六代目
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「太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の記事における「六代目」の解説
爆走!ラブラブどん子 巨大化しているどん子をよけるゲーム。十字ボタンの左か○ボタン(タタコンは面)で走り、LRボタン(タタコンはふち)で左右に移動する。どん子に当たるとミスになるが、2回まで許される。途中どん子は物を落としてきたり、タックルで攻撃してくる。クリア・テクニカル・スピードの3種類のボーナスがある。総合評価は全て「恋の(乗り物の名前)」と表記される。全3ステージで、最後のステージでは何故か某クラシック(演奏に収録されたことはあるが、本作はない)が流れ、障害物に落雷が加わる。最後まで行くと、どん子がキノコ(おそらくマリオの影響)を吐き出し元に戻る。その後、巨大化している時の記憶はなくなっているらしい。 はねつき大会 まきわってグー! 公式サイトのミニゲームにもなっている。 開店!イカ焼き屋台 ミニミニゲーム 「わいわい太鼓合戦」(「七代目」にもある)のモードの1つ。名前の通り、ミニゲームより更に簡単な内容のものになっている。種類はイモ連打・キャラの数当て・カードめくり・くす玉割りの4つ。
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六代目
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(生年不詳 - 嘉永6年8月10日(1853年9月12日)) 五代目の門弟だといわれる。五代目と血縁関係は不明。最初は長吉。三代目源助、四代目佐太郎を経て1842年、43年頃に六代目傳左衛門を襲名。 江戸後期から幕末の貴重な史料・手記『芝居囃子日記』を執筆した。
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六代目
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鶴澤小熊 ⇒ 鶴澤亀助(亀介) ⇒ 三代目鶴澤豊吉 ⇒ 五代目鶴澤伝吉 ⇒ 六代目鶴澤三二 五代目鶴澤友次郎門弟。 『増補浄瑠璃大系図』によれば、西京の出身で、幼名は小熊といった。初出座等詳らかではないが、『義太夫年表近世篇』では嘉永7年(1854年)閏7月博労町いなり境内北の門新席『五天竺』の番付に鶴澤小熊とあり、竹本房太夫を弾いている。この房太夫は後に三代目竹本寿太夫となる人で、同芝居では、二代目津賀太夫改竹本山城掾、二代目寿太夫改三代目竹本津賀太夫の大坂での襲名披露が行われている。同年10月因幡薬師境内『箱根霊験躄仇討』「餞別の段」で房太夫事三代目竹本寿太夫を弾く。このように竹本山城掾の一座に出座していた。 翌安政2年(1855年)京四条北側大芝居太夫 竹本長登太夫『伊賀越道中双六』他にて、小熊事鶴澤亀介(亀助)と改名。番付には二代目寿太夫事三代目竹本津賀太夫、房太夫事三代目竹本寿太夫とあることから、一連の山城掾、津賀太夫、寿太夫の襲名披露の中で亀助へ改名した。安政5年(1858年)頃から四代目竹本濱太夫(後の四代目津賀太夫)を弾く。この後も長く濱太夫を弾いていたが、濱太夫ともう一人を弾くこともあり、慶応2年(1866年)9月四条道場北の小家「三勝 酒屋の段」で初代竹本殿母太夫(後の六代目綱太夫)を弾いている。 師匠二代目鶴澤豊吉(後の五代目鶴澤友次郎)が元治元年(1864年)12月四条北側大芝居の素浄瑠璃興行にて二代目豊吉改三代目鶴澤伝吉を襲名した後、慶応2年(1866年)10月四条道場北ノ小家太夫 竹本山城掾『大江山酒吞童子』にて「頼光館の段」を語る豊竹三光斎を弾き、亀介改三代目鶴澤豊吉を襲名。三代目竹本津太夫(後の七代目綱太夫)を弾く鶴澤小熊もおり、後に師名の亀助を襲名する。以降は、濱太夫ではなく豊竹三光斎を弾いている。 慶応3年(1867年)6月四条道場芝居『木下蔭狭間合戦』の番付にも亀介事三代目鶴澤豊吉とあり、名代 宇治嘉太夫 太夫 六代目竹本染太夫の大芝居にての襲名披露が行われた。座組は山城掾、五代目春太夫、三代目津賀太夫、六代目竹本むら太夫(後の六代目政太夫)、三代目竹本津夫…他であり、師匠の五代目友次郎が三味線の筆頭となっている。同年以降は三代目津賀太夫を弾いている。明治改元以降も山城掾の一座に出座し、『義太夫年表明治篇』では道頓堀竹田芝居での出座が確認できる。 明治5年(1872年)10月京四条道場 宇治嘉太夫芝居にて三代目豊吉改五代目鶴澤伝吉を襲名。『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 切」で三代目竹本津賀太夫を弾いた。同芝居では小熊改め二代目鶴澤亀助、大筆太夫改三代目竹本蟠龍軒等の襲名披露が行われている。六代目鶴澤三二の襲名披露は不詳だが、『増補浄瑠璃大系図』によれば、「後四代目豊吉へ伝吉を譲りて其身は元祖の大名を貰ひて又々改名して(六代目)鶴澤三二と成て出勤致す」とあり、弟弟子の鶴澤庄次郎は遅くとも明治6年(1874年)11月には四代目鶴澤豊吉を襲名しており(同月道頓堀竹田芝居『伊賀越え乗掛合羽』他に鶴澤豊吉の名前がある)、明治17年(1884年)4月に弟弟子の二代目友之助が五代目豊吉を襲名していることから、四代目鶴澤豊吉の五代目鶴澤伝吉の襲名は同年までに行われたことになり、五代目伝吉の六代目鶴澤三二の襲名披露も同様となる。 没年等は不詳。
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六代目 (1980年)
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「リンカーン・コンチネンタル」の記事における「六代目 (1980年)」の解説
「リンカーン・タウンカー」および「リンカーン・コンチネンタル・マークVI」も参照 連邦政府の燃費基準(CAFE)の導入が間近に迫っており、1970年代の大型車がフォード・モーター・カンパニーにとって財政的な脅威となる可能性があったため、1979年にはフォードとマーキュリーのフルサイズセダンの大規模なダウンサイジング(英語版)を実施した。もう一つの大規模なモデルチェンジでは、リンカーン・コンチネンタルは新たに導入され、マーク・シリーズとしては初めて先代モデルよりも小型化されたコンチネンタルマークVI(英語版)のカウンターパートモデルとなった。 キャデラックに遅れる事3年でダウンサイズしたものの、コンチネンタルの再設計によりリンカーンはフォード史上最高の前年比燃費向上(38%)を達成した。 車体重量の大幅な削減に加え4速オーバードライブ・トランスミッションの導入により、リンカーンは競合他社を凌駕して1979年のCAFE評価が最悪だったブランドから、販売されているフルサイズ車の中で最も燃費の良いブランドに転身した。 当時フォードが販売した車の中で最も技術的に進んだ車のひとつである1980年型コンチネンタルは、標準的な4速オートマチックオーバードライブトランスミッション、コンピューター制御エンジンマネージメント(EEC-III)付き電子燃料噴射、デジタル計器パネル、トリップコンピューター(リアルタイムで平均的な燃費と走行距離を計測)を導入した。この10年の間に、これらの機能の多くは他の多くのフォードやリンカーン・マーキュリーの車にも採用された。 6代目のリンカーン・コンチネンタルは1980年のみ販売された。リンカーンのモデルラインの飽和状態を解消するため、6代目コンチネンタルは1981年にリンカーン・タウンカーとして再発売され、実質的には1989年モデルまで続いた。1980年にヴェルサイユ(英語版)が生産中止し6代目コンチネンタルがタウンカーとなった後、コンチネンタルの名称は1982年型モデルからミッドサイズセグメントを担う様変更された(コンチネンタルの1981年型モデルは存在しない)。1982年のコンチネンタルが正式にヴェルサイユの後継車と明言される事はなかったが、キャデラック・セビルの対抗馬となった。マークVIは1983年型モデル終了と共に生産を終了し、マークVIIに置き換えられた。
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:36 UTC 版)
詳細は不明も京都鳥辺山本寿寺に「六代目鶴澤傳吉」の墓碑がある。墓碑右側面には「明治三十六年四月建立」とある。七代目伝吉の没年である明治32年(1899年)よりも後にこの六代目伝吉の墓碑が建立されており、代数に混乱が見られる。墓碑左側面には「芝村内」と彫られている。
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六代目
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六代目 竹澤 彌七(生没年不詳) はじめ五代目の門下で瀧澤藏一、のち竹澤瀧藏を経て、文久2年(1862年)に六代目を襲名。
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六代目
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三代目竹本濱太夫 → 六代目竹本紋太夫 四代目(三代目竹本綱太夫)の門弟。屋号は京屋。 『増補浄瑠璃大系図』に「三綱翁門弟にて師に付添芝居出勤有共委敷は追て調て出すなり、後紋太夫」とある。 嘉永元年(1848年)刊行の見立番付「浄瑠理太夫三味線師第細見記」に「竹本紋太夫故人綱太夫門人始浜太夫云門(紋)太夫卜改古今古功之達者三都の達もの親仁株の人ト称今麻布芋洗坂ニ住」とある。
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六代目(五代目とも)
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竹本津の子太夫 → 六代目竹本濱太夫(五代目とも) → 五代目竹本津太夫 五代目の子息。 五代目竹本津太夫欄参照
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六代目
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文政7年(1824年)?- 明治19年(1886年)8月5日 竹本園太夫 → 竹本阿蘇太夫 → 六代目竹本むら太夫 → 四代目竹本重太夫 → 六代目竹本政太夫 竹本山城掾の門弟。本名:森近蔵。慶応2年(1866年)9月四条道場北の小家『博多織 車ノ段」にて阿蘇太夫事六代目竹本むら太夫を襲名。明治7年(1874年)2月松島文楽座『木下蔭狭間合戦』「駒木山城中の段 切」にてむら太夫改四代目竹本重太夫を襲名。 「四代(竹本重太夫)ハ始メ園太夫より阿蘇太夫 次ニ六代目むら太夫より 重太夫四代ト改名 死去ノ頃ニ六世政太夫ヲ襲名 一度モ此名跡ニテハ芝居勤メズ死ス 墓ダケニ六代目政太夫トアル」「六代目竹本政太夫トアル芝居ニテ披露ナク 名跡ヲ相続シ直死去セリ 俗名森近蔵」と、豊竹山城少掾が書き残しているように、襲名披露や六代目政太夫としての出演歴はなく、襲名後直ちに死去したことがわかる。 『偲ぶ俤』にも「大阪市天王寺生玉町長圓寺 重太夫事森近蔵 竹本政太夫 森晃院法重翁憲禅定門 明治十九年八月五日 行年六十二歳」とある。
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六代目
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(詳細は六代目竹本織太夫欄を参照) 昭和50年(1975年)4月1日 - 大阪市出身。当代。「令和の織太夫」 初代豊竹咲甫太夫 → 六代目竹本織太夫 本名 坪井英雄。祖父は二代目鶴澤道八、大伯父は四代目鶴澤清六、伯父は鶴澤清治、弟は鶴澤清馗、長男は二代目豊竹咲甫太夫、次男は鶴澤清斗、門弟に竹本織子太夫がいる。 NHK Eテレの子供向け番組『にほんごであそぼ』に、2005年よりレギュラー出演している。 2000年4月より大阪市立高津小学校にて「高津子ども文楽」の“先生”を務める。 2018年(平成30年) 八代目竹本綱太夫五十回忌追善「摂州合邦辻」合邦住家の段で六代目竹本織太夫を襲名。
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六代目
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五代目芳次郎の妹の孫・花柳創右(1992年-)。2007年に花柳芳次郎 (6代目)を襲名、2016年に五代目花柳壽輔となる。
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:05 UTC 版)
本名は高科正芳。旧尾張藩士の家系に生まれ、山車の前棚人形を多く手がけた。昭和5年(1930年)6月没。
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:09 UTC 版)
六代目 吉住 小三郎(昭和6年(1931年)11月6日 - 平成18年(2006年)6月18日) 東京の生まれ。五代目の長男。本名は吉住隆雄。昭和29年(1954年)東京芸術大学邦楽科を卒業の後、昭和31年(1956年)に同大学で研究科を修了。この間、昭和30年(1955年)祖父・吉住慈恭に学び、吉住小三治郎を名乗って同年9月の長唄研精会で初舞台。昭和52年(1977年)に長唄十人会を結成。昭和58年(1983年)1月父の死去を受けて六代目吉住小三郎を襲名。翌年、長唄協会常任理事に就任。平成18年(2006年)がん性胸膜炎で死去。 作曲に「平賀源内」などがある。
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六代目
