初世(はつよ)
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初世
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初世壽童(1845年7月27日(弘化2年6月23日) - 1917年7月22日)は、本名は若林勇吉(わかばやし ゆうきち)と言い、12歳で花柳流の初世花柳壽輔の弟子となり、15歳で壽輔の幼名である芳松の名を与えられ花柳芳松(はなやぎ よしまつ)となる。壽輔と共同で多くの振付に携わり、また3代目花柳芳次郎と共に中村座の振付を担うなど花柳流の高弟に数えられていたが、壽輔との間で意見の相違が生じ1893年に破門される。その後若柳吉松(わかやぎ きちまつ)と改名し若柳流を創流すると、舞台の振付から離れ花柳界に勢力を求め、柳橋の花街を中心に地盤を築いた。1905年に、還暦を機にで壽童と改名した。 墓所は谷中霊園。かつては浅草妙音寺にあったが戦争の空襲で焼失。戒名は「園林院壽童日宝居士」。
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初世
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(1813年11月10日 - 1887年10月27日) 京都出身。八世・茂山千五郎の弟子でのちに大蔵虎文の弟子となる 目が不自由であった。
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初世
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初世 山本 東次郎 則正(しょせ やまもと とうじろう のりまさ、天保7年8月15日(1836年9月25日)- 明治35年(1902年)11月28日)、本名は山本則正。 豊後国岡藩の江戸詰藩士・赤羽保直の三男として生まれる。11歳で藩から狂言修行を命じられ宮野孫左衛門に師事、後に小松謙吉に師事。晩年に山本東を名乗る。
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初世
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初世 善竹彌五郎(1883年10月4日 - 1965年12月17日)は、本名は「茂山 久治」。京都府生まれ。 実父は士族だったが、2歳のとき、母が狂言方二世茂山忠三郎良豊と再婚し、入籍。養父の薫陶を受け、狂言の舞台に立つ。のち、義父と実母の間に生まれた弟が、三世茂山忠三郎良一。 1941年、次男・吉次郎が大藏彌右衛門(宗家)へ養嗣子として入り二十四世大蔵彌太郎(のち彌右衛門)となったため、以後は宗家後見役を務める。その際に、能楽シテ方金春流七十七世宗家・金春光太郎より「彌五郎」の芸名を贈られた。 庶民的・写実的芸風として高く評価された。1963年、金春流七十八世宗家・金春信高より「善竹」の姓を贈られ、子・孫を含め、一家を挙げて改姓した。 1964年、狂言方として初めて重要無形文化財各個指定(通称・人間国宝)に認定。1965年、神戸で没した。享年82。
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初世
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初世善竹 忠一郎(ぜんちく ちゅういちろう、1910年(明治43年)1月25日 - 1987年(昭和62年)5月23日)は、狂言方大蔵流能楽師。 初世善竹彌五郎の長男として兵庫県神戸市に生まれた。後に京都に移住し、旧制京都紫野中学校(現・京都市立紫野高等学校)中退後、父及び祖父であった2世茂山忠三郎から能楽を学ぶ。 1916年(大正5年)に初めて舞台に立った後、1963年(昭和38年)に日本能楽会会員となる。1981年(昭和56年)には勲五等双光旭日章を受賞した。二世善竹彌五郎は長男。
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