七代目とは? わかりやすく解説

七代目

作者竹田真砂子

収載図書七代目
出版社集英社
刊行年月1998.3


七代目

作者平山夢明

収載図書怖い本 4
出版社角川春樹事務所
刊行年月2003.7
シリーズ名ハルキ・ホラー文庫


七代目

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太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の記事における「七代目」の解説

ミニミニゲーム以外は、「わくわく冒険ランド」でも課題として登場するまるバツ! 採点の達人 答案○×付けゲームで、タタコンでの操作は、面と左ふちが○で右ふちが×。採点者は1Pテツオ2Pはなちゃんとなっている。コースは「かんたん」「ふつう」「むずかしい」の3種類で、全25問(「かんたん」は20問)を早く採点した方が勝ちとなり、全採点かかった時間記録になる(但し制限時間がある)。間違えて反対ボタン押さない進めない。またどんかつ大音符の顔になり(多分怒っている)、テツオ舌を出しはなちゃんは頭を叩いてくる。総合評価全て生徒に関する文章である。ちなみにはなちゃんミニゲーム選択時と勝利した時はメガネになる。問題は主に小学生レベル漢字計算などだが、音楽ゲームだけあって音楽系や、雑学的(「野球は1チーム何人か?」など)なものもある。また一部問題は脳トレゲームの影響見られる裏技として、ポーズしても問題見える時があり、それを利用して正解できることがある。 ぽいぽい雪合戦 先に3回当てた方が勝ちとなる。操作は、十字ボタンの左か○ボタン(タタコンは面)で雪玉投げLRボタン(タタコンはふち)で左右によける。1人プレイではテツオ操作することになり、他のキャラCPUになって出てくる。全3ステージで1面はなちゃん2面お面小僧(きつね)・3面なまはげ総合評価はそれらしい文章である。 飛べ! メカドン! ロケット飛ばし、距離を伸ばすゲーム。まず十字ボタンの左か○(タタコンは面)でエネルギー溜め飛ばしてからは十字ボタン(タタコンはふち)の左右移動し、○(タタコンは面)でパーツ分離するパーツ分離アナウンスされ時のみでいい。移動障害物をよけるためである。その障害物宇宙なのにも関わらずタライ落ちてくることがある2人プレイでは競争になる。総合評価全て宇宙に関する文章である。 サンタが街にやってきた サンタクロースとなった和田どん・和田かつ操作し深夜0時から朝6時までに寝ている子供プレゼント与える。 ○でプレゼント投げて(タタコンは面)、L1R1で左右に移動速度調整(タタコンは縁)し、基本ステージ3面までだが、時間余裕がある場合は、タワーマンション周る4面にも行ける。 なお、高得点成績を取ると、本ミニゲーム使用されている「ジングルベル765番」が演奏曲として解禁されゼビウスディグダグBGM一部文字通り含まれている。

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七代目

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鶴澤伝吉」の記事における「七代目」の解説

鶴澤次郎四代目鶴澤豊吉 ⇒ 七代目鶴澤伝吉 五代目鶴澤友次郎門弟明治32年1899年2月3日61歳で没。墓所大阪谷町八丁目妙徑寺。 豊竹山城少掾は「豊吉改傳吉と//有ますは田村歌の前の四代目豊吉改七代目/鶴澤傳吉此方御霊文楽座明治二十年頃/元太夫で有り尼ヶ崎の琴声事豊竹太夫と名乗/出座す此時合三味線にて久々出勤あり暫時にて/休座明治三十三年二月三日行年六十一」と記している。

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竹沢弥七」の記事における「七代目」の解説

七代目 竹澤 彌七天保2年旧暦8月1日1831年9月6日)- 明治9年1876年9月18日紀州生まれ。はじめ六代目門下竹澤瀧造を名乗り明治2年1869年)に大阪堀江芝居大三味線を弾いたのが話題となったものの、こののち大三味線が大流行して真似る者が現れたことから、大阪浄瑠璃界を追われる羽目となるが、のちに復帰明治7年1874年)には東京大三味線を弾いたことで帝都でもその名が知られるようになった

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竹本紋太夫」の記事における「七代目」の解説

生没年不詳竹本太夫 → 七代目竹本紋太夫竹本綱戸(登)太夫 → 七代目竹本紋太夫竹本綱戸(登)太夫初代竹本津島対馬太夫五代目竹本綱太夫 本名大坂喜兵衛屋号加賀屋越中富山出身四代目竹本綱太夫門弟天保3年1832年4月いなり境内文楽芝居彦山権現誓助剱』の大序 奥を語り竹本太夫として初出座。その後天保6年1835年)頃まで出座続けたが、淡路座への出勤のため、上方を後にしている。天保11年1840年帰阪し、同年正月 大坂稲荷社東芝居『契情小倉色紙』に竹本綱戸太夫として出座し、「鳴戸の段 次」「箱崎松原の段」を語っている。 綱戸(登)太夫襲名時期は明らかではないが、同年3月刊行見立番付三ヶ津太夫三味線人形見立角力」に「東前頭 京 太夫 竹本登太夫」と記されていることから、遅くとも天保11年には綱戸(登)太夫名乗っていたことがわかる。 しかし、同年正月刊行見立番付三都太夫三味線人形見競鑑」に西前大坂 太夫竹本紋太夫記されており、太夫から竹本紋太夫襲名したことがわかる。一方前述通り3月刊行見立番付では太夫から綱登太夫とあることから、太夫紋太夫襲名認められていない。これは、江戸六代目紋太夫存命であったためであり、太夫は、紋太夫諦め、綱登(戸)太夫名乗った。この綱戸(登)太夫の名前は、前述正月刊行見立番付では惣(総)後見筆頭に「大阪 竹本綱戸太夫」と記されており、『義太夫年表近世篇』では出座番付を見つけることが出来ないが、よほどの重鎮であった推察され、紋太夫諦めた太夫に綱戸太夫名跡譲ったものと思われる竹本紋太夫三代目竹本綱太夫の前名であり、綱登太夫も「綱太夫登る太夫」と読めることから、よほど竹本綱太夫への襲名意欲燃やしていたもの推察される(竹本濱太夫から竹本紋太夫三代目太夫と同じ改名歴誇った六代目紋太夫へのライバル意識考えられる)。 天保12年1841年9月刊行の「三都太夫三味線人形改名附録」には「太夫竹本綱戸太夫」と記されており、紋太夫襲名なかったことになっているが、綱太夫家所縁の竹本紋太夫名跡への思い断ちたかった見え天保13年1842年8月大坂 北ノ新地芝居にて『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を竹本紋太夫として語り、七代目竹本紋太夫襲名を再び強行した江戸六代目紋太夫は、同年江戸 薩摩7月29初日8月4日初日とする史料あり)『菅原伝授手習鑑』「車争ひのだん 松王丸」「天拝山の段」を語っており、大坂江戸紋太夫並立した。綱戸太夫紋太夫9月同座の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」を紋太夫として語っているが、同じく江戸紋太夫9月同座『仮名手本忠臣蔵』十段目を語っている。この並立いつまで続いたのかは詳らかではないが、翌天保14年1843年3月以前刊行見立番付三ヶ津太夫三味線大見相撲』「西前江戸 竹本紋太夫」「西前大坂 竹本綱戸太夫」と記されており、今回紋太夫襲名認められることはなかった。 しかし、同年5月四条北芝居木下蔭狭間合戦』「矢はぎの段 奥」を江戸登り 竹本津島太夫として語っていることから、紋太夫襲名強行した綱戸太夫は、江戸下り江戸紋太夫六代目紋太夫)と紋太夫名跡についての話を付け竹本津島太夫と名を改めた推察される。 同年3月刊行三都太夫三味線人形改名附録』に「太夫事 綱戸太夫竹本津島太夫」とあり、紋太夫はなく、綱戸太夫から初代竹本津島対馬太夫ということ問題決着見たものと思われる。しかし、続く紋太夫は、五代目太夫門弟から出ていることから、江戸紋太夫との間で、紋太夫名跡上方に戻すという約束があったとも考えられるまた、嘉永元年1848年8月刊行次第不同 三都太夫三味線改名録」に「太夫 綱戸太夫 加太竹本津島太夫 加賀や」とあり、綱戸太夫から加太夫を経て津島太夫名乗った史料もあるが、天保14年1843年3月以後刊行見立番付三ヶ津太夫三味線人形大見立』に「東前竹本加太夫」「東前竹本綱戸太夫」と加太夫と綱戸太夫同時に記載され同年津島太夫名乗っていることからも、竹本加太夫を名乗ったとは考えづらく、唯一可能性があるとすれば津島太夫として大坂登る前に江戸で綱戸太夫から加太夫を名乗りその後津島太夫と名を改めた場合であるが、前述通り見立番付に「綱戸太夫竹本津島太夫」と記載がある。 竹本津島太夫竹本対馬太夫表記にゆらぎがあり、『義太夫年表近世篇』によれば、どちらの名前も番付で見ることが出来るが、「対馬」が国号であることから、国号使用禁止により「津島」とした理由もあるが、紋太夫襲名強行するほど綱太夫家(の名跡)に思い入れがあったと推察され、竹本津太夫竹本津賀太夫のように「津」の字は二代目太夫営んでいた「津國屋」に由来する太夫家にとって大切な文字であることから、津島太夫名乗った考えられる弘化2年(1845年)刊行の『浪華太夫三味線町々評判大見立』に西前頭〈早ふ聞に行なされ面白い事じゃ ちゃつと壱岐津島太夫記されている。 弘化5年=嘉永元年1848年刊行見立番付「てんぐ噺」に「古ふても出してみなされ皿屋しき是は御家宝物なり 竹本津島太夫 鶴澤重造」とあり、前述の七代目紋太夫襲名強行した天保13年1842年8月大坂 北ノ新地芝居にて語っていた『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を当たり役としていた。また、鶴澤重造とあるよう初代鶴澤重造を長く相三味線としていた。 慶応元年1865年9月大坂 天満芝居にて太夫 竹本対馬太夫紋下となり、二代目太夫ゆかりの『箱根霊験躄仇討』「滝の段 切」を語っている。続く同年11月北ノ新地芝居でも紋下座り、こちらも二代目太夫場の『勢州阿漕浦』「平次住家の段」を語っている。翌慶応2年1866年8月座摩社内では「太夫 竹本対馬太夫 豊竹若太夫」と六代目太夫と共に紋下座っている。 慶応4年=治元年1868年7月四条道場北ノ小家近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」にて対馬太夫五代目竹本綱太夫襲名。翌明治2年1869年)御りやう(御霊芝居3月『仮名手本忠臣蔵』4月五天竺』に「名代 高橋竹造 太夫 竹本綱太夫」として紋下座り出座したが、その後堂上方公家)へ出入りし公家侍となり名を瓜生隼人改めその後西陣辺り風呂屋をしていたと伝わる。 『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事当り役とし、生涯に6回勤め、内4回は五代目竹本春太夫定高勤めている。 その他にも、綱太夫代々演物である『摂州合邦辻』「合邦内の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」を得意とした他、『仮名手本忠臣蔵』山科閑居の段」『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」も度々語っている。 五代目太夫を「盛綱陣屋の段」で襲名した後も、『佐倉曙』「宗五郎内の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」『五天竺』「長者館の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『関取二代鑑』「秋津切腹の段」『本朝廿四孝』「勘助住家の段」『仮名手本忠臣蔵』判官切腹の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」等、歴代太夫演物紋下太夫相応しい語り物を勤めている。

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七代目

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竹本むら太夫」の記事における「七代目」の解説

生年不詳 - 明治17年1884年9月17日初代竹本春栄太夫 → 七代目竹本むら太夫 四代目竹本綱太夫二代目むら太夫)の門弟である五代目竹本春太夫門弟大坂出身にて本名を倭保太郎という。 元治元年1864年7月松島文楽出勤し明治9年1876年松島文楽座妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」雛鳥春栄太夫改七代目むら太夫襲名定高には先代むら太夫である四代目竹本太夫出演している。 明治17年1884年9月17日死去戒名釋教思。「おしき哉行年四十二才若死なり」と『増補浄瑠璃大系図』にある。

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吉住小三郎」の記事における「七代目」の解説

七代目 吉住 小三郎昭和39年1964年) - ) 東京生まれ六代目長男平成20年2008年)に七代目吉住小三郎襲名し家元継承

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竹本氏太夫」の記事における「七代目」の解説

竹本太夫竹本津摩太夫?) ⇒ 陸奥太夫竹本太夫陸奥太夫 ⇒ 七代目竹本氏太夫 二代目竹本津賀太夫竹本山城掾の門弟で後に五代目太夫門弟四代目太夫の「竹本綱太夫門弟見立角力」の東関脇でもあり、四代目太夫門弟でもある。五代目豊澤広助の父。もと京都西陣機屋営んでいた。『増補浄瑠璃大系図』は、「山四郎門弟にて播州高砂魚町住居致して竹本津摩太夫と云後大坂住居致し太夫門弟と成て竹本太夫と云なり」とするが、天保11年1840年)の西前頭に「操太夫陸奥太夫」とあるため、前名は竹本太夫正しく天保6年1835年正月竹屋町長楽亭『妹背山婦女庭訓』「山の段 雛鳥」「杉坂屋」「馬子歌 口」を語る竹本太夫がいる。しかし、二代目竹本津賀太夫門弟であるため、「津」の字のつく竹本津摩太夫名乗ったのも自然であるため、操太夫前に津摩太夫名乗ったか。いずれにせよ竹本津摩太夫は『義太夫年表近世篇』で確認できない。(竹本津満太夫存在する) 翌天保7年1836年5月御霊境内『中将姫古跡の松』三段目 切」を語っており、相当の実力者であることがうかがえる天保9年1838年10月四条道場芝居太夫竹本綱太夫で『伊賀越道中双六』「円覚寺の段 切」と大切所作事一〇三つ巴の紋)七文字』を語っている。11月北の新地芝居嫗山姥』「御殿の段」を鶴澤弁佶と勤め、大切所作事一〇三つ巴の紋)七文字』を勤める。これが『義太夫年表近世篇』で確認できる太夫としての最後出座となる。 陸奥太夫襲名した経緯不明であるものの、天保10年1839年9月北之新地芝居より陸奥太夫出座。『本朝廿四孝』「弐段目 切」、『恋女房染分手綱』「子別れの段 切」を11歳豊竹太夫(後の初代古靱太夫と書き合い勤め、大切 景事語っている。陸奥太夫初代義太夫筑後掾)の高弟であり、門弟からは陸奥伊太夫(初代太夫)がいる。二代目内匠太夫門弟にも陸奥太夫がいる。翌10月竹田芝居十二歳の陸奥太夫が『釜淵双級巴』「中の巻」を鶴澤高麗勤めている。年齢的に息子の後の五代目廣助か(天保2年生まれ)。 以降三代目竹本筆太夫が紋下勤める諸座に引き続き出座する。 天保12年1841年正月道頓堀竹田芝居奥州安達原』の大序勤め竹本太夫と『伽羅先代萩』「御殿の段 切」を語る陸奥太夫同座している。同年の「三都太夫三味線人形改名附録」には「竹本太夫陸奥太夫」とある。同年見立番付では「東前頭京陸奥太夫」「東前大坂竹本太夫」が両名存在する天保14年1843年正月江戸大薩摩座へ出座。この江戸下りの期間だけ、豊竹麓太夫名乗る。『染太夫一代記によれば「いづれ皆々浅待、太夫付添ひは古参政子竹本中太夫、天喜太夫当地だけ豊竹麓太夫と呼ぶ。付添ひは古参鶴沢市太郎錦木太夫付添ひには房事竹本伊勢太夫そのほか座ならび惣一統操り頭兵吉の兄吉田千四、吉田冠二、西川伊三郎当人弁者長口上さわやかにのぶる。後文句に、『何とぞ麓より峠へ登り御ヒイキをえて、古里帰る錦の袖までも、すみからすみ迄づらりと御ヒイキの程をひとへに願ひあげ奉ります』かくの口上大当りして、やがて見物目見え浄るり『太功記十』麓太夫勤めをはり、後は楽屋にて太夫二代鑑』のけいこはおこたりなく、あすより初日打ち続き興行」。ということで、陸奥太夫豊竹麓太夫は『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 切」を「御目見江出がたり」で語った。しかし、3月同座では陸奥太夫出ている。12月道頓堀竹田芝居帰阪番付は「道奥太夫となっている。同年の「三都太夫三味線人形改名附録」には「竹本太夫陸奥竹本太夫」とあり、竹本姓に改姓したことになっているが、天保15年弘化元年1845年正月兵庫芝居番付には引き続き道奥太夫とある。以降陸奥太夫表記になっている同年5月道頓堀竹田芝居では『伊賀越』「岡崎の段 口」で四代目太夫端場勤める。9月四条南大芝居太夫竹本氏太夫四代目太夫紋下勤め芝居出座同年見立番付では西前1枚竹本太夫となっている。 弘化2年1846年)「浪華太夫三味線町々評判大見立」には〈東山坊じや聞すまし近江評判喜美濃よき信濃の能声陸奥〉茂太夫とある。 弘化5年嘉永元年1848年6月兵庫明石芝居太夫竹本綱太夫五天竺』「短山寺の段」を鶴澤三味線竹本太夫語っている。7月なんば新地まつの尾南山素浄瑠璃公演では『阿波鳴戸』「八つ目」を子息豊澤富助の三味線語っている。同年見立番付も「竹本太夫となっている。「三都太夫三味線改名録」には「操太夫太夫 十二屋」とある。「当時名人太夫浄瑠理一本語てんぐ噺」に「音に聞阿波の鳴戸物すごき汐のさし引すさましきこと 道奥太夫 豊澤源之介」とあり、阿波鳴門を得意といたことがわかる。以降芝居番付見立番付竹本太夫となっている。 嘉永7年安政元年1854年)の見立番付には「東前布引滝三人上戸竹本太夫」とある。 安政5年1858年5月名古屋橘町常芝居傾城阿波の鳴戸』「十郎兵衛住家の段 切」を陸奥太夫として語る(端場竹本津太夫が語る)。以降再び陸奥太夫表記戻っている。 安政7年万延元年1860年9月座摩社内太夫竹本山城藤原兼房芝居出座以降竹本山城掾が紋下勤め芝居出座元治2年慶応元年1865年正月天満戎門『伊賀越』「政右衛門屋舗の段 切」で陸奥太夫竹本氏太夫襲名慶応2年1866年2月まで天満戎門の芝居出座4月より江戸結城座出座。『菅原伝授手習鑑』「加茂堤の段」「寺子屋の段 切」を語る。二代目竹本織太夫出座している。8月に帰坂。座摩社内太夫竹本対馬太夫芝居出座慶応3年1867年正月天満芝居以降は、京で出座する。 明治2年1869年2月天満戎門『薫樹累物語』「土橋の段 切」を語る。明治6年1873年5月道頓堀太夫芝居で『浪花大汐譚』「和州弓削村の段」を語る。翌明治7年1874年9月松島文楽座八代目太夫襲名が行われていることからこの頃引退または没した子息五代目廣助の門弟であった豊澤廣仁という三味線弾きが、後に八代目太夫名乗った太夫襲名している。

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常磐津文字太夫」の記事における「七代目」の解説

明治30年1897年2月2日 - 昭和26年1951年5月4日常磐津十五世家元。六代目文字太夫の甥子。本名・常岡鑛之助。前名九代目常磐津小文字太夫六代目文字太夫実子がいなかったため妻きよの弟の子である鑛之助が家元家に養子入りする。兄は六代目常磐津太夫1915年1月三代目小文太夫襲名経て帝国劇場9月興行三景眺容艶」にて六代目文字太夫ワキ語りとして出演九代目小文字太夫襲名披露。その年、襲名記念曲として「常磐」が発表される1926年養父二代目豊後大掾隠退兼ね5月27日28日両日歌舞伎座にて七代目文字太夫襲名披露演奏会開催する襲名新曲として「壽名所」が演奏される1927年第1次常磐津協会設立し初代理事長就任永年にわたる常磐津宗家三味線方岸澤家分立終結導いた1928年東京音楽学校(現東京藝術大学)の御大典記念にて「祝言式三番叟」を奏楽堂御前演奏するその後1941年関西発展目指し関西常磐津協会設立初代会長理事長)も兼任する1934年には歌舞伎座に於いて二代目豊後大掾追善演奏会開催口上市川三升十代目市川團十郎)、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎四代目市川男女蔵三代目市川左團次)が述べて二代目花柳壽輔(壽應)が「老松」で出演した追善新曲色增常磐敷島」が発表された。1940年に「定本常磐津全集(全12巻)」を刊行1946年第2次常磐津協会設立初代会長就任する肖像画伊藤深水作。 代表曲:「常磐」「廓の仇夢(権八)」「義積雪子別(佐倉宗吾郎)」「色增常磐敷島」「壽名所

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七代目

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竹本岡太夫」の記事における「七代目」の解説

明治32年1899年4月1日 - 昭和51年1976年)) 豊澤猿太郎 → 六代目豊澤糸 → 七代目豊竹岡太夫 六代目の子息。本名仁木善雄。東京生まれ大正元年1912年豊澤之助に入門大正4年1915年大阪出て六代目豊澤廣助の門弟となる。昭和10年1935年3月四ツ橋文楽座信州川中島合戦』「輝虎配膳の段」にて二代目豊竹つばめ太夫八代目竹本綱太夫)を弾き猿太改め六代目豊澤糸を襲名同年7月明治座にて出身地東京での披露が行われ、三の替りまで二代目豊竹古靱太夫豊竹山城少掾)を弾く。披露演目『東海道四谷怪談』伊右衛門住家の段 切」『菅原伝授手習鑑』「桜丸切腹の段 切」『義経千本桜』「大物ヶ浦渡海屋の段 切」他。 昭和11年1936年12月二代目豊竹つばめ太夫八代目竹本綱太夫)らと共に新義座を結成新義座が解散してのちは、太夫転じ父の名跡である豊竹岡太夫を七代目として襲名し、吉右衛門劇団チョボ竹本)となり、活躍した

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七代目

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竹本綱太夫」の記事における「七代目」の解説

天保10年1839年) - 明治45年1912年7月23日初代竹本太夫三代目竹本津太夫 → 七代目竹本綱太夫 文楽座第七代紋下(櫓下)。本名桜井源助桜井源助代々名乗る通名)。通称法善寺実家公家雲州出雲国)・薩州薩摩国)に出入りする名鳥商う唐鳥屋を営んでいた。祖父唐鳥松五郎といい、二代目竹本綱太夫門弟で、素人で名を挙げていたが、師匠二代目太夫営んでいた津國屋つのくにや)から津の字を取り初代竹本津太夫名乗る28歳の際に二階より落ち耳が不自由となったため、津太夫名跡息子である小鳥屋松蔵譲り初代竹本蟠龍軒名乗る。 その小鳥屋松蔵が七代目竹本綱太夫の父であり、三代目竹本綱太夫門弟竹本山城掾とは相弟子。父同様素人活躍したのち、津太夫名跡を父より譲られ二代目竹本津太夫名乗り、後に二代目竹本蟠龍軒名乗る。 自らの死亡記事によれば安政3年1856年18歳時に、父の縁故に依り三国屋太夫三代目豊竹巴太夫)の弟子となり、巴太夫一座初代竹本太夫名乗り初出座し、後に竹本山城掾に入門し三代目竹本津太夫名乗ったとするが、安政元年1854年10月因幡薬師境内芝居で「国姓爺 三ノ口」を語る竹本太夫確認でき、この芝居紋下滑稽物語 竹本山城掾であることから、竹本山城掾に入門し初代竹本太夫名乗った考えるのが適切である。また、死亡記事が、三国屋太夫三代目豊竹巴太夫)の弟子表現していることは、この頃大坂で巴太夫紋下勤めており(京の紋下師匠竹本山城掾)、大坂の巴太夫一座出座するための入門解するべきである。確かに安政4年1857年11月大坂竹田芝居太夫『仮名手本忠臣蔵』芝居紋下豊竹巴太夫であり、「大序 ヶ岡の段」を父二代目津太夫、続く「二段目 若狭之助館の段 口」を子息初代竹本太夫(後の三代目津太夫・七代目綱太夫)が語っている。その後大坂で巴太夫一座での出座確認できる大坂師匠竹本山城掾の一座が来た場合はその芝居出座している。 「私の家は祖父の代から浄るりが好きで、祖父津太夫と云ひまして、私の父津太夫都合、私で三代目津太夫になるので御座います」ー本人その後明治8年1875年11月松島文楽座伊賀越道中双六』「沼津の段 (前半)」にて文楽座初出座。明治22年1889年8月紋下準ずる地位である「庵」に入り重きをなす当時紋下であった二代目竹本越路太夫(後摂津大掾)が東京長期公演行っていた間に、文楽座留守預かり当時ライバルであった彦六座に劣ることなく奮闘した功に報いる形で、明治24年1891年2月興行では文楽座第七紋下就任披露狂言は『近頃河原達引』「堀川猿回しの段」。明治41年1908年11月28日喀血し、静養に入る。明治43年1910年)七代目竹本綱太夫襲名するも、引退し明治45年1912年7月23日逝去戒名雲龍軒響譽津海居士門弟二代目豊竹古靱太夫(後の豊竹山城少掾)がいる。 ※「庵」―「明治文楽座の庵は津太夫一人で、津太夫紋下なるだけ技量年功持っていながら紋下越路太夫押しのけるわけにはいかぬから、紋下と同じ紋下の意味置いたのが庵である。」 住居法善寺構えていたことから、通称法善寺」「法善寺津太夫」と呼ばれる。 「法善寺見世をしてられた師匠津太夫)の家は、以前二代目鶴澤勝七さんがやつてられたあとへ這入られたんだと聞いてます。表を見世に使つてられたので、住居手狭で、梯子段のある二畳と、奥の四畳半それだけでした。」と弟子古靱太夫語っている通り伴侶である鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)が見世経営していた。その後見世から「カフェーリスボン」というカフェとなり、さらに四代目清六が経営する天ぷら屋源」となった。「源は天婦羅屋、大阪風の衣のややあついテンプラ主人文楽三味線引きの鶴澤清六。酒は正。梅月や天寅に比敵する一流であった。」と宮本又次の「法善寺界隈由来記」に記されている。源の名前は、鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)と三代目津太夫=七代目綱太夫本名桜井源助からつけられており、鶴澤清六家と竹本津太夫家=竹本綱太夫家が一緒であることを表している。 伴侶初代鶴澤清六の娘である鶴澤きくで、竹本津太夫家=竹本綱太夫家と鶴澤清六家は一緒となり、この後八代にわたり家が続き八代目竹本綱太夫五十回忌追善での六代目竹本織太夫襲名つながっている。主な一族に、初代豊澤新左衛門鶴澤きくの前夫)、二代目豊澤団平娘婿)、三代目竹本大隅太夫娘婿)、四代目鶴澤清六曽孫婿・名跡養子)がいる。 弟子である二代目豊竹古靱太夫は、師匠(七代目綱太夫)の養子であり自らの相三味線である四代目清六のことを「息子はん息子はん」と呼んでいたと八代目竹本綱太夫記している。 「文楽座直系といふと、まづ五代目太夫中心にして、摂津大掾一派と、千日前法善寺住んでゐた故に、「法善寺」の名で呼ばれる竹本津太夫、その他文楽座土着の人々です。」 と石割松太郎記しているように文楽系の重鎮である。 「永く講会長として斯界雑多事件摂津大掾副会長と共に円満解決見て心服す。」と木谷蓬吟記している。 明治35年1902年9月9日京都河原町田中市兵衛別荘にて、小松宮の前で『仮名手本忠臣蔵』九段山科閑居の段」を御前演奏その際に、二代目竹本越路太夫は『本朝廿四孝』「謙信館(十種香)の段」を披露竹本摂津大掾たる令旨の仮書を拝領している。 摂津大掾艶物得意にしたのに対し津太夫(綱太夫)は世話物、「沼津」「湊町」「忠臣蔵四段目」「質店」「酒屋」「兵助内」「鰻谷」「堀川」「橋本」等を得意とした。特に明治元年1868年)の初冬大阪で『日吉丸稚桜』「駒木山城中の段」を自暴気味に語り散らして、しかも特長出してこれを流行させた。また『寿連理』「湊町の段」等上演頻度の低い作品復活させた功績がある。 「温順上品な楽天家滑稽奇才富んで愛嬌があつた。十八番の「日吉丸」で「ほとけ様で無理いふて」を「かみゆうて」をやって大笑ひを買つたのも平気で語り終わった呑気さ、楽屋中では綽名を『お公卿様』歌舞伎見物が飯より好きで、批評奇想天外だったといふ。」 四代目鶴澤叶二代目鶴澤清八)『鶴澤叶聞書』にて、以下のように書き残している。 「御存じのとほり只今文樂座兩立物、津太夫さん、古靱太夫さんお二人とも三代目津太夫さんの門人でゐられます。津太夫さんは後に七代目竹本綱太夫を名乘られました。通名法善寺さんと申し上げます南地法善寺境内にお住まひになつて御留守宅は茶店出してゐられました。 まことに圓滿なお方で、長らく因講の會長をなさつておいでになつて、斯界雑多な事件を處理なされましたが、曾て津太夫さんの御處置不服出たことはなく、皆心服してをりました。當時副會長攝津大掾さんでありました津太夫さんは優さ形で上品な御風采のお方でした。お柔和な一面にまたなかなか奇才富んでゐられて、瓢逸なところがお有りなりました大のおしやれで、お召物なども凝つたものを着てゐられました。夏など、當時流行つた違つた柄を染め分けにした帷子などの上に、いつも折目のくづれぬ薄もの羽織召してゐられました。お頭もあまり多からぬ髪をいつも綺麗に分けてゐられました。樂屋では「お公卿さん」と緯名してをりました。 お得意のうちでも「大江山太夫内」「天王寺村兵助内」「紙治茶屋」「沼津里」「湊町」「橋本」「守宮酒」「夏祭團七内」「妹脊山、酒屋」「白石噺吉原」「戀女房沓掛村」「お俊傳兵衞堀川」「忠臣講釋喜内住家」「忠臣藏四段目」「お妻八郎兵衞鰻谷」「おはん長右衞門帶屋」など殊によろしかつたことを覺えてをります。 ともかくお聲は小音でも、情のよろしいことなんともいへぬところがございました。上品であつて色氣がお有りなりましたので、八重垣姫とか雛鳥とかお三輪とか、またお染とかさうしたものがなかなかよろしうございました毎度申し上げます明治二十年三月、文樂座に「忠臣藏」の通し出ました時の、大評判だつた「茶屋場」の掛合は攝津大掾さん(當時二世越路太夫)のお輕はらはら屋の呂太夫さんの平右衞門津太夫さんの由良之助ありましたが、津太夫さんの由良之助氣品貫祿の備はつたまことに立派な由良之助でございました攝津大掾さんのお輕との例の、「由良さんか」「おゝお輕か、そもじはそこに何してぞ」「わたしやお前にもりつぶされ、あんまりつらさにゑひざまし、風に吹かれてゐるわいな」の文句の掛合ひのところなどのよろしさは、全く絶品と申すほかはございませんでした津太夫さんは京都のお生れで、安政三年竹本山城掾さん--近世チヤリ語り名人--の門に入られ幼名を緑太夫と申され、元治元年三代目竹本津太夫になられ、文樂座へ入座されたのは明治九年十月ありました明治四十三年に七代目竹本綱太夫をお繼ぎになり、同四十五年七月二十三日七十四歳でお亡くなりなりました御趣味としては歌舞伎見物何よりお好きであつたと聞いてをります。

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七代目

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玉屋庄兵衛」の記事における「七代目」の解説

本名高科正守(大正12年1923年)- 昭和63年1988年5月18日)。山車造りを営む家で生まれた父・岩次郎大正12年六代目養子縁組したが、翌年七代目を継ぐことなく死去昭和5年1930年)、六代目死去に伴い7歳で七代目を継いだ全国からくり人形直接見て回るなど独学知識積み上げ各地死蔵されていたからくり復元尽したとされるが、その一方で元々と違う形で「修復」することがあり、からくりの研究家などからの評価高くないとも言われる

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七代目

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会津小鉄会」の記事における「七代目」の解説

2017年1月21日六代目会津小鉄会会長馬場美次は七代目会津小鉄会総裁就任し六代目会津小鉄会若頭四代目いろは会会長金子利典(本名金元)が七代目会津小鉄会会長襲名した一方六代目会津小鉄会若頭心誠会会長原田昇もまた七代目会津小鉄会会長名乗り神戸山口組系と六代目山口組系の組織体存在する事態となった2017年4月京都地方裁判所は、下京区位置する会津小鉄会本部事務所使用禁止とする決定出した2021年1月淡海一家事務所に於いて弘道会竹内会長と野内若頭の下に七代目会津小鉄金子会長出向き金子会長一連の経緯から野内若頭頭を下げ原田氏会津小鉄若頭として戻り一本化した若頭新原氏は本部長降格した

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七代目

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WORST (漫画)」の記事における「七代目」の解説

村田 将五(むらた しょうご) 七代目武装戦線頭。四代目武装戦線副頭・村田十三の弟。「加地屋中」出身。顔に刀傷あり。 天地とは中学時代からの顔見知り。顔の傷は天地につけられたもの。親友拓海と共に中学時代から武装集会顔を出しており、加盟当初から次期頭として目されていたが、生が目の前で事故死したのがきっかけ失意どん底に。黄泉の梟との抗争決着がつくまで行方くらましていたが見事克服し、七代目頭として復活漆黒の蠍との抗争では、天魔KKK姫川敬とのタイマン圧勝し実力の差を見せ付けた前頭生が感情豊かだったのに対し冷静沈着クールな性格だが、ことケンカになれば好奇心旺盛な面もあり、E.M.O.Dとの抗争前に拓海勝手な行動をしないよう釘を刺されていたが、敵将前川宗春単独会い行った腕っぷし強く頭もキレる仲間意識が強すぎる面もあり、六代目時代にはリトルリーグバッテリー組んでいた幼馴染ケガさせ、強請ろうとした狂屋幹部寺門憤怒表情半殺しにした。また、幼馴染との会話から、中学時代怪我をしたことで野球をやめて不良になったらしい(兄・十三影響もあるとのこと)。 E.M.O.Dとの抗争では、頭の前川宗春とのタイマン勝利その後拓海提案E.M.O.D同盟組んだ。 花と光政タイマン立会人にもなったこともあり、鈴蘭月島花鳳仙月本光政とは3人共に認め合っている仲で、将五自身もこの2人刺激されている。 萬侍帝國池島會との抗争では頭の池島長次タイマン倒したその後萬侍帝國との抗争備え鈴蘭鳳仙天地軍団などに協力頼み慚愧の虎同盟を結ぶ。萬侍帝國七人会との7対7タイマン戦では最終6番手務めビスコこと蛭子幸一と対決最初一撃でほぼ意識が飛ぶもその後4回立ち上がり健闘するも敗北。そのタイマン立ち会ったすべての人間が将五に男を見たビスコ勝った時には花とのタイマン希望するも、叶わなかった。 冬先には、生の墓前萬侍帝國との抗争のことや十三働いている大阪知り合いの店に行くことを報告し、それを機に引退決意する藤代 拓海(ふじしろ たくみ) 七代目武装戦線副頭。梅星一家2号室の住人加地中出身で、将五・天地の同級生容姿端麗性格沈着冷静争い事好まない喧嘩実力は非常に高く知略とそれを実現する行動力長けている合気道のような投げ技を使う。当初黒咲工業高校通っていたが、2年生時に家の都合退学しその後バイク屋フジキ」で働いている。旧知の仲で、着用しているライダースジャケット五代目引退時に譲り受けたのである。「フジキ」には、前作メインキャラクターだった鈴蘭25期生・本城俊明(ポン)が先輩として勤めている。 高校入学前に将五らから武装入り勧められその後も度々武装スカウトされていたが、集団行動が苦手などと言って断り続けていた。生の死後、「黄泉の梟」との抗争の裏に「漆黒の蠍」の暗躍があることを見抜き抗争止めるため武装加入し、「慚愧の虎」の頭・晴本を仲裁立てることで抗争鎮め、七代目副頭となった萬侍帝國対抗するためE.M.O.Dとの同盟成立させ、戸亜留市連合萬侍七人会とのタイマン決戦に際しては、国吉と共に副総長・谷に掛け合ってメンバーの無事を確保した

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七代目

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豊竹若大夫」の記事における「七代目」の解説

生没年不詳二代目豊竹巴太夫門下豊竹伊豆太夫、錦太夫経て明治2年頃に七代目若太夫襲名1877年頃に没したという。

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七代目

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常磐津小文字太夫」の記事における「七代目」の解説

天保13年1842年)-明治39年1906年)。常磐津十二世家元十一世家元六代目小文字太夫通称・佐六文中)妻である常岡ツネ十三世家元太夫文中)の養子本名・山蔭(常岡)忠助。後の初代常磐津林中幼少のころ和登太夫に入門し小和登太夫を許されるその後初代豊後大掾内弟子となり、1862年豊後大掾没する初代松尾太夫門下となる。1879年まで二代目松尾太夫名乗っていたが、新富座座元十二代守田勘弥世話家元家に養子入り七代目小文字太夫襲名1882年には1860年以来分れていた常磐津三味線方岸澤派との和解成立させ、1884年には記念曲として「松島」を作曲1886年以降家元家を故あって離れたあとは、初代常磐津林中となり出勤している。豪快自由闊達変幻自在語り口近世邦楽不出世の名人とされ、清元節家元五代目清元延寿太夫長唄研精会創始した四代目吉住小三郎吉住慈恭)など他流名人からも一目置かれる明治39年万朝報には「名人称へられたるは、僅かに能楽梅若六郎五十二世初世梅若実)、宝生九郎宝生流十六世宗家)と常磐津林中三人なりし…」と高い評価受けている。また、明治維新功労者一人である後藤象二郎林中語り口を非常に好んでいた。 代表曲:「釣女」「松島」「白糸」「羽衣」等

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七代目

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田中傳左衛門」の記事における「七代目」の解説

生年不詳 - 万延元年7月20日1860年9月5日)) 六代目との血縁関係不明五代目佐太郎1853年に七代目傳左衛門襲名八代目長男九代目次男

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七代目

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鶴澤三二」の記事における「七代目」の解説

鶴澤常吉鶴澤小庄 ⇒ 二代目鶴澤友之助五代目鶴澤豊吉 ⇒ 七代目鶴澤三二 本名田村常吉通称田村歌。五代目鶴澤友次郎門弟嘉永6年1853年京都市生まれ明治元年1868年7月鶴澤常吉初出座。以降文楽芝居松島文楽座出座する。 明治2年1869年3月稲荷社東芝居(文楽芝居)で常吉鶴澤小庄と改名明治6年1873年2月松島文楽座義経千本桜』で小庄改二代目鶴澤友之助襲名明治8年1875年3月まで松島文楽座出座以降師匠五代目次郎出座する道頓堀竹田芝居へ移る。同年9月道頓堀竹田芝居 太夫竹本春太夫番付鶴澤友之助確認できる明治17年1884年4月松島文楽座二代目友之助改五代目鶴澤豊吉襲名。『國言詢音頭』「五人伐の段」で二代目長尾太夫弾いた。 「此君帖」には明治21年七代目鶴澤三二襲名とある。 明治27年1894年9月30日没。享年42歳戒名:釋常楽京都鳥辺山本寿寺一時初代豊澤團平養子となっていた。六代目次郎三味線の手ほどきをした。実子三代目鶴澤友之助。 「鶴澤豊吉一時清水町團平師ノ/養子成られ京都通称田村歌と申五世友次郎/師ノ門人にて始め友之助と名乗り後ニ此二代長尾太夫ノ合/三味線となり阪地へ出座五代目豊吉を襲名其御人/で有後年七世三二相続明治廿七年九月三十日死/行年四十当今の六世友次郎の手ほどきの/御師匠さんまた近い頃亡しました友之助の実父になり/ます」と豊竹山城少掾記している。

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七代目 (1982年 - 1987年)

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リンカーン・コンチネンタル」の記事における「七代目 (1982年 - 1987年)」の解説

1980年モデルコンチネンタルをフォード・パンサープラットフォームの採用ダウンサイジングした後、リンカーン部門危機的な問題直面していた。1980年初頭コンパクトモデルにあたるリンカーン・ヴェルサイユ(英語版)が生産中止となった後、リンカーンには2車種のフルサイズセダンが残された。リンカーン・コンチネンタルとコンチネンタルマークVIは、それぞれその年の新モデルだったが機能的には全く同じ車だった。マークVIコンチネンタル・タイヤ英語版)のトランクリッドユニークなリアクォーターパネル、テールランプ異なデザインリトラクタブル・ヘッドライト除けば、この2車種にはほとんど違いがなかった。 リンカーン・コンチネンタル1981年初頭1982年モデルとして再登場した。タウンカーに車名改めた先代コンチネンタルとの差別化を図るために、リンカーンデザイナーコンチネンタルの名称をミッドサイズセグメントに移動させた。4ドアセダンのみの設定となったコンチネンタルキャデラック・セビルインペリアル直接意識する様なバストルバック型のリアエンドが採用された。リンカーンスタイリストたちはヴェルサイユバッジエンジニアリングから学んだ教訓生かし高級モデルであるコンチネンタルをフォード・フォックスプラットフォーム(英語版)を共有するフォード・グラナダ英語版)やマーキュリー・クーガー英語版)と差別化するために細心の注意払った結果ヴェルサイユ違って目に付く部分車体パネル共有されていなかった。また、コンチネンタル1984年モデルとして登場したコンチネンタル・マークVII英語版)とホイールベースパワートレイン共有していた。 1981年モデルから、すべての自動車メーカー17文字VINコード使用する事が義務付けられた。最初の3はその車の製造元を示すWorld Manufacturer Identifier世界製造者識別子)であり、1982-1985年型モデルコンチネンタル4ドアセダンとタウンカーにはVINコード1MRがリンカーンの1LNとは別個に設定され、これはコンチネンタル製造元とする事を意味していた。1986年にはフォード・モーター・カンパニーによって状況明らかにされ、コンチネンタルVINコードも1LNに変更されリンカーン製造元とするようになった

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