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竹本理太夫 ⇒ 六代目竹本氏太夫 ⇒ 竹本長枝(長恵)太夫 三代目竹本長門太夫の門弟。 『増補浄瑠璃大系図』は「伊勢古市有竹屋親方と云て有扇屋利兵衛の倅也」と記す。 弘化2年(1845年)2月道頓堀竹田芝居太夫竹本長登太夫『仮名手本忠臣蔵』で「大序 鶴ヶ岡の段」を語り初舞台。師三代目長門太夫が一座しない4月同座太夫竹本氏太夫の芝居に出座。『箱根霊験躄仇討』「大序」『けいせい倭荘子』「大切 けい事」を語る。 弘化3年(1846年)8月『伊勢歌舞伎年代記』「八月 古市」の欄に「初世有滝屋事竹本理太夫」とあり、伊勢で素人の大物であったことがわかる。同年の見立番付では東前頭。 竹本理太夫であるが、先代は同門の後に五代目豊竹湊太夫を襲名する初代竹本音羽太夫が名乗っており(改名録に「理太夫改竹本音羽太夫」とある。また通称を音羽湊という)、嘉永2年(1849年)正月道頓堀竹田芝居の五代目豊竹湊太夫襲名披露狂言である『由良湊千軒長者』「三荘太夫住家の段」で中を竹本理太夫、切を音羽太夫事五代目豊竹湊太夫が勤めている。 嘉永4年(1851年)師三代目長門太夫に従い江戸へ下る。5月茅場町薬師境内『ひらがな盛衰記』では「笹引の段」を語る。以降も三代目長門太夫の一座に出座する。 嘉永7年=安政元年(1854年)道頓堀竹田芝居太夫竹本長登太夫で『近江源氏先陣館』「木津ノ守の段 口」『明烏六花曙』「揚屋の段 口」を語る。三代目越路太夫旧蔵のこの芝居の番付の理太夫の上に「理太夫スゴ六の名人」と記されている。『増補浄瑠璃大系図』にも「此人通称神田利八と云て囲碁は東京紹和先生の門人にて五段に進む双六は日本の名人成りと云也」とある。 天保の改革による宮芝居の禁止により稲荷境内を立ち退いていた文楽の芝居が、安政3年(1856年)9月いなり社内に復帰し、既に文楽座第一世櫓下となっていた師三代目長登太夫と共に出座。以降も文楽の芝居に出座。 安政5年(1858年)正月7月稲荷社内東小家太夫竹本長登太夫『義経千本桜』で「嵯峨野庵の段 中」「築地の段 跡」を語るはずであったが、1月5日(一説には6日共)「嵯峨野庵の段」の稽古中に出火し、芝居小屋が類焼したため、芝居は行われず。その後京で芝居を打つが、7月稲荷社内東小家が復帰し、『里見八犬伝』「滝田城の段」を語り、理太夫事六代目竹本氏太夫を襲名。以降も文楽の芝居に出座。役は端場が立端場が続く。 安政7年=万延元年(1860年)7月稲荷社内東芝居『近江源氏先陣館』「四斗兵衛住家の段 中」『苅萱桑門筑紫𨏍』「奥院の段」を六代目氏太夫として語ったのを最後に、続く9月同座より竹本長枝(長恵)太夫と改名。『道中亀山噺』「八つ橋村の段 中」を竹本長恵太夫として語った。10月同座の番付より竹本長枝太夫となっている。 文久2年(1862年)正月いなり社内東小家『大江山酒吞童子』「八瀬里の段 切」で和国太夫事二代目竹本音羽太夫の襲名が行われ、同段を長枝太夫も語っている。 文久4年=元治元年(1864年)10月いなり東小家『出世太平記』「松永切腹の段 切」で切場を語る。同芝居で『心中天網島』「新地茶屋の段 中」も語る。 元治2年=慶応元年(1865年)5月いなり東小家で『彦山権現誓助剣』が立ち、長枝太夫は「六助住家の段 中」を語る予定であったが、「須磨の浦の段 奥」を語る三代目竹本津賀太夫が休演したため、長枝太夫が替る予定で稽古をしていたが、人形の吉川才治から反対があったため、長枝太夫が立腹し、長枝太夫も休演。「須磨の浦の段 奥」「六助住家の段 中」もどちらも二代目越路太夫が語り、好評を博した。 慶応3年(1867年)8月14日没。生涯の多くを師三代目竹本長門太夫が紋下を勤めた文楽の芝居で通した。同年8月稲荷社内東芝居『大手山酒吞童子』「羅生門の段」が最後の出座か。翌9月同座『ひらかな盛衰記』「梶原屋敷の段 中」『花上野誉碑』「志渡寺の段 次」の番付が出ていたが、語ることはなかった。 「役割は出しが病気にて左程にもなかりしが人間命数限り有しか急に重りて養生不叶終に旧八月十四日黄泉に赴かれたり 西成郡北野村自香寺に石碑を建る 慶応三年丁卯旧八月十四日 法名長誉理照禅定門」と『増補浄瑠璃大系図』にある。
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 08:13 UTC 版)
嘉永4年(1851年) - 昭和5年(1930年)2月15日。常磐津十四世家元。佐六文中(常磐津十一世家元・六代目小文字太夫・常岡佐六)妻である常岡ツネの養子。本名・常岡丑五郎。前名八代目常磐津小文字太夫。後の二代目豊後大掾。常磐津浪花太夫を名乗っていたが、派内融和を訴えた十二代目守田勘弥・六代目岸澤式佐の推薦によって、佐六文中妻ツネ(十三世預家元・太夫文中)の養子となり、1888年に八代目小文字太夫を襲名。1889年には第一期歌舞伎座において専属で起用されることが決まる。九代目市川團十郎により制定された新歌舞伎十八番や活暦物、松羽目物など数多く初演し、常磐津節を近代歌舞伎と社会に定着させた功労者。「音声は少々低けれども天晴常磐津純粋の節語り由」「豊後の節廻し得も云われぬ妙味」「小音であるが技巧に優れていた」など評価が高く、色気の要する段物などを得意とし、小音ではあったが一説では名人林中よりも巧みであったとされる。黒田清隆内閣総理大臣の招聘に応じて御邸にて仮名手本忠臣蔵七段目を一段語ったところ大変喜ばれたという。東京音楽学校(現東京藝術大学)の嘱託となり、初代文字太夫からの出演記録「常磐種」の再興、常磐津節の五線譜化に協力した。1926年に甥子九代目小文字太夫に七代目文字太夫を譲り、自身は二代目豊後大掾となる。還暦を過ぎたころには歌舞伎出勤は門弟に任せ各種の演奏会に出演し続け、素浄瑠璃としての常磐津節の魅力を一般社会に広く浸透させた。1927年第1次常磐津協会創立時には六代目岸澤古式部とともに相談役となり、常磐津家元と三味線方岸澤家の和睦に尽力した。掛軸肖像画は、七代目常磐津小文字太夫(のちの初代常磐津林中)の掛軸とともに鏑木清方作。 代表曲:「戻橋」「女鳴神」「三保の松」「大森彦七」「竹生島」「千歳の影」「楠公」
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 15:18 UTC 版)
(安政3年(1856年)2月15日 - 大正7年(1918年)10月8日) 豊竹宮太夫 → 竹本織栄太夫 → 竹本識太夫 → 六代目豊竹岡太夫 四代目の門弟である六代目竹本綱太夫の門弟。本名仁木卯三郎。定紋は抱き柏に隅立て四つ目。 『東京義太夫評判記』には、「十七歳の時より斯道に志し、明治8年に呂太夫の門に入て、宮太夫と称し各所に出席、同十年六代目綱太夫の門弟となり、三月師と倶に上京。織栄太夫を改名。翌年八月帰坂し、同十三年八月再び上京して識太夫となり、同廿一年三月より真打の看牌を揭ぐ」とある。 大阪市西区南堀江の出身。明治29年(1896年)9月六代目豊竹岡太夫を襲名。 明治30年(1897年)神保町 新声館『妹背山婦女庭訓』「吉野川の段 定高」にても襲名披露が行わている。 識太夫時代の門弟に識子太夫がおり、後に五代目竹本錣太夫を襲名している。
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六代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 15:10 UTC 版)
(嘉永5年7月14日(1852年8月28日) - 大正9年(1920年)7月29日)本名は前田鹿之助。 鶴澤勝作 ⇒ 三代目鶴澤綱造 ⇒ 四代目鶴澤勝右衛門 ⇒ 六代目鶴澤清七 五代目門弟。二代目綱造(堂島)の息子。本名前田鹿之助。 嘉永5年(1852年)7月14日生まれ。出生地は大阪市北区曽根崎新地2丁目。 「五代清七門弟にて文久二年戌八月文楽芝居にて朝顔話此時初て出座致し夫より続て出勤致せしが明治二年巳五月より退座して東京へ引越彼地に暮す夫より長らく逗留致明治十四年帰坂致し直様松島文楽座にて大江山此時より改名致出勤す」と『増補浄瑠璃大系図』にある。 文久2年(1862年)いなり社内東ノ小家『生写朝顔話』他の番付に「鶴澤勝さく」の名がある。三味線筆頭は初代豊澤團平。筆下に初代豊澤新左衛門。上2枚目に師三代目勝右衛門がいる。以降も文楽の芝居に出座する。 明治2年(1869年)いなり東芝居『伽羅先代萩』他で文楽の芝居を退座し、東京に向かった。 明治14年(1881年)正月松島文楽座『大江山酒吞童子』他で帰阪し、父の名跡鶴澤綱造を三代目として名乗る。 明治19年(1886年)2月松島文楽座『祇園祭礼信仰記』他で三代目綱造改四代目鶴澤勝右衛門を襲名。この時下2枚目に位置している。師三代目勝右衛門が前年に五代目清七を襲名していた。明治32年(1899年)引退し、六代目鶴澤清七を襲名する。 四代目、五代目、六代目と鶴澤清七の名跡は一線を退いた後に襲名される名跡となっている。六代目清七襲名後は、東京で稽古を楽しみ余生を送った。 大正9年(1920年)7月29日没。享年69歳。戒名:道覚智圓信士。大阪市北区野崎町蓮華寺。 子息に四代目鶴澤綱造がいるが、綱造のまま生涯を終えた為、遺族が鶴澤清七の名跡を当時の鶴澤清六家の当主である坪井澤一(二代目鶴澤道八)に預けた。
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六代目
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鶴澤音次郎 ⇒ 六代目鶴澤豊吉 本名:今西音治郎。文久2年(1862年)12月生まれ。 明治7年(1874年)10月堀江芝居太夫竹本山四郎の番付に鶴澤音次郎がいる。翌11月同座では中央の四代目豊吉(七代目伝吉)の右隣となっている。 明治8年(1875年)1月同座まで番付に名がある。明治14年(1881年)6月新町高嶋座太夫竹本山四郎の芝居で初代綾瀬太夫と相三味線である鶴澤豊造(三味線筆頭)を従え、東京に下る。その東京下りに音次郎が従った。その後、東京で六代目鶴澤豊吉を襲名した。 明治27年(1894年)神田神保町新声館の杮落し公演の番付の上2枚目に鶴澤豊吉がいる。筆頭は鶴澤豊造。明治28年(1895年)2月新声館では『伊賀越道中双六』「岡崎の段」で初代綾瀬太夫を弾いている。以降も、綾瀬太夫を弾いていることが『東京の人形浄瑠璃』で確認できる。 明治41年(1908年)12月27日没。47歳。墓所は蒲田大雲寺。法名:豊誉鶴林浄栄信士。 明治33年(1900年)1月28日70歳で没した鶴澤豊造も蒲田大雲寺に墓所がある。 鶴澤豊造は三代目清七の弟子にして、初代広助(三代目弥七)の門弟の豊澤広右衛門の倅。初名を鶴澤萬吉という。弘化5年=嘉永元年(1848年)2月道頓堀若太夫芝居太夫竹本綱太夫で万吉事鶴澤豊造を襲名。初代綾瀬太夫の相三味線で、初代綾瀬太夫に従い東京へ下った。
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六代目
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(天保11年(1840年) - 明治16年(1883年)9月24日) 竹本小定太夫 → 初代豊竹錣太夫 → 初代竹本殿母太夫 → 二代目竹本織太夫 → 六代目竹本綱太夫 本名:斎藤太市。通称:左官の綱太夫、織太夫の綱太夫。 江戸生まれ。嘉永4年(1851年)三代目竹本長門太夫に入門し竹本小定太夫を名乗る。五代目竹本弥太夫著『弥太夫日記』に同年江戸での出座が記されている。嘉永6年(1853年)師長門太夫に伴われ来阪し、修行をするも、江戸へ戻り、太夫を辞め左官屋となる。再び太夫となるために、四代目豊竹岡太夫の門弟となり、初代豊竹錣太夫を名乗り江戸にて前語りを始める。 元治元年(1864年)再び来阪し、竹本山城掾(二代目竹本津賀太夫)の門弟となり、初代竹本殿母太夫を名乗る。殿母太夫としての初出座は、紋下を師匠山城掾が勤める一座の同年正月京 和泉式部北向の素浄瑠璃の公演で、「お駒 才三 鈴ヶ森」(『恋娘昔八丈』「鈴ヶ森の段」)を鶴澤清次の三味線で語っている。鈴ヶ森は美声の太夫が得意とする語り物であるから、既に美声の太夫として売っていたものと思われる。この後、「酒屋」「中将姫」等、綱太夫ゆかりの出し物も勤めている。慶応元年(1865年)3月四条道場北ノ小家にて「お染 久まつ 質店」(『染め模様妹背門松』「質店の段」)、『義臣伝読切講釈』「植木屋の段」の掛け合いで弥七を勤め、信州路より再び江戸へ下る。 慶応2年(1866年)4月江戸結城座『菅原伝授手習鑑』にて、「車引きの段」「佐田村の段 口」を語る竹本織太夫の名が番付にあり、江戸にて二代目竹本織太夫を襲名していたことがわかる。この公演は結城座の米沢町の再開公演であり、同公演の他の番付では「所作事 傀儡師手振品玉」にも織太夫の名前がある。 しかし、同年9月四条道場北の小家にて「三勝 酒屋の段」を語る竹本殿母太夫の名があり、上方では殿母太夫での出座となった。翌10月同座『大江山酒吞童子』では「保昌屋敷の段」「大切 鬼ヶ城の段」の掛け合いで坂田金時を勤めている。一方、同年11月江戸結城座『伽羅先代萩』「御殿の段 口」『粂仙人吉野桜鳴神』を勤める竹本織太夫があり、急ぎ江戸へ下ったのか、そもそも京・大坂の殿母太夫と江戸の織太夫が同一人物かどうか疑問が残るものの、この公演の次の出座は、殿母太夫として、翌慶応3年(1867年)2月京 四条道場北ノ小家の『妹背山婦女庭訓』「蝦夷館の段」であり、前年11月の江戸での公演からの移動も可能である。 織太夫・綱太夫名跡の後継者である八代目綱太夫は著書『でんでん虫』にて「慶応の初めに二代目織太夫をついでおられます」と記している。 2月の京での公演の後は、4月5月と名古屋の巡業に殿母太夫として参加し、5月若宮御境内で『鎌倉三代記』「三浦別の段」『嫗山姥』「廓話の段」を語っている。 これ以降『義太夫年表 近世篇』では殿母太夫や織太夫の出座が確認できないことから、全国各地を回っていたものと思われる。 『増補浄瑠璃大系図』や『義太夫年表 明治篇』によれば、明治3年(1870年)に西京で二代目竹本織太夫を襲名し、明治5年(1872年)に大阪に下ったとあり、明治初期には上京していたことや、京・大坂でも二代目竹本織太夫の襲名が認められたことがわかる。 豊竹山城少掾は「元治二年二月 京四条南芝居ヘ出勤追々評判宜敷 堺ノ芝居ニテ先代萩竹之間ヲ語リ好人気各所ヘ出勤其後 京都ニ戻ツテ竹本織太夫と再改名ス」と記している。 明治5年(1872年)9月堀江芝居『仮名手本忠臣蔵』にて大阪で出座し、「七段目 一力茶屋場の段」の九太夫と「桃の井別荘の段」を勤める。この「桃の井別荘の段」は後に『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷の段」と呼ばれる演目であり、この時が初演である。翌10月は西京四条道場 宇治嘉太夫座にても上演している。 この後も大阪での出座を続け、明治6年(1873年)9月道頓堀竹田芝居にて『佐倉曙義民物語』「牢屋拷問の段」を語り「古今ノ絶品ニテ大当リ」と評された。この『佐倉曙』「牢屋」については、二代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾 )が織太夫時代の床本を買い求めた際に、「その許殿へ候上者出語り及び不申床内にても決して語り間敷候 借主竹本織太夫、貸主浅野常次郎殿」との三十両の証文が挟み込まれていたそうで、質入れできるほど織太夫の「牢屋」には価値があった。大評判を取る2年前の明治4年(1871年)のことである。