫り物をいれていた粋な江戸っ子で、その美声類稀なものであり、江戸浄瑠璃の『恋娘昔八丈』「城木屋の段」『明烏六花曙』『碁太平記白石噺』や、『三十三間堂棟由来』『傾城阿波鳴門』『中将姫』『酒屋』を得意としていた。元は左官をしていたため、街角塗っていた左官を鼻で笑ったところ、左官憤慨し「おかしければてめぇが塗ってみろ」と言ったのを小耳挟み羽織脱いでポンと投げ尻端折コテ鮮やかさに見るものを驚かせたという逸話残っている。 初代豊竹古靱太夫とは義兄弟間柄で、つねに「兄貴」「兄貴」と慕っていたが、芸に於いては非常におそれをなし、当時美音無比評されていた二代目竹本越路太夫(後の摂津大掾)は眼中にはなく、ただただ古靱の浄瑠璃目の上のこぶとしていた。そのため、初代古靱太夫明治11年1878年)に殺害されときには長嘆息をしその死を悼むとともに「もはや天下に怖い語り手は一人もいない」と六代目綱太夫語ったという逸話がある。 石割松太郎はこの逸話について「六代目綱太夫のその心持ちは、やがては綱太夫浄瑠璃の風を如実に物語り、その語り口をも暗示するものとみてよかろうかと私は思っている」と評している。 交友関係広く三代目都々逸坊扇歌義兄弟の盃を交わし、この仲介をした講釈師石川一口法善寺の席で、扇歌が三味線を弾き、六代目綱太夫端唄歌ったところ、大喝采だったという逸話残っている。 先祖崇拝の念がすこぶる厚く法善寺には初代太夫の墓の花入れ二代目太夫二番目師匠である四代目岡太夫の墓をそれぞれ建て、碑文谷正泉寺には四代目太夫の墓を建立している。 また、三番目師匠である竹本山城掾は晩年六代目綱太夫仕送り受けていたと伝わる。 明治17年1884年5月9日郵便報知新聞に「追善大会 明後十一日、浜町の東に於て宮本賀助が催ふしにて故竹本綱太夫追善のため、門弟三代目)織太夫外七名及び竹本太夫鶴澤勇造、同文西川伊三郎補助となり興行人形芝居一座に、軍談師松林伯圓一龍齋貞山神田伯山落語家三遊亭圓朝柳亭燕枝三遊亭圓橘等が加はり、午前八時より午後十一時まで右大会興行するよし。」との記事がある。 川崎大師知友五代目一龍齋貞山 (三代目錦城斎典山)、二代目神田伯山初代柳亭燕枝二代目松林伯圓初代三遊亭圓朝三遊亭圓鶴 他)や門弟建立した立派な碑が現存している。

※この「六代目」の解説は、「竹本綱太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本綱太夫」の記事については、「竹本綱太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:06 UTC 版)

竹本津賀太夫」の記事における「六代目」の解説

元治元年1864年) - 昭和19年1944年2月21日本名米谷大阪生まれ最初三味線方。五代目津賀太夫門下五代目竹本和佐太夫名乗る1898年に六代目津賀太夫襲名義太夫因会会長得意演目は「伽羅先代萩」など。

※この「六代目」の解説は、「竹本津賀太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本津賀太夫」の記事については、「竹本津賀太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:54 UTC 版)

竹本政太夫」の記事における「六代目」の解説

文政7年1824年)?- 明治19年1886年8月5日 二代目竹本太夫三代目竹本阿蘇太夫 → 六代目竹本むら太夫四代目竹本太夫 → 六代目竹本政太夫豊竹山城少掾は、初名を竹本太夫とする) 竹本山城掾の門弟本名森近万延元年1860年8月大坂 座摩社内雪月花吾妻双紙』「参内の段」「奥庭の段」で三代目竹本阿蘇太夫名乗る(同芝居二代目阿蘇太夫八代目竹本紋太夫襲名)。慶応2年1866年9月四条道場北の小家博多織 車ノ段」にて阿蘇太夫事六代目竹本むら太夫襲名明治7年1874年2月松島文楽座木下蔭狭間合戦』「駒木山城中の段 切」にてむら太夫四代目竹本太夫襲名。 「四代竹本太夫)ハ始メ園太夫より阿蘇太夫 次ニ六代目むら太夫より 重太夫四代改名 死去ノ頃ニ六世政太夫襲名 一度モ此名跡ニテハ芝居メズ死ス 墓ダケニ六代目政太夫トアル」「六代目竹本政太夫トアル芝居ニテ披露ナク 名跡相続シ直死去セリ 俗名森近」と、豊竹山城少掾書き残しているように、襲名披露や六代目政太夫としての出演歴はなく、襲名直ち死去したことがわかる。 『偲ぶ俤』にも「大阪市天王寺生玉町長圓寺太夫森近 竹本政太夫 晃院法重翁憲禅定門 明治十九八月五日 行年六十二歳」とある。

