二条斉敬
二条斉敬
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二条 斉敬(にじょう なりゆき、旧字体: 二條齊敬)は、江戸時代後期から明治時代にかけての公卿。左大臣・二条斉信の次男。官位は従一位、関白、左大臣。二条家26代当主。日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政[注釈 1]。茶の湯を嗜み、自作の茶杓などが現存している。
注釈
- ^ 慶応3年(1867年)の王政復古の大号令の際に摂政・関白の職が廃止されたため、結果的に最後の関白となった。なお、その後摂政職は明治22年(1889年)制定の旧皇室典範により皇族に限って復活し、現在の皇室典範にも引き継がれた。実際に大正10年(1921年)に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政となった例がある。皇族以外では斉敬が最後の摂政である。
- ^ 『中山忠能日記』文久三年七月二十七日条、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第二巻などに掲載されている。長州藩士宍戸元礼の正室となり宍戸親基を生んだ娘がいるとされる。佐幕派の公家である徳大寺家に家臣として仕え、文久3年(1863年)に、襲撃してきた熊本藩士の上松友胤という者と互いに刺し違える形で死亡したという(こちらより)。
出典
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