次に、古靱太夫が六代目綱太夫時代の「牢屋」の床本を求めると、「給銀は二杯半」と綱太夫の直筆があった。「二杯半」とは「給銀十五割増し(+150%)」とのことである。また、明治9年(1876年)4月に土佐高知へ巡業に行った際には「牢屋」を語るにあたり、餘賂(本給銀とは別の特別の謝礼金)として三十五両を受けた。その高知の小屋の木戸は通常16銭のところ、20銭、30銭とプレミアムが付き、客をすし詰めにしたそうである。六代目綱太夫の人気の凄まじさを物語る。 明治7年(1874年)4月道頓堀竹田芝居『仮名手本忠臣蔵』七段目「祇園一力茶屋の段」にて端役の亭主の役を割り振られ、大いに憤慨するも、「離れ座敷へ灯をともせ仲居ども」の「仲居ども」に新しい工夫を加え、特有の仇な美声も相まって満場を唸らせ、忽ち大評判となり、以後この六代目綱太夫のように語るようになり、今日に至っている。確かに茶屋場の亭主は軽い役であるが、同公演での織太夫の本役は得意の『明烏六つ花曙』「吉原揚屋の段」(明烏)である。 明治8年(1875年)2月道頓堀竹田芝居『三拾三間堂棟木由来』「平太郎住家の段 切」を初代豊澤新左衛門の三味線で二代目竹本織太夫が語り、復活している。これは『国立劇場上演資料集〈378〉』の「上演記録」によれば、文久3年(1863年)いなり社内東小家『卅三間堂棟由来』「平太郎住家の段 切」を四代目豊竹湊太夫が語って以来12年ぶりの上演であった。キングレコード版「八世竹本綱太夫大全集」の解説に「万延元年(1860年)に三世豊竹巴太夫(六代目竹本咲太夫)が没すると、この作品(『三十三間堂棟由来』「平太郎住家の段」)の上演はとぎれてしまう。たまたま明治八年(1875年)二月、大阪の竹田芝居で(二代目)竹本織太夫(のち六世綱太夫)が語ったところ、大好評を博した。全身に彫り物をしている江戸っ子の織太夫は、すでに「城木屋」や「明烏」で大阪市民をやんやといわせていたが、いままた『卅三間堂』の好演で観客は沸き立ったようだ。三月は京都、十一月は再び竹田、翌九年一月は大阪天満、十月は大江橋というように、各地で盛んに上演していく。こんにち『卅三間堂』が綱太夫場といわれるのは、このような事情によるのであろう。随所に残っている花やかなふし回しが、その片鱗を伝えている。」と、倉田喜弘が記している。(明治8年(1875年)2月道頓堀竹田芝居の二代目竹本織太夫・初代豊澤新左衛門の上演は、三世豊竹巴太夫(六代目竹本咲太夫)以来20年ぶりとあるが、前述の通り四代目豊竹湊太夫が語って以来12年ぶりである) 同様に二代目野澤喜左衛門は、「『三十三間堂棟由来』「平太郎住家の段」は二代目竹本織太夫時代に初代豊澤新左衛門と組んで流行させたもので、書きおろされてから長い間廃滅していましたが、法善寺の津太夫さんのもう一代前の綱太夫(※六代目)が新左衛門さんとのコンビで流行し出したもので、勇み肌の綱太夫がいなせな声の「和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島、三に下り松、四に塩釜よ、ヨーイ、ヨーイ、ヨイトナ」と木遣り音頭がうけたそうです。わかの浦の「わか」の所が現在も綱太夫の語った通りにナマッて語られますし、また「切り崩されて枯柳」も下におとして節尻の音調も、その特色を残しています。摂津大掾も綱太夫の生きている間は、これは織さんが語り生かされたものだからと遠慮された程のもので、この話は美談だと思っています。」と語っており、「柳」は(六代目)綱太夫場であるというコンセンサスがあることが伺える。 また、六代目綱太夫没後の明治41年(1908年)4月堀江座にて二代目竹本春子太夫が二代目豊澤新左衛門と「柳」を勤めるにあたり、六代目綱太夫の相三味線を勤め、六代目綱太夫愛蔵の院本(丸本)を所蔵していた八代目竹澤弥七に「柳」を習いに行った際のエピソードが当時の劇評に記されている。「彼れ(二代目竹本春子太夫)は此『柳』を語るに就て、京都にいる弥七師匠(故人綱太夫の相三味線)に交渉し、其結果師の薫陶を受け、熱心にも故人綱太夫の型を学んで一流を発展せしめた其功や偉大なりと云うも敢て過言ではあるまい。兎に角京都通いをしてまで学んで床にかけると云う溢るるその熱心は実に感服なもので将来斯道の大家となるべき余裕はまさにあるのである、弥七師匠も其の熱心に感じて故人綱太夫愛蔵の院本即ち故人が弥七師へ遺物としたる本を贈呈せられたそうで、春子太夫も一種の感に打たれて、その遺物の院本を大切に蔵しているが、斯道家に取っては虎の巻であろう、絹表紙の綴本でサビれたものだ、朱も有難が浄書も中々奇麗だ、恐らく当今の浄書家も斯程に書くことは出来まい。その奥書に『維明治八年乙亥一月上旬、新写之』『竹本織太夫改メ六代目竹本綱太夫四代目竹本織太夫譲受』としてあるから、六代目の綱太夫から四代目の織太夫(註:四代目織太夫=八代目綱太夫ではなく、堀江座座主木津屋吉兵衛の代数外の竹本織太夫。)が即ち七代目の織太夫(註:ママ)と改名した時代に写書したものである。尚当時の芝居番付が附録式に綴ってある。それを一覧するに。 明治八年亥の三月吉日より 京都四条南側に於て 中狂言 三十三間堂 切 竹本織太夫 亥の二月吉日より 竹田芝居にて 切狂言 切 竹本織太夫 明治九年子年十月 大江橋席にて 中狂言 切 竹本織太夫 としてあるから、此時は未だ織太夫であったのである、此時『柳』は既に十八番となり好評嘖々として遂に後世『柳』は綱太夫物と囃われ歴史付きの語物となっているが、要するに前記した如く『柳』の語手として名声天下に轟きしは即ち織太夫時代で、都合三回の芝居に於て名を揚げし人であるから織太夫の綱太夫は名家であったに相違あるまい。茲に誌して読者の参考に供するのである。さて歴史付き綱太夫式の『柳』を語る春子太夫のは前記の経歴であるから、従来演ずる『やなき』とは其節調が異っているようだ、先ずマクラの『妻はー』と云う大マワシがすんで『木伐る音やこたへけん』で強く押シ。『お柳は身内の』で軽くスカス『潔よい名を上てたも』この『イサギヨイ』で強く腹を聞かし、『たもヤア』の所即ち角太夫節(故人角太夫にて、この『ヤア』は角太夫の発明なり)であるが、春子丈は此の『ヤアゝゝゝゝ』を普通のよりは余程重きを置いて語っている。平太郎も力を籠めて充分ハラを語っていたが中々味いがあった。例の『信田の古栖』云々も極く陰気に語り。『斬り』を渋く『崩されて枯柳』で軽く後の『何とて形を残すーべーき』の処拍手大喝采、『杖に我が子を力草、柳がアー』の林清節(三味線の譜)の処が最も佳く。和田四郎も大舞台にて『鳥眼は何の因果ぞと』の辺りは筒一ぱいの語口、例の木やり音頭で『一に権現、二に玉津島』この津島は至極軽妙であったが、段切りになって些し急調になって余裕なく、耳障りのようであったが、是はどう云うものか。要するに此の『やなぎ』は大成功で大に呼物であった。三味線の新左衛門も撥音さえて、あざやかであった毎時も好評であるは目出たしヽヽ(「浪花名物 浄瑠璃雑誌」第67号、明治41年6月)」 明治9年(1876年)9月大江橋席『夏祭浪花鑑』「九郎兵衛住家の段(田島町団七内の段)」にて六代目竹本綱太夫を襲名。以来、竹本織太夫が竹本綱太夫の前名となっている。この九郎兵衛住家の段(団七内の段)は、三代目綱太夫・四代目綱太夫が得意としてきた綱太夫場である。 襲名にあたり、浮世絵師玉園に描かせた摺物と襲名披露狂言である『夏祭浪花鑑』「九郎兵衛住家の段(田島町団七内の段)」に因んだ団七縞と徳兵衛縞の改名(襲名)の挨拶状を作成している。摺物には、文楽座紋下五代目竹本春太夫と六代目綱太夫の師匠にして大江橋席の紋下竹本山城掾 藤原兼房(二代目竹本津賀太夫)が名を寄せている。これは、文楽座・大江橋席の双方の紋下からのお祝いというよりも、五代目春太夫と山城掾は四代目竹本綱太夫の同門であることから、師名である竹本綱太夫の六代目が、春太夫にとっては甥弟子、山城掾にとっては直弟子から誕生したことを祝ってのことである。 四代目竹本長門太夫は『増補浄瑠璃大系図』の六代目綱太夫の欄に「初代政太夫事播磨少掾門弟京初代式太夫系譜の続猪の熊綱太夫より飴屋綱太夫是三代なり四代吉兵衛綱太夫五代隼人綱太夫六代太市綱太夫是を号て綱太夫内と云なり」と記しており、竹本綱太夫の名跡には芸統に混乱がなく、一門のみにて継承されてきたことを「綱太夫内」という言葉で表現している。 同年11月道頓堀弁天座、初代鶴澤清六の引退披露狂言『義経千本桜』「花種蒔 吉野山の段」が五代目竹本春太夫・初代豊澤團平、六代目竹本綱太夫・初代豊澤新左衛門、初代豊竹古靱太夫・初代鶴澤清六と一座の看板を並べて上演された際に、綱太夫が紀伊の国(柳)を歌い、花街で大流行した。「千本桜の春古靱綱ノ掛合 狐ばかされの所で荒法師が歌をうたう此時綱太夫師が紀伊の国をうたゐましてから色里各廓で紀伊の国が大流行致しましたとの事を師匠の宅ノ御かみさん(初代鶴澤清六の娘、七代目綱太夫の伴侶、鶴澤きく)からよく御噺しを聞きました」―豊竹山城少掾 翌明治10年(1877年)1月元長州屋敷小家『花雲佐倉曙』「宗五郎住家の段 切」を語り、竹本四綱翁(四代目綱太夫と実父の年忌のため、十八年ぶりに東京へ上る。 同年3月13日付読売新聞に「大坂にて名高い義太夫がたりの織太夫と綱太夫と三味せんひきの新左衛門が此ほど東京へ参り、今月十六日より両国の昼席へ出るとて、太棹好の連中首を伸して待て居ります。」 とある。織太夫と綱太夫と記されているが、後の三代目織太夫は未だ「織の太夫」であるため、書き間違いと思われる。また、同年12月7日付東京曙新聞には、「竹本綱太夫は幼年の折より大坂にて浄留里を稽古して近頃大に上達したれば、去々月久振にて府下に戻り浅草新福井町へ始て看板を出すや否や、早くも四方より聞伝ヽヽ浄留里興行を依頼するに、十五日間にて百三十円より百五十円位の買切りなるに何所の席にても大当りならざるはなく、殊に此節は尾張町の鶴仙へ出掛ますに場所柄丈け別して大当りにて毎晩々々客留めになり、なかヽヽ容易に聞くことは出来がたき程のよし。最早万事霜枯の時節といひ寄席などは猶更のことなるに、かく繁昌するは全く稽古に骨を折し丈けなりと或人の咄しなり。浄留里の小技すら骨を折れば此通り、天下国家を経論する有用の学問に従事する輩の骨も折らずに紫綬金章を佩んとするは、浄留里語りにも劣れるものといはざるべけんや。」 とあり、綱太夫の人気のほどを伺わせる。 翌明治11年(1878年)7月愛宕二丁目芝居(愛宕町の大人形)の杮落し公演『菅原伝授手習鑑』にて「車先の段 松王丸」「手習子やの段(寺子屋の段) 切」を勤めている。同年8月9日付け東京絵入新聞「有名な浄瑠璃かたり竹本綱太夫は大坂の人形座文楽座からの迎へが来たので、愛宕町の大人形をしまひ次第帰坂するといふことですが、今度は越路太夫と春太夫とが入れ替りに東京へ登るとの評判。」 とあるように、綱太夫は帰阪し、 同年10月堀江芝居『八陣守護城』の番付に 「秩冷之砌に御座候得共御区中各々様方益御壯健に御渡り被遊大寿至極に奉存候随而愚拙義長年之間御当地にて御引立仁預り未熟不調法成芸道を以て幸ひと仕り罷在候処去る丑年は竹本四綱翁殿幷に愚父の年忌なれば佛参のため十八年ぶりにて古郷なる東京表江登りしにはや二重も近き昔となれば竹馬の友さへ役果て江潭に遊びし屈原にあらねとも語り合ふべき者なければ只御当地御愛染敷く朝にも夕べにも祈間念願届き此度師匠竹本山四郎より至急の使ひに取不敢御地へ急ぐ駅路は車の綱に道を走らせ芦の都の御贔屓の綱をたよりに山川の難所をいとはず再び御地に帰り新参以前に替らず何れ茂様御贔屓の御余光を持まして何卒興行の初日より永当々々と仰合御ひいき御引立之程偏に奉希上候 己上 月 日 竹本綱太夫 敬白」 と、口上書きをし、大阪の舞台に復帰。「船の段 加藤正清」と「正清本城の段 切」を語った。 この頃「(明治11年)四月頃綱太夫ガ師匠ノ竹本山四郎ノ一世一代ノ引祝会ヲ催ストイウ噂ガ三月十三日朝野新聞二出ル」と『義太夫年表明治篇』にある。 明治12年(1879年)11月博労町稲荷北門定小屋『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段 切」を語るが、この公演中に、東京にて綱太夫が死んだという噂が立ち、11月12日付の朝野新聞で否定した。「大坂の綱太夫は病中に死んだ死んだ、と風聞されしを忌々しく思ひ、最早全快したれば近々出京して名人重太夫と張り合ひ、花々しく興行すると云って居るとの事。」 これは、綱太夫自身が病に侵されていたということもあろうが、1年以上東京を空けていた綱太夫に対する東京の御贔屓たちの恨み節でもあろう。この「寺子屋の段」が京・大坂の上方での最後の舞台となった。 翌明治13年(1880年)3月17日付郵便報知新聞に「先頃より噂ありし竹本綱太夫は三味線弾き豊澤新左衛門と共に再ひ上京し、昨十六日より昼は両国橋の新柳亭へ出ますが相替らぬ人気取り、贔屓より贈りし幟は川風に翻へり余程の上景気。」とあり、東上し、初代豊澤新左衛門と東京で出座していたことがわかる。そして、「死んだ死んだ」と囃し立てた御贔屓も久々の綱太夫に幟を送っている。 明治14年(1881年)3月市村座で四代目助高屋高助が「日高川」を初代花柳壽輔振付の人形振りで演じた際に、六代目竹本綱太夫と初代豊澤新左衛門が演奏を受け持ち、33日間の公演で五百円の給金を得る。この際の 浮世絵 が残っている。 明治15年(1882年)1月4日付いろは新聞「先年府下で愛顧を受大坂へ帰った後道具方某の為に御霊社内の定席で切害された竹本(註:ママ)古靭太夫の三味線弾であった鶴沢六兵衛は、帰坂後は徳太郎と改名して一昨年師匠清六の名を継で鶴沢清六となり大坂で腕を鳴せて居たが、今度竹本綱太夫が招き寄、汝身の合三味線にして去一日から柳橋の新柳亭、薬師の宮松、京橋の大六席に出勤するので何処も大入だと、或義太夫好からデンデン伝信。」とあり、二代目鶴澤清六を江戸に自身の相三味線として呼び寄せている。 明治16年(1883年)9月24日死去。享年44歳。戒名は竹薗院綱譽業徳義本居士。9月27日付絵入朝野新聞に「生て復死す 竹本綱太夫が死だり蘇生たりしたことは一昨日記しましたが、同人は蘇生りし後は少しづゝ心快き方に向ひ、粥の少し許りも食るやうになった処、遂に去二十五日(註:ママ)午後六時頃、享年四十四歳を一期として今度は真実に死ました。」という記事がある。筆致はふざけているが、六代目綱太夫の病状が新聞記事になるほど、東京での六代目綱太夫の存在感を示している。 全身に見事な彫り物をいれていた粋な江戸っ子で、その美声は類稀なものであり、江戸浄瑠璃の『恋娘昔八丈』「城木屋の段」『明烏六花曙』『碁太平記白石噺』や、『三十三間堂棟由来』『傾城阿波鳴門』『中将姫』『酒屋』を得意としていた。元は左官をしていたため、街角を塗っていた左官を鼻で笑ったところ、左官が憤慨し「おかしければてめぇが塗ってみろ」と言ったのを小耳に挟み、羽織を脱いでポンと投げ尻端折のコテの鮮やかさに見るものを驚かせたという逸話も残っている。 初代豊竹古靱太夫とは義兄弟の間柄で、つねに「兄貴」「兄貴」と慕っていたが、芸に於いては非常におそれをなし、当時美音無比と評されていた二代目竹本越路太夫(後の摂津大掾)は眼中にはなく、ただただ古靱の浄瑠璃を目の上のこぶとしていた。そのため、初代古靱太夫が明治11年(1878年)に殺害されたときには、長嘆息をしその死を悼むとともに「もはや天下に怖い語り手は一人もいない」と六代目綱太夫は語ったという逸話がある。 石割松太郎はこの逸話について「六代目綱太夫のその心持ちは、やがては綱太夫の浄瑠璃の風を如実に物語り、その語り口をも暗示するものとみてよかろうかと私は思っている」と評している。 交友関係も広く、三代目都々逸坊扇歌と義兄弟の盃を交わし、この仲介をした講釈師の石川一口の法善寺の席で、扇歌が三味線を弾き、六代目綱太夫が端唄を歌ったところ、大喝采だったという逸話も残っている。 先祖崇拝の念がすこぶる厚く、法善寺には初代綱太夫の墓の花入れ、二代目綱太夫と二番目の師匠である四代目岡太夫の墓をそれぞれ建て、碑文谷の正泉寺には四代目綱太夫の墓を建立している。 また、三番目の師匠である竹本山城掾は晩年六代目綱太夫の仕送りを受けていたと伝わる。 明治17年(1884年)5月9日付郵便報知新聞に「追善大会 明後十一日、浜町の東華楼に於て宮本賀助が催ふしにて故竹本綱太夫の追善のため、門弟(三代目)織太夫外七名及び竹本越太夫、鶴澤勇造、同文蔵、西川伊三郎が補助となり興行の人形芝居の一座に、軍談師松林伯圓、一龍齋貞山、神田伯山、落語家三遊亭圓朝、柳亭燕枝、三遊亭圓橘等が加はり、午前八時より午後十一時まで右大会を興行するよし。」との記事がある。 川崎大師に知友(五代目一龍齋貞山 (三代目錦城斎典山)、二代目神田伯山、初代柳亭燕枝、二代目松林伯圓、初代三遊亭圓朝、三遊亭圓鶴 他)や門弟の建立した立派な碑が現存している。
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六代目
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(元治元年(1864年) - 昭和19年(1944年)2月21日)本名は米谷安蔵。 大阪の生まれ、最初三味線方。五代目津賀太夫の門下で五代目竹本和佐太夫を名乗る。1898年に六代目津賀太夫を襲名。義太夫因会会長。得意演目は「伽羅先代萩」など。
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六代目
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文政7年(1824年)?- 明治19年(1886年)8月5日 二代目竹本蔦太夫 → 三代目竹本阿蘇太夫 → 六代目竹本むら太夫 → 四代目竹本重太夫 → 六代目竹本政太夫(豊竹山城少掾は、初名を竹本園太夫とする) 竹本山城掾の門弟。本名:森近蔵。万延元年(1860年)8月大坂 座摩社内『雪月花吾妻双紙』「参内橋の段」「奥庭の段」で三代目竹本阿蘇太夫を名乗る(同芝居で二代目阿蘇太夫が八代目竹本紋太夫を襲名)。慶応2年(1866年)9月四条道場北の小家『博多織 車ノ段」にて阿蘇太夫事六代目竹本むら太夫を襲名。明治7年(1874年)2月松島文楽座『木下蔭狭間合戦』「駒木山城中の段 切」にてむら太夫改四代目竹本重太夫を襲名。 「四代(竹本重太夫)ハ始メ園太夫より阿蘇太夫 次ニ六代目むら太夫より 重太夫四代ト改名 死去ノ頃ニ六世政太夫ヲ襲名 一度モ此名跡ニテハ芝居勤メズ死ス 墓ダケニ六代目政太夫トアル」「六代目竹本政太夫トアル芝居ニテ披露ナク 名跡ヲ相続シ直死去セリ 俗名森近蔵」と、豊竹山城少掾が書き残しているように、襲名披露や六代目政太夫としての出演歴はなく、襲名後直ちに死去したことがわかる。 『偲ぶ俤』にも「大阪市天王寺生玉町長圓寺 重太夫事森近蔵 竹本政太夫 森晃院法重翁憲禅定門 明治十九年八月五日 行年六十二歳」とある。
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六代目
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2008年11月、五代目会津小鉄会理事長四代目中川組組長・馬場美次は、六代目会津小鉄会会長に襲名した。 2017年01月、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇(本名:津波廣保)、六代目会津小鉄会舎弟頭五代目中川組組長・臼井昭夫、破門処分されていた岡山満は、六代目会津小鉄会会長・馬場美次を監禁し、他団体にFAXで、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇を七代目会津小鉄会会長に指名したとの内容を送信し、六代目会津小鉄会から絶縁処分された。このため会津小鉄会は分裂した。
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六代目
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「WORST (漫画)」の記事における「六代目」の解説
河内 鉄生(かわち てっしょう) 六代目武装戦線頭。左目横の大きな十字傷と左眉が無いのが特徴。「武装史上、最も破天荒な男」と言われ、武装入り初日から将太と目が合っただけで揉めたりとトラブルメーカーであるが、仲間思いで情に厚い。武装の次期頭とされる将五に対しては、先輩として厳しく指導をする。 突如訪れた五代目の引退後、銭屋一家とのいざこざやもう一人の六代目候補・清広とのタイマンを経て六代目頭に就く。その後、六代目として百鬼と慙愧の虎との抗争の仲介人になったり他のチームの力にもなった。長年続いた五国休戦協定によって抗争の恐ろしさを忘れてしまった世代の為に、"ぬるま湯につかりすぎた俺たちが後の世代に抗争のことを教える立場だと思う"と言い残し協定解除に踏み切った。 九里虎をライバル視しており、日々身体を鍛えている。結果は4回挑んで全敗に終わったが、四戦目では、次戦ったら油断できないと九里虎に思わせるほど強くなっている。 ラーメン屋でバイトをしていたが、腕前はかなり怪しいらしく、柳が走って逃げ出すほど。 歴代武装戦線の中でも読者人気は高く、実在のファッション誌「HEART」では漫画のキャラでありながら表紙を飾った。六代目になる前は、坊主にしたり伸ばしたりするなど、髪型をしょっちゅう変えていたが、六代目になってからは、金髪のオールバックに落ち着いた。慙愧の虎の晴本とはよく一緒に飲みに行く親友である。 ある夜、将五と共にバイクで走っていた所を交通事故に遭い、将五の目の前で命を落とすことになった。鉄生の死は多くの人間を深く悲しませた。将五からはおっかないアニキだったがそのおっかなさの五倍の優しさを持つ偉大な頭だったと称されている。 スピンオフ作品「WORST外伝 ドクロ」では主人公を担当。 清広 義巳(きよひろ よしみ) 六代目武装戦線副頭。左首筋の昇龍のタトゥーが特徴。キレ者揃いの歴代副頭に比べると、血の気が多く熱い気性を持つが、銭屋の使者に対して一歩も引かない度量と冷静な話術で相手を説き伏せるクレバーさも合わせ持つ。六代目が誕生してからも取っ組み合いの喧嘩をするなど鉄生とは何かと折り合いが悪いが、タイマンを張った後は互いをけなしながらも認め合っている。鉄生亡き後は誰よりも涙を流し、六代目代行として武装を支え、鉄生に勝るとも劣らない風格と貫禄を身に付けた。将五の復活と同時に六代目代行の役目を終え、無事に引退した。実家は裕福らしい。 戸川 将太(とがわ しょうた) 六代目武装戦線メンバー。参謀的な役割。鉄生とは最初の兄弟分になった。しばしば鉄生と清広の間に入る。『外伝』では将太目線での話も描かれた。 鉄生の死によって弱音を吐いていた難波に激怒し叱咤。後に難波を立ち直らせるきっかけを作ることとなる。 難波 武志(なんば たけし) 六代目武装戦線メンバー。ケンカでは鉄生と同等で、武装最強の力を持ち「沈黙の重戦車」の異名を持つ。 左頬には小2の時に負った大きな火傷の跡があり、それを隠すようにマスクをしている。頬の傷や大柄かつ無口で物静かな性格だったことでケンカを売られることに嫌気が差し、高校へは行かず引きこもりの生活を送っていたが、団地の隣の部屋に引っ越してきた鉄生に強引に外へ連れ出されて武装入り。そのため当初は自分を救ってくれた鉄生の死を受け入れることが出来なかった。 六代目武装が引退した後も、鉄生に合わせる顔がないと悔やんでおり、七代目武装の末端として留まることを決め、漆黒の蠍との抗争ではKKKの小林健昇を倒し、沈黙の重戦車と呼ぶにふさわしい活躍を見せた。 高校卒業の年代になったのを機に引退した模様。 外伝『ドクロ』では鉄生との出会いが描かれている。 佐橋 守(さはし まもる) 六代目武装戦線メンバー。五代目の柳から六代目武装の中心人物の一人として期待されていた。鉄生の死後、混乱する戦況の中で清広と共に武装の看板を守る。 ガヤ / 加賀谷 隆史(かがや たかし) 六代目武装戦線メンバー。色違いのライダースが特徴。 片岡 浩次(かたおか こうじ) 六代目武装戦線メンバー。明るく気さくな性格。狂屋との抗争では奇襲を受けた。鉄生の死後、清広らのサポートをする。
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六代目
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六代目
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天保12年(1841年)-明治5年(1872年)。常磐津十一世家元。九世家元・四代目常磐津文字太夫(初代豊後大掾)の実子。本名・常岡佐六。通称は佐六文中。義兄弟の五代目文字太夫・五代目小文字太夫が相次いで離縁されたため若くして家元の後継者となる。1864年2月中村座「色直肩毛氈」で常磐津太夫文中の名で初舞台。同年10月中村座「廂の春酒宴嶋台」で小文字太夫を襲名。名優四代目市川小團次が座頭をつとめ、江戸三座座主(中村勘三郎・十三代目市村羽左衛門・十二代目守田勘弥)、團菊左(初代河原崎権十郎時の九代目市川團十郎・十三代目市村羽左衛門時の五代目尾上菊五郎・初代市川左團次)が揃った60年ごとに開催される中村座寿狂言口上の錦絵に描かれている。以後も引き続き三座に出勤し活躍した。1869年7月中村座「大都会成扇絵合」では三代目常磐津文字太夫五十回忌・初代市川男女蔵三十七回忌・四代目常磐津文字太夫七回忌と称し「助六」など全四段の浄瑠璃を一門総出で上演した。明治維新後には常磐津、初世家元前名の頭文字をそれぞれ取り苗字を得た。1872年中村座「積恋雪関扉」を最後に31歳で早世してしまうが、その後は妻ツネが「常磐津太夫・文中(太夫文中)」の名で流儀をよく取りまとめる。 代表曲:「紅かん」「助六」「松花宮古路」等
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六代目
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(大正4年(1915年)年8月21日 - 昭和56年(1981年)11月12日) 初代鶴澤清友 → 六代目鶴澤徳太郎 → 二代目鶴澤道八 本名:坪井澤一。岡山県矢掛町出身。四代目鶴澤清六門弟、後に初代鶴澤道八門弟。父は三代目鶴澤清糸。義兄に四代目鶴澤清六。養子に初代鶴澤清治、孫には、六代目竹本織太夫、鶴澤清馗。曾孫には、二代目豊竹咲甫太夫、鶴澤清斗。門弟には、二代目鶴澤清友、鶴澤清介、鶴澤八介。孫弟子に、 孫弟子に、二代目鶴澤藤蔵(五代目鶴澤清二郎)、鶴澤清志郎、鶴澤清馗(初代鶴澤清治門弟) 四代目鶴澤友之助(二代目鶴澤清友門弟)、鶴澤清丈'、鶴澤清公、鶴澤清允、鶴澤清方、鶴澤清斗(鶴澤清介門弟)がいる。 このように、血縁である養子鶴澤清治一門、孫の鶴澤清馗、名跡を継承した四代目鶴澤友之助を除き、直弟子から孫弟子に至るまで門弟の名前の二文字目には全て四画の漢字が当てられている(清「友」・清「介」・八「介」・清「丈'」・清「公」・清「允」・清「方」・清「斗」全て四文字)。これは、清六の「六」の字が四画であることに由来し、自身は二代目鶴澤道八を襲名したものの、六代目鶴澤徳太郎を襲名したことで鶴澤清六家の当主となったからである。 昭和3年(1928年)四代目鶴澤清六に入門。初代鶴澤清友を名乗る。昭和5年(1930年)から2年余り初代鶴澤道八の内弟子となる。昭和31年(1956年)1月道頓堀文楽座杮落公演『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 前」で豊竹松太夫(三代目竹本春子太夫)を弾き、六代目鶴澤徳太郎を襲名。昭和45年(1970年)4月道頓堀朝日座、5月東京国立劇場『義経千本桜』「道行初音旅」で二代目鶴澤道八を襲名。この「道行初音旅」は、太夫:四代目竹本越路太夫、四代目竹本津太夫、九代目竹本文字太夫(七代目竹本住太夫)、豊竹十九太夫、竹本緑太夫。三味線:シンに二代目鶴澤道八、六代目鶴澤寛治、十代目竹澤弥七、八代目竹澤團六(七代目鶴澤寛治)、四代目竹澤團二郎(竹澤團七)、鶴澤清治と、その当時の文楽座が誇るフルメンバーであった。 高木浩志は著書『文楽入門』で六代目鶴澤徳太郎(二代目鶴澤道八)について「清治を本当に可愛く思っているようで、リサイタルでもまめまめしく世話をしてやりながら、若い人の時代ですワ、私はもう一軒宿屋でも建てて隠居したい、などといっていましたが、とんでもない、この人あたりの統率力、今日性、具体的な教授法が、ものをいう時期が目前なのです。襲名したのも、新弟子をとったのも、まあやる気十分といったところでしょう。」と記している。
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六代目
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(明治7年(1874年)1月7日 - 昭和26年(1951年)10月8日)本名は山本大次郎。 京都東洞院五条の生まれ。父は鶴澤大造。10歳で七代目鶴澤三二の弟子。後大阪に出で5代目豊澤広助の門下で小庄。1889年に竹本さの太の相三味線を務め、1893年に父の名2代目大造を襲名。1898年に4代目豊澤猿糸を襲名。1912年に6代目友次郎を襲名。長らく3代目竹本津太夫の相三味線を務めた。弟子の5代目鶴澤燕三によると、当時としては口ぜいたくな人で、普段の食事も洋食を好み、朝食はいつも小岩井のバターを塗ったトーストに紅茶だった。しかし舞台に上がる時の弁当は「お腹が空き気味でないと三味線を弾くのが苦しいから」と少しのご飯に醤油をかけた鰹節をのせたものだけで軽く済ませていたという。
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