宇都宮仕置と奥州仕置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)
「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「宇都宮仕置と奥州仕置」の解説
7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏した。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗がいまだ収まらなかったため、そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。 7月26日、小田原征伐を終え、制圧軍を奥州に向けた豊臣秀吉が宇都宮に到着し、関東諸侯の措置を発表した(「宇都宮仕置」)。義胤は三郡の本領を安堵された。「東奥中村記」によれば、小田原攻めの際に、相馬氏は遅参したために領地を召し上げられそうになったが、公儀取次であった石田三成の執り成しで事無きを得たという。葛西晴信・大崎義隆の両名は、小田原に参陣しなかった事を理由に領地を没収された。8月9日、秀吉が黒川城に入り、奥州仕置を発令した。伊達氏は所領を大きく減らし、特に昨年併合した旧蘆名領は没収された。蘆名氏の旧領へは蒲生氏郷が、大崎氏・葛西氏の旧領には木村吉清・清久父子が封ぜられた。 10月初旬、葛西大崎一揆が勃発した。12月7日、三郡検地の結果、相馬氏は宇多・行方・標葉3郡の内に48,000石の安堵となった(豊臣秀吉朱印宛行状)。
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