※この「六代目」の解説は、「竹本政太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「竹本政太夫」の記事については、「竹本政太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:11 UTC 版)

会津小鉄会」の記事における「六代目」の解説

2008年11月五代目会津小鉄会理事長四代目中川組長馬場美次は、六代目会津小鉄会会長襲名した2017年01月、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長原田昇本名津波廣保)、六代目会津小鉄会舎弟五代目中川組長臼井昭夫破門処分されていた岡山満は、六代目会津小鉄会会長馬場美次を監禁し、他団体FAXで、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長原田昇七代目会津小鉄会会長指名したとの内容送信し、六代目会津小鉄会から絶縁処分された。このため会津小鉄会分裂した

※この「六代目」の解説は、「会津小鉄会」の解説の一部です。
「六代目」を含む「会津小鉄会」の記事については、「会津小鉄会」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:13 UTC 版)

WORST (漫画)」の記事における「六代目」の解説

河内 鉄生(かわち てっしょう) 六代目武装戦線頭。左目横の大きな十字傷と左眉が無いのが特徴。「武装史上、最も破天荒な男」と言われ武装入り初日から将太と目が合っただけで揉めたりトラブルメーカーであるが、仲間思いで情に厚い。武装次期とされる将五に対しては、先輩として厳しく指導をする。 突如訪れた五代目引退後銭屋一家とのいざこざもう一人の六代目候補・清広とのタイマン経て六代目頭に就く。その後、六代目として百鬼慙愧の虎との抗争仲介人になったり他のチームの力にもなった。長年続いた五国休戦協定によって抗争恐ろしさ忘れてしまった世代為に、"ぬるま湯につかりすぎた俺たち後の世代に抗争のことを教え立場だと思う"と言い残し協定解除踏み切った九里虎をライバル視しており、日々身体鍛えている。結果は4回挑んで全敗終わったが、四戦目では、次戦った油断できない九里虎に思わせるほど強くなっている。 ラーメン屋バイトをしていたが、腕前はかなり怪しいらしく、走って逃げ出すほど。 歴代武装戦線中でも読者人気高く実在ファッション誌HEART」では漫画キャラありながら表紙飾った。六代目になる前は、坊主にしたり伸ばしたりするなど、髪型しょっちゅう変えていたが、六代目になってからは、金髪オールバック落ち着いた慙愧の虎の晴本とはよく一緒に飲みに行く親友である。 ある夜、将五と共にバイク走っていた所を交通事故遭い、将五の目の前で命を落とすことになった生の死は多く人間深く悲しませた。将五からはおっかないアニキだったがそのおっかなさの五倍の優しさを持つ偉大な頭だったと称されている。 スピンオフ作品WORST外伝 ドクロ」では主人公担当清広 義巳(きよひろ よしみ) 六代目武装戦線副頭。左首筋昇龍タトゥー特徴キレ揃い歴代副頭に比べると、血の気多く熱い気性を持つが、銭屋使者に対して一歩引かない度量冷静な話術相手説き伏せるクレバーさも合わせ持つ。六代目が誕生してからも取っ組み合い喧嘩をするなど生とは何かと折り合いが悪いが、タイマン張った後は互いをけなしながら認め合っている。亡き後は誰よりも涙を流し、六代目代行として武装支え生に勝るとも劣らない風格貫禄身に付けた。将五の復活同時に六代目代行役目終え無事に引退した実家裕福らしい。 戸川 将太(とがわ しょうた) 六代目武装戦線メンバー参謀的な役割生とは最初兄弟分になった。しばしば生と清広の間に入る。『外伝』では将太目線での話も描かれた。 生の死によって弱音吐いていた難波激怒し叱咤。後に難波立ち直らせるきっかけ作ることとなる。 難波 武志(なんば たけし) 六代目武装戦線メンバーケンカでは生と同等で、武装最強の力を持ち沈黙重戦車」の異名を持つ。 左頬には小2の時に負った大きな火傷の跡があり、それを隠すようにマスクをしている。頬の傷や大柄かつ無口物静かな性格だったことでケンカ売られることに嫌気差し高校へは行かず引きこもりの生活を送っていたが、団地隣の部屋引っ越してきた生に強引に外へ連れ出され武装入り。そのため当初自分救ってくれた生の死を受け入れることが出来なかった。 六代目武装引退した後も、生に合わせる顔がない悔やんでおり、七代目武装末端として留まることを決め漆黒の蠍との抗争ではKKK小林健昇倒し沈黙重戦車と呼ぶにふさわしい活躍見せた高校卒業年代になったのを機に引退した模様外伝ドクロ』では生との出会い描かれている。 佐橋 守(さはし まもる) 六代目武装戦線メンバー五代目から六代目武装中心人物一人として期待されていた。生の死後混乱する戦況の中で清広と共に武装看板を守る。 ガヤ / 加賀谷 隆史(かがや たかし) 六代目武装戦線メンバー色違いライダース特徴片岡 浩次かたおか こうじ) 六代目武装戦線メンバー明るく気さくな性格狂屋との抗争では奇襲受けた生の死後、清広らのサポートをする。

※この「六代目」の解説は、「WORST (漫画)」の解説の一部です。
「六代目」を含む「WORST (漫画)」の記事については、「WORST (漫画)」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 01:11 UTC 版)

藤間勘右衛門」の記事における「六代目」の解説

→ 「四代目尾上松緑」項を参照

※この「六代目」の解説は、「藤間勘右衛門」の解説の一部です。
「六代目」を含む「藤間勘右衛門」の記事については、「藤間勘右衛門」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 00:50 UTC 版)

豊竹若大夫」の記事における「六代目」の解説

後の四代目豊竹巴太夫

※この「六代目」の解説は、「豊竹若大夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「豊竹若大夫」の記事については、「豊竹若大夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 00:58 UTC 版)

常磐津小文字太夫」の記事における「六代目」の解説

天保12年1841年)-明治5年1872年)。常磐津十一世家元九世家元四代目常磐津文字太夫(初代豊後大掾)の実子本名・常岡佐六。通称は佐六文中。義兄弟五代目文字太夫五代目小文字太夫相次いで離縁されたため若くして家元後継者となる。1864年2月中村座「色直肩毛氈」で常磐津太夫文中の名で初舞台同年10月中村座「廂の春酒宴嶋台」で小文字太夫襲名名優四代目市川小團次座頭をつとめ、江戸三座座主中村勘三郎十三代目市村羽左衛門十二代守田勘弥)、團菊左初代河原崎権十郎時の九代目市川團十郎十三代目市村羽左衛門時の五代目尾上菊五郎初代市川左團次)が揃った60年ごとに開催される中村座寿狂言口上錦絵描かれている。以後引き続き三座出勤し活躍した1869年7月中村座大都会成扇絵合」では三代目常磐津文字太夫五十回忌初代市川男女蔵三十七回忌四代目常磐津文字太夫七回忌称し助六」など全四段浄瑠璃一門総出上演した明治維新後には常磐津初世家元前名の頭文字それぞれ取り苗字得た1872年中村座積恋雪関扉」を最後に31歳早世してしまうが、その後は妻ツネが「常磐津太夫文中太夫文中)」の名で流儀をよく取りまとめる代表曲:「紅かん」「助六」「宮古路」等

※この「六代目」の解説は、「常磐津小文字太夫」の解説の一部です。
「六代目」を含む「常磐津小文字太夫」の記事については、「常磐津小文字太夫」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 14:13 UTC 版)

鶴澤徳太郎」の記事における「六代目」の解説

大正4年(1915年)年8月21日 - 昭和56年(1981年11月12日初代鶴澤清友 → 六代目鶴澤徳太郎二代目鶴澤道八 本名坪井澤一。岡山県矢掛町出身四代目鶴澤清六門弟、後に初代鶴澤道八門弟。父は三代目鶴澤清糸義兄四代目鶴澤清六養子初代鶴澤清治、孫には、六代目竹本織太夫鶴澤清馗。曾孫には、二代目豊竹咲甫太夫鶴澤清斗。門弟には、二代目鶴澤清友鶴澤清介鶴澤八介孫弟子に、 孫弟子に、二代目鶴澤藤蔵五代目鶴澤清二郎)、鶴澤清志郎鶴澤清馗(初代鶴澤清治門弟四代目鶴澤友之助二代目鶴澤清友門弟)、鶴澤清丈'、鶴澤清公、鶴澤清允、鶴澤清方、鶴澤清斗(鶴澤清介門弟)がいる。 このように血縁である養子鶴澤清治一門、孫の鶴澤清馗、名跡継承した四代目鶴澤友之助除き直弟子から孫弟子に至るまで門弟の名前の二文字目には全て四画の漢字当てられている(清「友」・清「介」・八「介」・清「丈'」・清「公」・清「允」・清「方」・清「斗」全て四文字)。これは、清六の「六」の字が四画であることに由来し自身二代目鶴澤道八襲名したものの、六代目鶴澤徳太郎襲名したことで鶴澤清六家の当主となったからである。 昭和3年1928年四代目鶴澤清六入門初代鶴澤清友名乗る昭和5年1930年)から2年余り初代鶴澤道八内弟子となる。昭和31年1956年1月道頓堀文楽座杮落公演絵本太功記』「尼ヶ崎の段 前」で豊竹太夫三代目竹本春子太夫)を弾き、六代目鶴澤徳太郎襲名昭和45年1970年4月道頓堀朝日座5月東京国劇場義経千本桜』「道行初音旅」で二代目鶴澤道八襲名。この「道行初音旅」は、太夫四代目竹本越路太夫四代目竹本津太夫九代目竹本文字太夫七代目竹本住太夫)、豊竹十九太夫竹本太夫三味線シン二代目鶴澤道八、六代目鶴澤寛治十代目竹澤弥七八代目竹澤團六(七代目鶴澤寛治)、四代目竹澤二郎竹澤團七)、鶴澤清治と、その当時文楽座が誇るフルメンバーであった高木浩志著書文楽入門』で六代目鶴澤徳太郎二代目鶴澤道八)について「清治本当に可愛く思っているようで、リサイタルでもまめまめしく世話してやりながら、若い人時代ですワ、私はもう一軒宿屋でも建てて隠居したい、などといっていましたが、とんでもない、この人あたりの統率力今日性、具体的な教授法が、ものをいう時期目前なのです襲名したのも、新弟子をとったのも、まあやる気十分といったところでしょう。」と記している。

※この「六代目」の解説は、「鶴澤徳太郎」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤徳太郎」の記事については、「鶴澤徳太郎」の概要を参照ください。


六代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 13:51 UTC 版)

鶴澤友次郎」の記事における「六代目」の解説

明治7年1874年1月7日 - 昭和26年1951年10月8日本名山本大次郎京都洞院五条生まれ。父は鶴澤大造10歳七代目鶴澤三二弟子。後大阪出で5代目豊澤広助の門下で小庄。1889年竹本さの太の相三味線務め1893年父の名2代目大造襲名1898年4代目豊澤糸を襲名1912年6代目次郎襲名長らく3代目竹本津太夫相三味線務めた弟子5代目鶴澤燕三によると、当時としては口ぜいたくな人で、普段食事洋食好み朝食はいつも小岩井バター塗ったトースト紅茶だった。しかし舞台上がる時の弁当は「お腹空き気味でないと三味線を弾くのが苦しいから」と少しのご飯醤油をかけた鰹節をのせたものだけで軽く済ませていたという。

※この「六代目」の解説は、「鶴澤友次郎」の解説の一部です。
「六代目」を含む「鶴澤友次郎」の記事については、「鶴澤友次郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「六代目」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「六代目」の関連用語

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



六代目のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧 (改訂履歴)、田中傳左衛門 (改訂履歴)、鶴澤三二 (改訂履歴)、リンカーン・コンチネンタル (改訂履歴)、鶴澤伝吉 (改訂履歴)、竹沢弥七 (改訂履歴)、竹本紋太夫 (改訂履歴)、竹本濱太夫 (改訂履歴)、竹本むら太夫 (改訂履歴)、竹本織太夫 (改訂履歴)、花柳芳次郎 (改訂履歴)、玉屋庄兵衛 (改訂履歴)、吉住小三郎 (改訂履歴)、竹本氏太夫 (改訂履歴)、常磐津文字太夫 (改訂履歴)、竹本岡太夫 (改訂履歴)、鶴澤清七 (改訂履歴)、鶴澤豊吉 (改訂履歴)、竹本綱太夫 (改訂履歴)、竹本津賀太夫 (改訂履歴)、竹本政太夫 (改訂履歴)、会津小鉄会 (改訂履歴)、WORST (漫画) (改訂履歴)、藤間勘右衛門 (改訂履歴)、豊竹若大夫 (改訂履歴)、常磐津小文字太夫 (改訂履歴)、鶴澤徳太郎 (改訂履歴)、鶴澤友次郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS