相馬義胤 (十六代当主)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 相馬義胤 (十六代当主)の意味・解説 

相馬義胤 (十六代当主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 22:07 UTC 版)

相馬 義胤(そうま よしたね)は、日本戦国時代から江戸時代武将戦国大名陸奥相馬氏第16代当主。


注釈

  1. ^ 岩城常隆は亡き蘆名盛隆の姉妹を妻に持ち、母は佐竹義重の姉妹。人取橋の戦いの後、佐竹義重の次男・佐竹義広蘆名氏を継いだ。蘆名亀王丸の祖母であり、須賀川城の女城主である二階堂阿南も佐竹・岩城と同調した。
  2. ^ しばらく田村領は伊達政宗に預けられて伊達家臣・片倉景綱が置かれたが、隠田の発覚を理由に没収された。小田原征伐に不参加の田村宗顕改易。政宗へ小田原征伐へ参陣するように説得した片倉景綱は豊臣氏の直臣の田村領主となるよう秀吉に誘われたが、これを辞退したため、まもなく蒲生氏郷領となり、家臣の田丸具直三春城主となった。
  3. ^ このとき宇多郡北部は相馬側へ返還されてはいない。この地は相馬顕胤伊達晴宗の時代に双方から在野の豪族へ安堵状が当てられていた地であった。江戸時代は伊達氏の家臣が代々住んで実効支配した(新地町)。
  4. ^ 義胤の祖母は稙宗の長女でもある。越河御前は『奥相茶話記』を元とした森鎮夫の著書『戦国相馬三代記』によれば、稙宗の侍女との間に生まれた「秘蔵の娘」とされており、最初は隠し子であった可能性がある。侍女は伊達七郎と、この娘を産んだという。これも政略結婚のひとつであった。
  5. ^ 相馬領南方の領主岩城親隆飯野平城)は正室が佐竹義昭太田城)の娘であり、このとき岩城氏と佐竹氏は不戦関係である。
  6. ^ 「脚力」は飛脚の意。
  7. ^ 以上の天正3年の事項は伊達輝宗による和議斡旋や石川昭光の三芦城帰城の時期から天正2年とする見解もある。
  8. ^ 四本松(しほんまつ)とも書き、旧安達郡(現在の二本松市を含む)阿武隈川以東一帯をさす。
  9. ^ 謀反の時期は『性山公治家記録』(伊達史料)では天正4年(1576年)とされる。
  10. ^ 性山公治家記録では天正10年(1582年)4月上旬に亘理元宗亘理城)を通じて、とされている。『戦国時代の相馬 原町市立博物館(現・南相馬市博物館)平成17年1月22日発行』岡田清一監修
  11. ^ 俗説による。政宗の初陣は伊達資料でも日付がはっきりとしていない。大明神桜の伝説など政宗は初陣で敗れたという説もある。これ以前の天正9年の伊達氏と相馬氏の戦いを相馬資料に基づく「伊達父子」との争いではなく「伊達勢」との争いとした。
  12. ^ 岡田清一は自身が監修した『戦国時代の相馬』で桃生郡深谷の長江氏に宛てた義胤の書状を天正12年(1584年)の10月14日と推察している。内容はこれまで伊達氏との争いのために自由に通信できず残念に思っていたが、岩城氏の仲介により和睦し、周囲は平穏になったことを伝えている。長江氏の居城である小野城(東松山市)は伊達氏大崎氏葛西氏の勢力圏の緩衝地帯に当たる。豊後楯城に収容された長江月鑑斎へ処刑命令が下ったのは天正19年12月7日(「政宗に睨まれた二人の老将」紫桃正隆)。義胤夫人の実家の三分一所氏は長江氏から分出したといわれる。『三分一所家資料 戦国時代の相馬』
  13. ^ 岡田清一は自身が監修した『戦国時代の相馬』で佐藤進一の著書『花押を読む』を引用し、発給年月日が天正12年(1584年)8月1日とされる相馬義胤の書状の花押がそれまで使用していた型から改められ、佐竹義重の花押に似たものを使用していること、そして義胤の「義」の一字が佐竹義重よりの「受用」であることを挙げて、佐竹義重と相馬義胤の以前からの関係性を示唆している。天正12年(1584年)10月6日の蘆名盛隆の死去は南陸奥の情勢に大きな変化をもたらしていた。蘆名家当主であり二階堂盛義の実子である蘆名盛隆は蘆名・二階堂の領地を脅かす田村家と戦いはしたが、政略結婚上、伊達家と戦うことはなかった。ここに天正13年(1585年)5月の伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)での敗北が伝わり、諸大名の蘆名方への与力へ大きく影響した。
  14. ^ 六貫文一騎の計算では1800人以上。『いわき市史』では相馬勢千余人とあり、岩城氏の動員数は相馬氏の3倍以上である。
  15. ^ ただし、この時の相馬勢の動きは相馬史料にはほとんど記録がない。
  16. ^ ただし、原文には発給年が記載されておらず、天正14年説もあり、岡田清一は『戦国時代の相馬』で14年説を太字で年表に記載し、15年説もあるとしている。
  17. ^ 南会津郡久川城の河原田氏・水久保城山内氏を除く。
  18. ^ 小林清治は『宇都宮で逢った秋田実季と相馬義胤』日本歴史学会編集 日本歴史2000年1月号 第620号で天正18年の相馬隆胤の駒ヶ嶺城攻めを相馬側の惣無事令例違反とし、『実季公一代荒増記(弘前市史)』(安政6年(1859年)2月、三春藩士赤松直記が幕末の安政6年に写したもの。原本の所在は不明。)を引用して「太閤様ぇ始テ御目見之時、宇都宮ニて大嶋右衛門督宿老也。」と記し、宇都宮で実季が初めて秀吉に出仕した事を述べ、後に続く「相馬長門五十斗人、実季十五歳」を指して「簡潔なこの記述は、義胤がまさしく宇都宮で出仕を遂げた事実を示している。実季と義胤は宇都宮でめぐり合った。義胤はこのとき四十三歳であるが、十五歳の実季には“五十ばかり”の老成の人と写ったのであろう。」と述べている。文学博士である岡田清一はこれを「一、太閤様江始而御目見乃時、宇都宮ニ而大崎左(ヵ)衛門督宿老也、相馬長門(義胤)[五十計り]人、此時実季公十五歳」[  ]内は割注、として『戦国時代の相馬』に記して写真を掲載している。写真の原文に読点句読点はなく後に「天正十八年也」と続く。「大崎左衛門」とは奥州仕置の末、失脚する大崎義隆であると考えられる。小林も岡田も触れてはいないが、これにより義胤と実季が奥州管領の末裔・大崎氏麾下の武将として出仕しており、義胤が天正16年(1588年)の大崎合戦の前後に大崎・最上方に付き、羽州探題最上義光とともに伊達政宗包囲網を形成したことや、豊臣政権へ領国支配の正当性を訴えた事が推察される。
  19. ^ 寛政重修諸家譜』の佐竹義宣の条文には「四年、浅野幸長黒田長政及び朝鮮在陣の諸将、石田三成と不和にして、前田利長にその旧悪を訴ふるのところ、利長父の喪にあるが故に沙汰に及ばず。よりて諸将憤りにたへず、兵を催し三成を討たんと議す。義宣伏見にありてこのことをきき、まず中務大輔義久・相馬義胤を大坂につかはし、義宣も相ついで彼地にいたり、三成を乗輿せしめ、みずから騎馬にてこれをまもり伏見に帰る」と記される。
  20. ^ 『相馬の歴史と民俗から』岩崎敏夫
  21. ^ この養子縁組から相馬家は佐竹家の奇騎と目された。洞 (武家)の概念に準じて当時(豊臣政権下)の佐竹領に周囲の蘆名領(蘆名義広)・岩城領(岩城貞隆)・多賀谷領(多賀谷宣家)・相馬領などを加えると、常陸国全域から磐城国の海道全域(現在の茨城県福島県浜通り地方に相当)に至り、後に徳川家康と伊達政宗を封じる役目から上杉景勝石田三成とも親交を深めたとみられた。中村藩の『在郷給人記録』には相馬は三成へは一切関与してはいないと嫡子・蜜胤が本多正信へ訴えたことが記されている。

出典

  1. ^ 『同慶寺 相馬家墓地案内パンプレット』
  2. ^ 森鎮雄『戦国相馬三代記』[要文献特定詳細情報]
  3. ^ 伊達文書『福島県史』[要文献特定詳細情報]
  4. ^ 宇都宮文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  5. ^ 会津四家合考所収文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  6. ^ 「伊達氏四代治家記録」天正二年八月二十六日[要文献特定詳細情報]。白鳥長久から伊達輝宗への書状による。
  7. ^ 那須文書『会津若松史8』[要文献特定詳細情報]
  8. ^ 『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条。伊達文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  9. ^ 『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条、『性山公治家記録』同年七月二十日条[要文献特定詳細情報]
  10. ^ a b 『奥相茶和記』[要文献特定詳細情報]
  11. ^ 上杉輝虎公記所収浜崎文書『会津若松市8』[要文献特定詳細情報]・佐竹文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  12. ^ 『藤葉栄衰記』[要文献特定詳細情報]
  13. ^ 松藩捜古所収文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]・大槻文書『郡山史8』[要文献特定詳細情報]
  14. ^ a b 伊達文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  15. ^ 早稲田大学白河文書『白河市史五』[要文献特定詳細情報]
  16. ^ 初瀬川文書『福島県史7』
  17. ^ 首藤石川文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  18. ^ 富田古文雑収所集文書『郡山市史8』[要文献特定詳細情報]
  19. ^ 金上文書『新潟県史資料編5』[要文献特定詳細情報]・滝田為四郎文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  20. ^ 伊達文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]『性山公治家記録』天正十年条[要文献特定詳細情報]
  21. ^ 『性山公治家記録』[要文献特定詳細情報]
  22. ^ 『性山公治家記録』[要文献特定詳細情報]『戦国時代の相馬』[要文献特定詳細情報]
  23. ^ 小田切氏文書『新潟県史資料編4』[要文献特定詳細情報]
  24. ^ 新編会津風土記所収文書『福島県史7』[要文献特定詳細情報]
  25. ^ 『歴代古案』[要文献特定詳細情報]
  26. ^ 『歴代古案』[要文献特定詳細情報]『会津若松市7』[要文献特定詳細情報]『戦国時代の相馬』[要文献特定詳細情報]
  27. ^ 安部文書『三春町史7』[要文献特定詳細情報]
  28. ^ 『大日本古文書伊達家文書』[要文献特定詳細情報]
  29. ^ 「奥相茶和記」(『小高町史』、昭和50年12月)
  30. ^ 『貞山公治家記録』[要文献特定詳細情報]『奥相茶和記』[要文献特定詳細情報]
  31. ^ a b 飯舘村大雷神社碑文[要文献特定詳細情報]
  32. ^ 『奥相茶話記』[要文献特定詳細情報]・『東奥中村記』[要文献特定詳細情報]・『貞山公治家記録』[要文献特定詳細情報]
  33. ^ 岡田清一文書「慶長奥州地震と相馬中村藩領の復興」[要文献特定詳細情報]
  34. ^ 『相馬藩世紀』[要文献特定詳細情報]


「相馬義胤 (十六代当主)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「相馬義胤 (十六代当主)」の関連用語

相馬義胤 (十六代当主)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



相馬義胤 (十六代当主)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの相馬義胤 (十六代当主) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS